表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ラスタバン王の給仕  作者: 平 啓
第三部
15/38

1.竜使いの村

<旅程>

30日目

 オクラーテ(麦畑)

  →森大木洞野営

31日目

 大木洞→(竜使いの村)


挿絵(By みてみん)


 管理官の言ったように夕方から風が出始めた。森の中を通る道が、枝を張った木々で暗くざわめいている。昼過ぎの出立で夜までに竜使いの村へ行き着けなかったが、幸い野宿に適した大木のうろを見つける事が出来た。ただ強風に火を熾せず、洞の中に置いた小さなカンテラだけが頼りとなる。

 簡単な食事を終え、エナムスは先に寝ろと言いながら毛布を引き出した。地面は乾いており、風さえしのげれば寝心地は悪くはない。はいと返した見習いは毛布に丸まったものの、溜息が幾度か漏れて眠れない様子である。この溜息が麦畑から続いていたことをエナムスは気付いていた。しかし強いて問うこともせず、自分も洞の入り口に山刀を抱えて背を落ち着かせる。今夜は寝ずの番かなと考えていると、奥から見習いが呼んだ。

「あの……親方」

「なんだ?」

 前方の暗闇に顔を向けながら応えると、しばらくして声が続く。

「……俺、親方に言ってないことがある……」

「何をだ?」

「悪気はなかったんです……悪いかなとは思ったんですけど……」

 再びの間に、エナムスは無言でその先を待った。

「俺、イクスミラレスで使っちまったんです……貰った給料」

「……自分の給料をどう使おうと、お前の勝手だろう。むこう一カ月、小遣いなしで過ごせるなら」

 洞の奥に声をかけた途端、見習いがすぐ傍まで這ってくる。

「でも、俺、元締の借金、払わなかったんです!」

「あ、ああ!?」

 その切羽詰まった勢いに、エナムスは思わず身を引いた。目の前の暗がりに迫る必死の形相。

「借金て……」眉を寄せて漸く思い出す。「ああ、そんなことがあったな。あれはベオル酒か?」

「そうです」アシェルは懐から、皺だらけの書付を取りだした。「これには、今月から毎月給料毎に返すってあるのに、初っ端から返さなくて……」

「ちょっと待て」親方は怪訝そうに、若者を見下ろした。「なんで借用書の原本をお前が持っているんだ? 大体写しを作ったのか? それは」

「いいえ」見習いが首を振る。「ベントナの酒場で元締がテーブルに忘れて行ったので、後で渡そうと俺が持っていたんですけど、渡しそびれて……」

「あの馬鹿!」エナムスは苦虫をかみつぶしたような顔で、鋭く舌打ちした。「大体、小銭で財布が膨れてみっともないなどとほざく輩だからな」

 呟いて大きく息をつくと書付を取り上げ、二枚四枚と破り裂く。若者の声があっと小さく上がった。

「もう、こんなものは気にするな。どうせ向こうも忘れている。あいつにとっちゃ、どうでもいいことなんだ」

 それでも暗い地面に落ちた紙切れをアシェルは拾い、重ねてまた自分の懐に戻した。

「来月から返せばいいですかね?」

「勝手にしろ。律儀なもんだ」

 それもマニーのお仕込みかと訊くと、アシェルは頷き、俺も自分で考えましたと暗がりの中で笑顔を向けた。

「アシェル」

 毛布に戻ろうと身を返した背に、声がかかる。

「イクスミラレスであの晩、どこに行っていた?」

 エナムスにとって長くわだかまっていた問いだった。即答は期待してなかったので、続く沈黙は予想通りだ。ただ、今まで手に取るようだった若者の表情が、急に知らないものへと変化し、まったく読めなくなる。もとより戸惑いも迷いもない。漸く返ってきた言葉は意外だった。

「内緒です」体の向きを変え、膝をついて洞の奥へと下がって行く。「今度、話します……でも、大したことじゃないです」

 だったらどうして今話せないのか、と言いかけたのを、エナムスは喉の奥に押し込んだ。驚くほど昂ぶっている自身に気がつき、きつく目を閉じる。

 森の遥か上の銀砂の夜空を、幾重にも群雲が走って行った。


 カンテラを一番小さく絞った灯りの中に、見習いの寝顔が浮かんでいる。昨夜の寝苦しさが残る上に麦畑を駆け回ったせいもあって、かなり深くに寝入っている。エナムスは、視線を洞から森の中の闇に戻した。風は相変わらず吹き荒れ、ときどき山鳴りもしたが、木々の密生しているこの辺りでは、下生えが落ち着きなく揺れる程である。それでも瞬間的な強風に千切れた木の葉が、暗がりの中で舞い上がった。

 その風がしばし収まり、一時の静寂が下りた。エナムスは小さく身じろぎして、山刀の鞘の小刀を引き抜き、暗闇に向ける目を細めた。濃い木の影に潜む漆黒の闇。その闇に向かって呟く。

「なんの用だ……」

 微かな気配がそれに応える。

「近寄るな」

 腕が素早く動いて、離れた幹に小刀の刺さる音が上がった。近くの下生えが僅かにざわめいて揺れる。山刀を抜いたエナムスはゆっくり立ち上がり、姿の見えない相手に向かって視線を走らせた。たちまち遠退く気配。しばらく息を殺して周囲を窺った後、刃を収めながら洞の奥を覗くと、見習いが変わらない安らかな寝息を立てていた。それを見守る眉間の皺が一層深くなる。

「……こいつなのか?」気配の消えた背後を肩越しに見やる。「今更、何故だ?」

 遠くの山鳴りがまた始まり、風が戻ってきた。


挿絵(By みてみん)

エナムスと得物


 空が白み、森の中の道筋がようやく辿れるようになるや、直ぐに彼らは出発した。出がけに厳しい顔つきの親方が、いつでも得物を抜けるよう準備をしておけと命じたので、アシェルは一夜明けての状況の急変を知った。進む順も前後入れ替わり、背後の親方がいつにも増して押し黙っているのも、これまでにない警戒を周囲に向けているためだ。風は収まることなく、木々の高い枝を大きく揺らし、心の内の不安を掻き立てる。時折舞う葉の切れ端が頬をかすめると、緊張のせいか余計に鋭い感覚が走った。

 後ろから追い立てられるように、いつもより早い速度で進んでいたが、突然親方が更に歩を速め、追い抜き様に頭を下げていろと声をかけた。前方をしばらく行ったところでロバを降り、腰の山刀を抜きながら、そろりと下生えの中に姿を消す。固唾をのんで待っていると、いきなり小動物のような悲鳴が上がった。茂った枝が派手な音をたてて揺れ、再びエナムスが現れる。

 山刀を持つ手とは反対側の手が掴んで引きずり出したのは、十歳ほどの男の子だった。

「離せ、離せ!」

 片腕を持ち上げられた子どもが、手足を振り回して暴れる。肩が抜けるのではとアシェルは心配したが、エナムスが手を離したので、地に落ちて尻もちをついた。挑戦的な目を上げて言い放つ。

「何しやがんだよ!」

 が、しゃっくりのような引きつった声を上げ、顔面を恐怖で凍らせた。どうやら親方と目が合ったらしい。ジャッロ曰く、街道一の筋切には『大王牛もビビる』と言う一睨みがあるのだが。

――まさか、親方。子ども相手にそんなのを……

「イズレク! どうした!?」

 道の前方から初老の男が姿を現した。エナムスの抜き身の山刀にぎょっとして、その前に腰を抜かしている少年に急いで駆け寄る。

「な、なんだ!? お前達は! この子をどうしようというんだ!?」

 親方は得物に目を落とすと、腰の鞘に収めながら、ひどく不愛想に言った。

「あんた、この子の知り合いか? だったら、いきなり道行く者にこんなのを飛ばしたら、首を刎ねられても文句は言えないと教え込んでおけ」

 顎を上げて示した場所には、小さな袋をつけた革紐が落ちている。投石器だ。それを見てアシェルは目を瞬かせた。そう言えば、親方に抜かれる前に何かが頬をかすめたが、てっきり風に舞った木の葉だとばかり思っていた。初老の男も状況を察して、今度は厳しい顔を子どもに向ける。

「イズレク! 笛の練習をさぼっていると思ったら、なんてことをしていたんだ!」

 少年は男に支えられて立つと、べそをかいて小さくすすり上げたが、強情そうに口を引き結んだ。しかし余程怖かったと見えて、もう調達人達の方に目を向けようとはしない。男はその手を取り、調達人に謝罪の表情を向けた。

「申し訳ありません。こんな失礼をするような教えはしていなかったのですが……大事なかったでしょうか?」

 親方は軽く肩をすくめて頷いた。と、少年が男の手を振りほどき、投石器を拾って道の先へ駆け出して行く。

「イズレク!」初老の男はその背に声をかけた。「家に帰って下着を変えるんだぞ! 風邪をひくからな!」

 子どもが腰を抜かしたあたりが、何かをこぼしたようにしっとり濡れていた。

 男はこのすぐ先に竜使いの村があり、自分は長老の一人でサマディヤという者だと言った。エナムス達がラスタバンの調達人と知ると、一層表情を和らげ、お詫びに是非村に寄るよう勧める。だが、そこで初めて視線をロバの上のアシェルに向けた時、しばし頬が緊張で強張った。調達人達の怪訝そうな様子に気がついて、すぐに笑顔を取り戻したものの、心に湧いた屈託は消えたようではない。それでも、ロバを引く親方と親しげに言葉を交わしながら彼らを先導し、竜使いの村へと誘った。

 歩を進めるにつれ、風の唸り中から笛の音が聞こえてきた。


 緩やかな坂道を登りきったところに、平地が切り開かれていた。村を入るとすぐに広場で、中央の見上げるばかりの楡の木が、若い葉をつけた枝を大きく風に揺らしている。左手に厩と荷車、そして重ねられた荷車用の檻。また正面に広場を区切るかのように樅の木が一列に並び、張り出した枝の下に横に広い大きな檻がある。高さは大人の背丈を少し超えるほどであろうか。鉄格子の前には数人の子ども達が一列に腰を下ろし、先程からの笛の音を奏でていたのは彼らだった。

 足を止めてその様子に目をやる調達人に、サマディヤが声をかける。

「竜使いになる練習ですよ。笛の音で竜をおとなしくさせて、自由に操ることができます」そこで肩をすくめ苦笑する。「もちろん地竜ぐらいがせいぜいで、野竜などとても無理ですがね」

――笛……

 アシェルは、ようやく一昨晩の気配の正体に思い当たった。あれは笛の音だったのだ。道を挟んだ厩から聞こえてきた笛の音。いや、聞こえていたかどうかはわからない。ただ、厩にいたあの竜使いが奏でていたことは確かである。もちろん子ども達の音色は何の影響もないのだが。

 ロバを降り、広場へ足を踏み出す。檻に向かいながら、周囲を見回す。

――ここに、あの竜使いがいるのだろうか。

 親方と長老もその後に続き、真ん中の楡の下を過ぎた時、檻の前の子ども達が彼らに気付いた。目出し頭巾越しにアシェルの姿を認めると、動揺した視線が各々交わされる。間もなくじりじりと横へと移動を始め、端の子どもが駆け出すのを合図に、一斉にその場を去って行った。

 眉をひそめたエナムスがサマディヤに視線を送ると、彼は歪めた顔を向けた。

「すみません。良くない噂が流れていまして……」

 アシェルは、しばらく遠ざかる背を見送っていたが、再び檻へと歩み始めた。中には二十頭ばかりの地竜がいて、首を伸ばしこちらを見ている。一番大きいものでも、彼の胸ほどの高さか。親方の言ったように翼はなく、野竜のように光を纏うこともなく、形は似ているが、印象は野にいる獣に近い。

 檻の中に散らばっていた竜達が、ひょこひょこと首を振りながら彼の前に集まってきた。右手を上げると薄黄色の視線が集まり、左右の動きを追って長い首がゆらゆら揺れる。微笑んだアシェルがゆっくり檻に沿って歩き出すに従い、地竜のすべてがついてきた。

「なんだか、妙なもんに好かれる奴だな……」

 驚いて呟くエナムスの傍らで鋭い息が洩れ、眼差しを厳しくした竜使いの長老が、再び頬を緊張させている。

 檻の端に辿り着いた若者が、手を上へひょいと振った。それに合わせて地竜達が一斉に跳び上がり、アシェルの無邪気な笑い声が上がる。しかし、視線を竜の檻から左手の厩の横に移した時、その笑みが消えた。今まで見えなかった厩の陰にも檻があったのだ。ただ高さが大人の背丈の倍は優にあり、同じような幅と奥行きのその中には――何もなかった。

 並ぶ樅の枝を順に揺らした風が、音を立てて地に当たり、アシェルの外套の裾を吹きあげた。

 檻の前に佇む見習いの横に、エナムスも歩み寄ってくる。

「でかい檻だな」彼らの後ろで歩を止めたサマディヤを振り返る。「大王牛でも入っていたのか?」

 若者も長老に向き直り、その答えを待つ。初老の男はしばらく逡巡した後、息を吐くように言った。

「竜です……野竜が入っていました」

 驚いた調達人達は、互いに顔を見合わせた。サマディヤが言葉を続ける。

「三月ほど前、竜使いの一人がどこからか捕えてきた野竜が入っていたのです」

「どこからかって……どこです?」

 アシェルが問うと、相手は小さく首を振った。

「わかりません。いくら聞いても言わないので……」

 だが、その竜使いが誰か、アシェルにはおぼろげながら見当がついた。親方が戸惑いを露わにした声を上げる。

「しかし、野竜を檻にだと? とても信じられん。竜使いの笛だって野竜には通じないと、さっきお前さん自身が言ったばかりだろう」

「大人しい……というより、眠ってばかりの野竜なのです。たまにぼんやり動くこともありまして、必要な時には竜使いの笛でも十分思うところへ移動できました」

 親方の問いに答えながら、長老はアシェルに目を注いだ。

「眠りの竜……」その言葉を、若者は口の中で繰り返した。「竜は、今どこに?」

「エルシャロンです。来訪中のラスタバンの方々にお見せするようにとの、王室からのお達しがあったので、先日搬送しました」

 サマディヤの窺うような視線にもアシェルは気付かず、再び歩を運んで地竜の檻の前に立った。喜んで近寄ってくる竜達の上に目を投げかけながら、口の中でまた「眠りの竜」と呟く。

――眠る竜。眠らなければならない竜……起こしてはならない竜?

 そこまで考えて、眉をひそめた。

――起こしてしまったら、どうなる……?

「アシェル!」

 エナムスの声が鋭く飛ぶ。顔を上げた見習いは、「えっ?」と小さく訊き返し、背後に気配を感じた。振り返った途端、額に襲う衝撃。勢いに仰け反った身が檻の鉄格子に激しく打ち当たり、ずるずると落ちていく。

「アシェル!!」

 エナムスが見習いに駆け寄り、その体を抱き起こした。がっくりと傾いた頭から血が溢れ出し、足元には原因である小石が転がっている。急いで手拭いを巻いて血止めをしたものの、何度名を呼んでも反応が無い。止まらない出血が顔の半分を覆い、顎を伝って滴り出す。筋切は奥歯を強く噛締め、低く唸ると背後を振り返った。目に宿した凶暴な光が放たれる。

「……貴様ら!!」

 そこには子どもを含む三十人ほどの村人達が、険しい表情で彼らを取り囲んでいた。

「こいつだよ!」

 甲高い声を上げたのは、先ほどのイズレクという少年だ。彼は新しい石を投石器の袋に入れ、振り回しながら叫んだ。

「オフィルの言ってた赤毛だよ! 目も青かった!!」

「やめんか!!」

 長老の制止より早く二番目の礫が空を切る。だが短い金属音と共に、それは地に落ちた。抜かれた山刀に映る雲間の陽。その光と同様、筋切の射抜くような視線が茫然とした少年を捉え、ゆっくりと体の重心が下がって攻撃姿勢に入った。

「や……やれ!」

 イズレクが震える声で合図を絞り出す。すでに他の四、五人ばかりの子ども達の手にあった投石器の回転が早まり、すぐに礫を放つ短い音が重なった。だが再び筋切の山刀にことごとく阻ばまれ、今度は逆にまっすぐ狙いをつけた刃の切っ先が、猛々しい光を放ちながら眼前に迫ってくる。恐怖で引きつる少年の喉。と、その頬にサマディヤの激しい平手打ちが襲う。手を挙げた長老は、憤怒の形相で少年を一瞥すると後ろを振り返り、エナムスの前に立ちはだかった。

「も、申し訳ありません!どうぞ、お許しください!! 馬鹿な噂に惑わされた、年端もいかない子ども達です!」背後の村人に声をかける。「石投げを使った子どもを、捕まえておけ!!」

 あちこちで小さな混乱があり、イズレクに従った子ども達が連れてこられた。今や怯えた小動物のようになった彼らの目が、凍る光を放つ山刀に集まる。長老を見据えていたエナムスは目を閉じると、やがて激しい息遣いと共に刃先を下げた。得物を鞘に収めつつ身を翻し、倒れている若者の元へと駆け戻る。

 それを見て長老は安堵を漏らし、村人たちへ向き直った。

「さあ、怪我人を運ぶのを手伝うんだ」

 しかし村人達は険しい視線を崩すことなく、その意に従わない。サマディヤはきつく眉を寄せて彼らを見回した。

「お前達! いい大人がなんだ! 子どもに唆されて乗せられるなど! まだ、益体もない迷信に捉われているのか!?」

 人々の中に動揺のざわめきが起こる。各々が眉をひそめ、中には檻の前に倒れているラスタバンの見習いを指している者もいる。と、ひとりの壮年の男が手を上げた。

「長老。俺もガキ共が言うことは、根も葉もない作りごとだと思っていた。けれどさっき、あんただって見たはずだ」

 不穏な頷きが所々で交わされ、声を落とした囁きが漏れてくる。サマディヤは唇を噛締めて顎を引いた。周囲が少し落ち着くのを待ち、男が言葉を続ける。

「地竜とはいえ、あの荒くれの竜を笛も使わず、動かしていたろう……これはどう見たって、言い伝えの竜――」

「言うな!! それが迷信だ!」長老は一喝した。「以前、我らがどんなに国王陛下からお叱りを受けたか、忘れたのか!? そのようなことはないと、陛下自らの竜の心臓と竜石を我らに下さり、保証の印となさったではないか!」

「しかし、陛下は今、弱ってらっしゃる! 俺達を守りきる保証はない!」

 そうだ、という声を皮切りに、不安と不信の叫びが口々から放たれ、説得の言葉をかき消してしまう。次第に渦を巻き始めた理不尽さに、サマディヤは抑えきれず怒りの一歩を踏み出そうとした。その時――

 重く耳を突く金属音が広場に響いた。

 たちまち人々のざわめきが収まる。残った静寂を覆ったのは、地の底からと思えるような、幾重にも響く唸り声だった。

 顔を上げた人々に、驚愕と恐怖が走る。檻の中の地竜すべてがこちらを向き、赤い怒りの目を揺らしているではないか。聞いたこともない重苦しい唸りの波が、地と気を伝って彼らを包んでいく。と、地竜がその体をつぎつぎ檻の鉄格子へぶつけ始め、先程と同じ重い音が、唸りの高まりと共に激しさを増した。

「……なぜ、竜が?」

「やはり、あいつが操っているのか?」

「オフィルの言う通りなのかもしれない……」

 膨らみ出す不安。恐れが疑いをますます深くし、不信が敵意の一歩手前まで募っていく。サマディヤは苛立ちに声を張り上げた。

「笛を持ってこい! 竜を静めるんだ!」

 それを聞いて数人の者が走りだしたが、ほとんどはその場を動こうとしなかった。理由は明白である。これほどの数の、これほどの怒りに燃えた地竜を抑える力を持った竜使いなど、今の村にいるはずがない。

「見ろ! 格子が……!」

 伸ばされた手が指し示す。その先では、竜の激しい体当たりを何度も受けて、檻の鉄格子と木枠を留める釘が徐々に緩み始めていた。戦慄が村人達の喉を鷲掴みにした。いきなり襲い来た危機の大きさに、子どもの泣き声、女の悲鳴、男の怒号が無秩序に広がる。釘と檻の金属が擦れ合う耳障りな響きは最初の鈍い音に重なり、彼らの恐怖に追い打ちをかけるように広場に満ちていった。

 もはや平穏な収拾は絶望的だ。サマディヤには、笛よりも弓矢と剣の決断しか残されていなかった。

 一歩を踏み出し、苦渋の口を開きかけた時ーー


 鋭い声が上がった。


「黙れ! 静まれ!」

 たちまち沈黙が降り、すべてのものが静止した。


 人々が静かになった竜の檻に目を向ける。そこには血にまみれたラスタバンの調達人が、両手で格子に縋りついていた。地竜の姿はすでに鉄格子の傍にはなく、黒い塊が若者から一番遠い二隅に寄って小さくなっている。駆け寄ったもう一人の調達人が、格子から手が離れ再び崩れる体に腕をまわして肩に担いだ。

 よろめく見習いを支えたエナムスが、長老の元へ来ると低く言う。

「治療する場所を貸してほしい」

 初老の男は、壮絶な若者の顔を痛ましそうに見つめながら頷いた。

「私の家に案内します……」

 他に動く者が誰一人ない広場を、彼らはゆっくり横切って行った。と、地に腰をつけたままのイズレクを、アシェルが認めて足を止める。

「竜達を……笛で慰めてやってくれないか?」血糊の覆う頬で微笑む。「……すっかり怖がって、怯えてしまったから」

 少年は唇を震わせて、小さく「はい」と言った。


挿絵(By みてみん)

サマディヤとイズレク


 サマディヤが彼らを自宅に案内したのは道理で、彼は村唯一の医師だった。

 アシェルを治療台の上に寝かせ、血糊を拭きとると、手早く消毒と傷口の縫合に取り掛かる。その手際の鮮やかさで彼が名医であることが、素人のエナムスにも直ぐに分かった。医師は、薬草の練り薬を塗った布を傷口に当て、包帯を分厚く巻くと小さく息をついた。

「骨には多分異常はないと思います。まったく奇跡的ですよ。傷口も出血の割には対して大きくないので、化膿さえしなければすぐ治ると思いますが……」治療台の若者に目を落とす。「どうですか? まだ、ふらふらしますか?」

 アシェルは薄く目を開いた。

「はい。でも、だいぶ良くなりました。じき治まると思います」治療台の傍で見下ろしている、もう一つの心配そうな顔に笑いかける。「……俺は、大丈夫ですから」

「まあ、こう言っては何ですが」サマディヤが道具を片づけながら言った。「あのイズレクの石投げを受けて、この程度で済んだのは運がいいんです。あの子はあの年で大人顔負けの腕ですから」

 その自慢の腕を簡単に阻まれて、さぞかし驚いたでしょうと続け、筋切に敬服の視線を送る。しかし、見習いを見下ろしていたエナムスはそれには気付かず、顔を上げて問いを発した。

「聞きたいことがある。――お前さんが言っていた迷信とはなんだ?」

 一瞬表情を険しくた医師が、溜息と共に首を振った。

「そうですね。私としては、穴を掘って埋めておきたいことですが……あなたがたには知る権利がある」


 昔この村に、天才的な竜使いがいた。笛を用いるまでもなく地竜を自在に動かし、あまつさえ野竜もその意志の元にあった。彼の手は多くの竜の心臓を村にもたらし、富をもたらしたのだが、初めは歓迎していた村人達も、次第にその力の大きさを恐れるようになった。そこへ竜使いの能力に妬みを持った邪な者が、彼を陥れようと、悪い噂を村人に吹き込んだのである。極まった恐れの果て、彼の姦計に乗ってしまった村人たちは、ついには竜使いを手にかけてしまう。息を引き取る際、竜使いは解けない永遠の呪いをこの村にかけた。

 いつか自分はこの村に戻り、滅びをもたらすと――


 エナムスは眇めた目を医師に向けた。

「珍しくもない昔話だが……」

「ええ……それで不安に襲われるだけであれば、我らにも罪はない」

 サマディヤは腕を組むと、苦しそうに顔を歪めた。

「ところが数十年に一度、この竜使いが戻ったという風評が立つことがあって……片手の指を下らない者を闇に葬ってきた歴史があるのです」鋭い息を吐いて、治療台の若者を見下ろす。「近い所では、十年前です」

 エナムスは眉をひそめた。

「あんた……そこにいたのか?」

 医師は強張る首で頷いた。

「……私は若い頃、竜法院で医学とイディン法を学んでいたので、そんな呪いは存在しないと分かっていました。しかし、今日見てもおわかりでしょう? 暴走した大衆をひとりで止めるなぞ、とても不可能です」

 竜法院はイディンの英知の集まる最高学府であり、イディン法は大地の人々を統べる掟である。

 サマディアは、緊張で乾いた唇を湿らせて先を続けた。

「……私は夜を徹してエルシャロンに急ぎ、現状を訴えました。すると国王陛下が馬を飛ばしていらしてくださったのです」

 ファステリア王は、この村の実情を聴くと激怒した。一時は村人全員を捕えようとまでしたが、彼らの迷いの深さを知ると思い留まった。そして二度とこのような愚挙に走らないことを条件に、村を滅びから守るとの誓いを立てたのである。

「すでに竜騎士でいらっしゃった王は、すぐさま竜狩りに出かけられ、我らのために命を張り、竜の心臓と竜石を庇護の保証としてくださったのです。それを――」

 無下にする愚か者達が――とサマディヤは吐き捨てた。怒りに震えるその顎を、エナムスはしばらく見つめていたが、ゆっくり治療台の見習いへと視線を戻しながら訊いた。

「でも、なぜ今回こいつなんだ? 村に入ってからは、地竜を操っていたせいだとは分かる。しかし、あの坊主が襲ってきたのは、その前だ」

 途端に医師がきつく目をつぶり、怒りに替わって嘆きがその顔に浮かんだ。のろのろと椅子を引き寄せ、落ちるように腰掛ける。

「邪な者がいるのです……けれど、群を抜いた竜笛の名手で……言葉に力がある」

「そいつが、オフィルとか言う奴か?」

 親方の言葉に、アシェルは目を見開いた。

 はい、とサマディヤは苦しい告白をするように声を振り絞った。

「『もし近くに、赤毛の青い目の男が来たら、その者はあの“竜殺し”――村を滅ぼす者だ』と……」

「“竜殺し”だと……?」

 エナムスが語気を強めて聞き返すと、伝説の竜使いの呼び名ですと答えがあった。

 しばらくの沈黙の後、サマディヤは視線を感じて俯いた顔を上げた。治療台の若者の瞳が向けられている。

――『青い目の男が……』

 自然とその言葉が脳裏に浮かんだ時、彼が声をかけた。

「オフィルは今どこにいるんですか?」

――『赤毛の青い目の男が……』

 この若者を見るたびに、その言葉は訳もなく呪いのように繰り返し現れ、彼を捕えて離さない。

――これは邪な言葉だ。

 サマディヤは払い落とすように、強く首を振った。

「エルシャロンです。眠りの竜と共に行きました」

 それを聞くや、身を起こした若者が治療台を降りようとしたので、医師は慌てて駆け寄った。

「まだ早い……!」

 彼がくるりと顔を向け、思わぬ近さで視線が合う。

――『青い目の男が……青い……』


「大丈夫です」


 瞬時に光が射す。

 頬笑みと共に放たれた言葉が、サマディヤの額を突き抜け、呪いの影を払った。


「親方、行こう」見習いは靴を履きながら、元気に声をかけた。「急がないと」

「いや……本当に大丈夫なのか?」

 予想外の回復ぶりに戸惑ったエナムスが、その顔を覗き、顔色はまだよくないようだがと訊く。

「旨い物をたくさん食べれば、すぐ良くなりますよ。だから、買い出しの時はちょっと張り込んでくださいね」

 アシェルは自分の上着を取り、血の染みに小さく唸りながら袖を通し、この村の名物料理って何なのかな、と首を傾げた。

 そんな彼らを呆然と見つめていたサマディヤの口から、呟きが漏れる。

「そうだ……邪な言葉にも裏の真実がある……なぜ、気がつかなかったんだ」ゆっくり歩を進めて治療台を回り、若者に近づく。「呪いが人を捕えるなら……邪な言葉の目的が、真実から人を引き離すことにあるなら……真実は……呪いの裏にある」

――邪な者が、赤毛の青い目の男を呪いとするなら、それはまさしく……

 いきなり医師にその手を両手で握られ、アシェルは驚いて身を引いた。が、相手の戸惑いも構わず、初老の男は哀願を体から絞り出した。

「……オフィルを助けてください! あれは、私の子なのです!」




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ