5.祝福
「あれ?」
夕刻陽が陰るとさすがに冷えて、生乾きながら服を身に着けていたカラックが首を傾げた。
「おい、俺の帯を知らないか?」
「え……あれ、元締の帯だったんですか?」
火にかけた鍋で煮込みを作っていたアシェルが、目を丸くして顔を上げた。
「おう、十年来の愛用品だ。どこやった?」
「いや、あの……」若者の視線が宙に泳ぐ。「その……あんまり汚かったんで……ええ、元締のものとは知らないで……」
「汚くて悪かったな。おい」悪い予感に眉を寄せ、元締は詰め寄った。「まさか、お前……」
「アシェルさん、ありがとうございます」
そこへアステラが晴れやかな笑みを浮かべ、運んできた赤ん坊の籠を炊事場所近くに置いた。
「これで明日までなんとかもちます。洗ったおしめも、それまでには乾くと思いますので。あ、今日の夕食は手伝わせてください」
元締の顔に、徐々に驚愕が広がっていく。信じられないという視線が、にこやかな母親、籠の中の満足げな赤ん坊へとゆっくり移り、最後に見習いの間の抜けた微苦笑に戻った。
「ええと……擦り切れてるし色も褪せてるし、ヨレヨレで大きな黒いシミがあちこちついてるし……もう、誰の襤褸かと」
途端に胸元を掴まれ、勇者の万力で引き上げられる。一杯に剥かれた黒い眼が迫り、歯茎の見えるほどの口元は今にも食いつきそうだ。宙に浮く足をバタつかせ、相手の腕にしがみつきながら、アシェルは蚊の鳴くような声を漏らした。
「すみま……せぇん……」
そこで元締は固く目をつむった。深い深い息をしてから、見習いの胸元から手を離す。よろめき地に降りた若者は、うろたえて彼の腕に縋りついた。
「すみません! すみません、元締! そんな大事なものと知らないで……俺、弁償しますから! 必ず、弁償しますから!」
「……弁償?」カラックが焦点の定まらない目を向ける。苦笑しながら見習いの握る指をほどき、ひらひらと手を振った。「もういい、気にするな。これも運命だ……うん」
再び肺から絞り出すような息を吐いて、西の空の笑っているような三日過ぎの月に顔を上げる。
「だいたい、買えるような代物でもないしな」
そうは言っても、カラックの元締の消沈ぶりは傍目にも明らかだった。夕食時に、アシェルから事の次第を聞いたエナムスが首をひねる。
「帯って……いつもしている黒っぽい奴だろ? 上物の絹だろうが、お前にだって買えないこともないぞ」
「あのう」いつに無く沈む空気に、アステラがおずおずと声をかける。「お食事、不味かったでしょうか? すみません、私まだ上手にできなくて」
「え……あ、いや」
明日は別れの日で最後の夕食ということで、この日はアステラが母親から教わったという料理を振舞ったのだった。少し塩気が足りないかなと思うものの、遊牧民独特の香辛料の使い方は悪くはない。アシェルはあわてて笑顔を作り、料理をぱくついた。
「とっても美味しいよ! これだけできれば、上等だよ」
「でも、元締さんが……」
確かに、一口ごとに溜息を漏らすカラックの食は進んでいない。見習いの悄然とした視線を受けて、エナムスが言った。
「何、水につかる長い大活躍をした上、御大事の帯を失くしてしまってね。うん……冷えたんでしょうな、腹の具合が良くないんだ」
「まあ! 帯を……!」
そこで先ほどの出来事を見ていたアステラは、その理由に思い至ったらしい。驚きに口に手を当てて、元締に向けた視線を自分の赤ん坊へと移す。しばらく戸惑った様子でそわそわと手を揉んでいたが、立ち上がって座をはずした。
「アステラ?」
ユースフが妻に声をかけ、その後ろ姿を追って小首を傾げたものの、明るい笑顔を向ける。
「本当に今まで大変お世話になりました。重ねてずうずうしいとは思うんですが、大事なお願いがあるんです」
彼が一人一人に深い尊敬の眼差しを向けたので、ラスタバンの男たちは何かと顔を上げた。
「ピピに、あなたがたのうちの一人のお名前を頂けないでしょうか?」
えっ? という疑問符が三人の頭に浮かぶ。その空気に気付いてか、ユースフは苦笑した。
「ピピは男の子です」身を乗り出し、声を落とす。「アステラがとにかく赤ん坊を可愛くしたくて……ピピって仮り名も小鳥みたいと彼女がつけたんです。いえ、女の子がよかったというんじゃありません。とにかく……」
はあっと息をつきながらも、その顔は明らかにニヤけている。
「可愛いのが好きなんです」
「……さようで」カラックがもそもそと口の中で呟いた後、慌てて手を振った。「いや! そりゃ、受けるには余りに身に過ぎる申し出だ! 俺らなんぞの名をつけたら、碌なことはない!」
「そんなことはありません! 俺はまだ若輩ですが、人を見る目だけはあると長老にも言われています。あなた方のような方々と、この先容易に出会えるとは思えません。是非頂きたいです!」
三人の男達はさんざん抵抗したのだが、若い父親の意志は固かった。仕方なく、頭を突き合わせての協議となった。
「おい、誰の名にするんだ?」
アステラが目的の物を手にして戻った時、ラスタバンの面々が円座を組んで、ぼそぼそと話し合っていた。妻に気づいて振り返ったユースフが頷く。
「三人のうちのどなたかの名を貰えることになったよ」
「そう、良かった!」ほっこりをした笑顔を浮かべた母親は、むずがり出した赤ん坊に気がついて籠から抱き上げた。「もうすぐ、お名前がつきますよ、ピピ」
円座からわっと声が上がって、若い見習いが喜び顔で振り返る。
「決まりました!」
「おい、やめろ!」
エナムスが慌てて制止したが聞く耳持たず、期待に満ちた若夫婦に言葉を続けた。
「『エナムス』です!」
満面の笑みの夫、笑みが凍りつく妻。
「見ろ……可愛くない……」
親方が渋い顔で呟いた。
「ありがとうございます! いいじゃないか、アステラ!」ユースフが急いで妻の肩を抱き、その顔を覗き込んだ。「エナムス……エニーだよ!エニーって呼べばいいじゃないか!」
「エニー……」口の中で繰り返すと、妻の凍った笑みが徐々に溶けていき、やがて顔いっぱいに溢れて腕の中の赤ん坊に注がれた。「エニー……可愛いわ。そうね、エニー、エナムス。お前はエニーよ。なんて可愛いんでしょう!」
喜ぶ夫婦を、張り付いたような笑顔で見守っていた三人の男たちは、それぞれの足で地面に書かれたアミダ籤の跡をそっと消した。
そうだわ、と急に顔を上げたアステラが、わが子を夫に預けるとカラックの元に駆け寄る。
「元締さん、お話伺いました。申し訳ありません。ロバが流されて、ピピの……エニーのおしめの替えが足りなくなってしまったと、アシェルさんに私が言ったんです。これ……」
元締の手に押し込まれる格子模様の薄紅色のストール。
「毛織物で絹ほど肌触りは良くないかもしれませんが、とにかく暖かいですから……これを帯の代わりにお腹に巻いてください。きっとお腹の具合も良くなると思います」
カラックは瞠目して、自分の胸下ほどにある女の顔を見下ろした。手元のストールからゆっくり顔を上げて、仲間に視線を移す。明後日の方を向いた親方は、素知らぬ様子を決め込み、若い見習いが、その陰に隠れてびくびくしている。たちまち事情を察して口端をひん曲げた元締は、鋭く舌打ちした。誤解を解こうと再びアステラに目を落としたところで、彼女が先に言葉を継いだ。
「ね、男の方にはどうかと思う色ですけど、今こんなのしか見当たらなくて……でも、無いよりはましでしょう? お腹は力の基ですから。冷えてはいくら万力の勇者でも、萎えてしまいます。申し訳ありませんが、是非我慢してなさってくださいな。お腹は大事です……ほんとに大事ですから……」
心配する暖かい眼差しが、まっすぐヴァルドの男を見上げている。それで彼は何も言えなくなり、戸惑った視線を彼女の上に彷徨わせた。ほどなく、眉を八の字に寄せて大きく息をつく。そして両手を相手の小さな肩にそっと乗せると、頭を垂れて顔を伏せた。
「……はい、母様」優しく囁くように応える。「はい、母様。母様のお言いつけを守ります……」
アステラは驚いて目を瞬かせたが、やがてにっこり微笑んだ。掌を上げて彼の頬に軽く触れ、肩の大きな手を取って自分の頬に押しあてる。再び笑みを送り小さく頷くと、するりとその手から離れて夫の元に戻った。
こうしてカラックの元締の腰には、薄紅色のストールが巻かれるようになったのである。
翌朝、ロバを流された若夫婦ために、アシェルが自分のロバを譲ると言いだした。親方も若者の性格を知ってか強いて止めることもなく、人里に着いたら買うかと呟いたので、若夫婦は恐縮しながらそれを受けた。街道に向かう調達人と違って、仲間を追う彼らの行き先には人家は無い。流された分の食糧なども分け与え、さあ出発というところで、若い父親がまたもや窺うように声をかけた。
「あのう……」
「なんだ、まだ、あるのか」出鼻をくじかれ、カラックがいささかうんざりした口調で言う。「お前さんのその調子で、こちとらどれほどそっちの言い分を聞いたかと思うと、なんだかいいようにされている気がするぜ」
「元締、そんな意地悪言っちゃ駄目ですよ」アシェルが珍しく年上の男を咎め、ユースフへは笑顔を向けた。「気にしなくていいよ。俺たちにできることが、まだあるかい?」
「ええ、ありがとうございます。いえ、昨日のエニーの命名のことで、もしかしたらそちらと習慣が違うかもしれないのですが……」ユースフはほっとしながら、疑問を浮かべている気易い顔の見習いに言った。「私達は子どもに名前を頂いた時、頂いた方から祝福を受けることになっているんです」
「祝福?」三人の男たちは顔を見合わせた。カラックが唸って、顎を手でこすり上げる。「……そういや、そんなことをすると聞いたことがあるな。身近に赤ん坊なぞいなかったから忘れてたぜ」
「じゃあ、名前をあげたってことで、親方が……」
振り返ってエナムスを見たアシェルは、思わず言いかけた言葉を呑んだ。まさかの険しい表情がその顔に浮かんでいる。手綱を握る手を細かく震わせ、前方の宙を見つめたまま唇が僅かに動く。
「や……てくれ……」
見習いが微かな呟きを聞き逃していると、カラックが馬を進ませて近寄ってきた。
「おい、アシェル、アムダルカの時みたいにお前がやれや」遊牧民の若い父親を振り向く。「三人で決めたんだから、三人のうちの誰でもいいんだろう?」
「あ、はい。もちろんです」
ユースフは屈託なく頷いた。
「ほら、だから、ちゃちゃっと早く済ましちまえ」
「ええ、俺なんかにできませんよ! やった事も無いのに!」気楽な元締めの言葉に、若者は慌てて首を振った。「下手して呪っちゃったらどうするんですか!?」
その言葉に一座がしんと静まり返り、さすがに能天気な父親も表情を固まらせる。アシェルは自分の発した影響の大きさに気がつき、まごついた顔で彼らを見回した。
「あ……そ、そんなことも、あるってことで……つまり、つまり……ええ」
「俺達には、それは無理だってことだ」
煮え切らない場を、カラックの言葉が締める。その響きにはこれ以上この問題を受け付けないという、きっぱりとした断言があった。察したユースフも残念そうに頷く。
「わかりました。すみません、ご無理を言ってしまったようです」そして変わらない笑顔をエナムスに向ける。「親方さん、お世話になりました。ピピ……エニーを助けてくださったばかりかお名前まで頂いて、本当に、本当に感謝しています」
夫に促され、赤ん坊を抱いたアステラがエナムスのロバに近寄り、その名前をもらった子の顔を見せて恩人に頬笑みを送った。
「どうぞ、いつまでもお元気でいてください。――どこまでも、竜の守りを」
ようやくその顔から険しさの消えたエナムスは、それでもいくらか強張った笑みで若夫婦を見やった。
「あんた達もな。――竜の守りを」
同じように見習いの若者のもとで、別れの挨拶が交わされる。乞われて赤ん坊を抱いたアシェルは、その小さな柔らかい頭に自分の唇を寄せた。ふんわりとした甘酸っぱい乳の香りが鼻をくすぐり、ますます深くなる頬笑みを、年かさの男達は無言で見守っていた。
振り返ると、遥かに小さくなった調達人の若者が、変わらず片手を上げている。幾度となくそれに手を振って応えたアステラは、ふと息をついて籠の中の赤ん坊に目を落とし、口の中で小さく、エナムス、エニーと呼びかけた。
「ねえ」ロバの脇を歩く夫に顔を向ける。「親方さんは、赤ちゃんが嫌いなのかしら……」
「そんなことないだろ? なぜだい?」
ユースフが不思議そうに訊き返すと、若い妻は軽く眉をひそめ、しばらくの沈黙の後呟いた。
「だって……会ってからずっと、一度もエニーの顔を見なかった」
川からの風が、遥かな草原の上を渡って、果てない高い空に翔け上った。その蒼天の一角を、陽光を返した銀の煌めきが横切って行く。ファステリアへ向かう空中船を、エナムスは細めた目で追った。あと幾日もしないうちにエルシャロンに着き、この旅も終わる。
傍らでは若者が、三人の去って行った方角に右手を高く掲げて立っている。
若者が心に唱える言葉は、別れの挨拶ではない。その掌は大空を覆い、その腕は大地を抱く。
ロバに乗ったまま、エナムスは何も言わずに待っている。
祝福の祈りの終わるのを――