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ラスタバン王の給仕  作者: 平 啓
第二部
12/38

4.武勇伝

<旅程>

26日目

 ベド・シェアン

  →ベド・シェアン野営④

27日目

 ベド・シェアン

  →ベド・シェアン野営⑤

28日目

 ベド・シェアン

  →(渡河)ベゼク川河畔


挿絵(By みてみん)

 翌日の昼下がり、珍しくアシェルのロバが、速い足取りで一行の先頭を進んでいた。年かさの男達は、少し離れてその後をついていく。

「三十男の誇りはどこへ行った?」親方が、咎めるような目でカラックを見上げた。「菓子の盗み食いなんて、まったく……大の男の元締がすることか?」

「いやあ、あんまりうまくて止まらなくなっちまってよ」誇りを捨てた男が、情けない視線を寄こす。「やっぱり怒ってるかな……?」

「だろうな。半分も一人で食っちまったんだから。あれから何も言わないが、怒り方を知らんから、どう怒っていいか分からんという感じだ」

 軽快に揺れる若者の背から発する拒絶の気配を認め、深い唸りと共にカラックが首を垂れた、その時。

 遥か前方で悲鳴が上がった。見習いが振り向くより早く、馬を疾走させたヴァルドの男が彼を追い抜き、調達人二人もその後を急いだ。

 続く叫びが聞こえる先で、三頭の騎馬がロバを連れた一組の男女を襲っている。一人が馬を下りると瞬く間に女を捕え、肩に担いで馬に乗せた。それを拒もうとする男の剣に馬上の一人が対峙し、残る騎馬が大きな籠を乗せたロバの手綱を拾い上げる。ヴァルドの疾駆する馬の速度が増して、抜かれた長剣に陽光が煌めいた。

 襲撃者の叩きつける剣を受け、男が尻もちを突く。騎馬が向きを変え、地面に転がった相手を蹄にかけようと前脚が上がった。瞬時襲う白刃の風。騎乗者の肘から下が宙に飛び、悲鳴が上がる。残りの二人が振り返ると、そこには長剣を手にした男が馬を返し、新たな疾走に入ろうとしていた。女を乗せた盗賊は次の標的が自分だと悟り、目一杯馬の腹を蹴って逃げにかかる。

 と、前方から速足で近づく二頭のロバ。舌打ちして剣を抜き、切り抜けようとすれ違う一瞬前、ロバの一人が山刀を素早く抜いた。小さく空気が鳴り、気付いた時には己の手に剣が無い。しかも乗せたはずの女も消えて、背後を振り返ると、もう一頭のロバに移されている。襲撃が失敗に終わったのは明らかだった。思わぬ邪魔に悪態を突き、ロバの手綱を引く仲間に急げと声をかけた所で、いきなり恐慌の叫びを放った。傍目には分からないが、山刀の一振りによって異変が起きたらしい。それでも何とか自身を取り戻したか、片腕となった仲間と共に、懸命に馬を走らせ去って行った。

 それを見送ったアシェルは、ずり落ちそうになった女の体を、あわてて引いて抱き上げた。少女のような小柄な体の、思いもよらない柔らかい感触に戸惑っているうちに、彼女がうっすら目を開ける。と、意識が戻るや身を起こし、気が違ったように叫び出した。

「ピピ! ピピ!」

 男の方も逃げた盗賊を追って、足を引きずりながら走り出す。エナムスが叫んだ。

「追え! カラック! ロバを取り戻せ!!」

 鋭く一声かけ、ヴァルドは再び馬を疾走させた。盗賊はかなり遠くにいたが、ロバを引いていてはたちまち追いつかれ、仕方なく一切を捨てて逃げて行く。

 草原の彼方から、カラックの連れて帰るロバが見えると、若い男女は必死に駆け寄り、急いでその背にくくってある籠を外しにかかった。

「賊はあのでっかい籠に、お宝でも入ってると思ったんだろうな」

 エナムスの呟きに首を傾げながら、アシェルも彼らの傍に走り寄った。樹脂が塗られた籠はそっと地面に下ろされ、何か所にも厳重に結ばれた紐が解かれる。開けられた蓋の中を見て、アシェルは思わず微笑んだ。

「すごいお宝だ」

 両手に乗るくらいの小さな小さな赤ん坊が、ぽっかりと開いた両の目に、空の色を映していた。


挿絵(By みてみん)

ユースフとアステラ


 二人はユースフとアステラという若夫婦で、この辺りの遊牧民だと言う。仲間達はすでに春の大移動で北に向かったが、彼らは妻の出産のため出発が遅れ、後を追っている最中に盗賊たちに襲われたのだ。

 産褥中のアステラの顔色の悪さと、盗賊との戦いでユースフが足をくじいたのとで、ラスタバン一行はこの日の前進を取り止め、近くにあったアカシヤの茂みの下に野営を張った。小さな天幕の下、アシェルが三人分の毛布を重ねて敷いた上に若妻は横になると、まだ明るい内ながらことりと眠りに落ちた。夫の脚を診ていた親方が、骨には問題ないと言い、粉薬を水に溶いた湿布薬を患部に当て、布を巻きつける。

「ありがとうございます。何から何までお世話になって……」

 真っ直ぐな目をして感謝を表す父親は、ようやく口髭がそろい出した若者で、ちょうど二十歳になったばかり、小柄なためか、少女と言ってもまだ十分通るような母親も十七歳と聞いて、三人の男達は顔を見合わせた。花柄のおくるみに包まれた赤ん坊を抱くと、まるでままごとのような一家である。

 ひとまずこの日は彼らと行動を共にしたものの、これからどうするかが問題になった。この一家を放って置くにはあまりに危なっかしいが、こちらも期日までにファステリアに行かなくてはならない。見習いは何の疑問もなく、どこまでも面倒を見ようとの意気込みではあるが、さて、とエナムスとカラックが腕を組む。そこへ若い遊牧民が声をかけた。

「お見受けしたところ、北へ向かっているのだと思いますが……もしよろしかったら、川を渡るまでご一緒していただけないでしょうか?」

 渡った先を二日行った所に良い草地があって、そこでしばらく家畜に草を食ませるため仲間達が留まり、彼らの到着を待っているのだと言う。地図を広げると、街道への道筋とははすの方向である。

「たった二日なんですから、付いていきましょうよ」

 熱心な見習いに、親方は首を横に振った。

「往復最低三日ということだ。ここへ来て、そこまでの余裕はこちらには無い」

「でも!」

 身を乗り出す若者の腕を、カラックが引きとめる。

「後は小麦の買い付けだけで、これといった仲介人の情報が入るってわけで無いだろう?」片眉を上げた調達人が頷くと、言葉を続けた。「だったら、三人雁首揃えなきゃってことも無いわけだ。俺が送って行くよ。お前らは先にファステリア入りしろ」

 若者の顔が、眩しいまでに輝いたのは言うまでもない。感激に口もきけず、元締の手を両手で握り締め、強く振って喜びと謝意を表す。複雑な照れ笑いを浮かべながら、ヴァルドの男は為すがままにされていた。

「人望の方はなんとか持ち直したようだな」

 エナムスは呟くと地図を懐にしまった。


 夕刻母親が目を覚ましたので、こちらの申し出を伝えると、若夫婦は喜びを一杯にして、願っても無いと深く頭を下げた。

 夕餉時には怪我をしているユースフの代わりに、アシェルが小さな母親の面倒を見る。彼女が床から離れることのないよう、また気遣いの無いよう、あれやこれやと声をかけて必要なものを持って行く姿は、まるで巣の雛に餌を運ぶ親鳥のようだ。余り甲斐甲斐しいので何となく心配になり、カラックが若い夫の顔を窺った。

「いや、あいつは誰にでもあんなもんでね。若い男のくせに小母さん臭くてな……ええ、うん。別に変な下心は……」

「ええ、本当に助かっています」こちらも全く邪気のない笑顔を向ける。「アステラは出産で疲れて慣れない赤ん坊の世話で気も萎えているのに、俺の気が回らないせいでなかなか助けてやれなくって……」

「いやいや、その歳で一家を背負うお前さんは立派だ、うん」

 カラックは内心安堵しながら、まだ広くなりそうなその肩を叩いた。


 本人にはその気は無いのだが、会話の内に他人の気持ちを良くさせる者がいる。謙虚で明るい好奇心に満ちた心根がもたらすもので、、この若い遊牧民がまさにそうだった。昼間に見た、長剣を軽々と片手で扱うカラックの腕に注目して言葉を重ねるうち、いつしかヴァルドの男の武勇伝が始まっていた。

 荒海に投げ出された姫君を決死の覚悟で救った話、空中船の屋根の上で悪漢に追い詰められ、滑り落ちながらも窓枠につかまり九死に一生を得た話、雲突く竜に襲われその牙にかかって危うく命を落としかけた話など、先夜ちょろまかしたベオル酒の勢いもあって『三大死にかけた話』が、景気よく燃える焚火の前で披露される。

 今まで幾度か行動を共にしていながら初めて聞く話に、エナムスは突っ込みを入れたくなる気持ちをやっと抑えていた。この手の自慢話をする者は、初手の矛盾に気づいていない。そんな状況に追い込まれる前に対処できなかったこと自体、いかに自身が間抜けかと言っているにすぎないと彼は思う。大体こんな見え透いた話を信じる者がいるかと見れば、若い女と男が――二人も!――目を見張り、合いの手を入れながら聞いている。

――おい、こんなに景気良く蒔いちまって、後で何を刈り取るつもりだ?

 馬鹿らしくなって、銀河の落ちる縁をぼんやり見ている内に、ふと話が途切れた。再び顔を向けると、三人の男達の視線が一つに集まっている。そこには小さな母親が、微笑みながら赤ん坊に乳をふくませていた。


 ヴァルドの男の刈り取りの日は、案外早くきた。

 二日の後たどり着いたベゼク川は、上流の大雨のためか水量と川幅を異様なほど増していた。遊牧民がいつも使う浅瀬も、深い速い流れとなっていて、半日渡れる場所を探ったが、どんなに浅い所でも腿に届く深さがあった。人が自力で流れを渡れる深さは、せいぜい膝までである。

「綱を渡すしかないな」決心した一言に次いで、エナムスはカラックを振り返った。「出番だぞ、勇者殿。荒海からの姫君救出のお前さんからしたら役不足で悪いがね」

 三組の期待のこもった眼差しを向けられ、冷や汗のヴァルドに否は無かった。


 そこで調達人の親方は、馴染みの元締を少し見直すこととなる。長い脛のおかげで、川の深みも彼にとっては膝辺りになるとはいえ、時には腿まである場所を横切る際にも、その歩調はほとんど危なげない。しかしながら脚に当たる飛沫の高さは、流れの強さが尋常ではないことを示している。騎士並みの剣を片手で自在に繰る力は、その足腰も強靭なものであった。

 向こう岸に渡り、担いできた綱を一杯に繰って、真ん中あたりを岸辺の柳の木に回し掛ける。その後、片方の端を持って帰って来ることで、河に二本の綱が渡された。

「アシェル、荷を担いで試しに渡ってみろ」エナムスはロバの荷袋の一つをまとめると、見習いに担がせた。「勇者の万力は分かったが、常人にはどんなものかがさっぱり分からんからな。危なくなったら荷を捨てても良い」

 アシェルは頷くと、二本の綱を頼りに渡り始めた。強い流れに足元を奪われることが幾度とあったが、綱に掴まり平衡を戻しつつ何とか向こう岸へと渡りきって、こちら側に手を振った。それを見てユースフが言う。

「あれなら馬やロバも荷を担いで渡れると思います」

「じゃあいっぺんに行くか。陽もだいぶ傾いてきたから」

 カラックは水滴をまきちらしながらアステラに歩み寄り、その体を自分の馬の背に抱き上げた。

「産褥中の御婦人は冷やしちゃいけない」

「でもピピが……」

 不安そうな母親に、籠のくくり紐を確かめながらエナムスが応える。

「荷が軽いほうがロバも渡りやすいし、足引きの旦那より俺が引いた方がまだ安全だろう」ユースフを振り向く。「という訳で、お前さんは自力で渡ってくれ」

 若い夫は感謝をこめて頷いた。

 馬の轡を取り、カラックは三度河へ足を踏み入れた。勝手が分かってか、綱もおざなりに掴んだだけで、慣れたように歩を進める。馬の方も速い流れに動ずることも無く、主人同様力強い脚で水底を踏みしめて行く。

 あれも存外名馬かもしれないと思いつつ、エナムスは後に続いて河に入った。流れの強さに足を取られないようにするには結構力がいり、臆するロバを叱咤しながら轡を取って進むのにも、平衡を保つのがやっとだ。視界いっぱいの飛沫と、眼前を絶え間なく通り過ぎる水帯の変化に方向感覚が狂いかけ、真っ直ぐ進んでいるかどうかは手元の綱だけが頼りとなる。

 顔をあげると、彼方の馬がもう少しで岸に上がる所だった。その向こうで、陽に赤毛を輝かせた見習いが手を振っている。呑気なものだと寸時思ったが、彼が何か叫び、上流を指さしているのに気づいた。目を向けた先から、滑るように近づいてくる黒い影。

 避ける間もなく流木が直撃し、ロバが短い鳴き声を出して横転した。

 轡を握るエナムスも引き込まれ、流れの中に没する。たちまち世界の上下を失い、全身を暴走しかける恐怖。しかし轡を手繰り寄せながら体勢を立て直し、足先で水底の感触を掴んだ。強い流れに足は取られたままだったが、ロバの首にしがみつき水から顔を出したところで、川中の大きな岩に引っ掛かった。

 激しく咳き込み、荒い息で周囲を見回す。無情に飛沫が上がる流れは限りなく果てしない。ロバが幾度か脚を底につけようと身悶えするが、横臥を戻せずいるのは、どうやら骨折したせいだろう。

 その背にある籠に目にして、エナムスは鋭く息を呑んだ。流木の衝撃のためか固定用のくくり紐が切れかかり、半ば流れの上で揺れている。樹脂のお陰で浸水は免れているようだが、このままでは、いつ流れの中に放たれてしまうか分からない。轡の手綱を取り外し口にくわえ、ロバの体づたいに籠に近づこうとしたが、負傷個所を刺激したのか家畜が激しく暴れた。揺さぶられた籠が、するりとロバを乗り越えていく。エナムスはそれを追って家畜の体を足場に流れに乗ると、籠に手を伸ばしながら身を投げ出した。

 くくり紐の一つに手がかかったと同時に、岩の向こう側の深みにはまった。下へと落ち込む強い力が、上昇を許さない。見えない圧力に体の自由が奪われ、肺から空気が逃げ出していく。泡立つ水面の絶望的な高さ。やっとのことで手にした紐と手綱を結び、手綱の一方の金具を自分のベルトに掛けたところで、徐々に意識が遠のいていく。とにかくこれで自分がこの辺りに沈んでいる限りは、籠は下流へと流されないはずだ。

 と、信じられないものを目にする。死にかけても驚くのだなと一方で思いつつ、消える意識の中で驚愕は続いた。

――なぜ、お前がここにいる!?



  *  *  *



 白く濃い霧が辺りを立ち込め、微かに上から下へと流れていく。上――どこかの斜面に立っているようだ。

 やっと死んだと思う。

 しかし――やはり自分には竜は来なかった。その深い絶望がゆっくりと心に落ちていく。

 今度はここを彷徨うのかと、見えない永遠の果てに目を投じた。

 辛く苦しくとも、生きている間はそれなりに気を紛らわす事もあったのだが――

――ここには何もない。

 足元がひたすら冷たい。

――そうだ、あの時の雪山だ。

 そう思うと霧も刺すように頬に感じられ、たちまちに身の内に染み透り、体の芯まで凍えてくる。

 縛り付ける冷たさが次第に痛みを伴う。四肢がちぎれる様な痛み。呻こうとするが声が出ない。

 風が起こる。

 斜面の上から、山頂から、いやもっと上――空の彼方から、暖かい風が吹き下ろしてきた。

 霧が激しく流れながら消えて行き、それと共に冷たさが和らぎ、痛みが凪いでいく。

 その絶え間のない風の中に声が聞こえる。――自分を呼ぶ声。

 目を上げると霧の晴れた向こうに蒼天が広がり、声はそこから降りて来る。

――親方!

 懐かしい声だった。



  *  *  *



 みぞおちの辺りがどうにも気持ち悪い。それはたちまちこみ上げてきて、エナムスはたまらず吐きだした。小さく咳き込み、生暖かいものが口元から首筋を伝う感触の気色悪さに唸った。すかさず襲う息苦しさに必死に呼吸を繰り返すうち、だんだんと薄暗い視界が明けていく。

――青だ。どこまでも深い……深い青。あれは……あの瞳は……

「……親方!」

 絞り出すように見習いが呼びかけた。暖かい粒が、ぱたぱたと皺を刻む頬に落ちてくる。アシェルは啜り上げると、激しく上下する親方の胸元に顔をうずめた。その髪を金と赤の陽が縁どるのをぼんやり眺めながら、エナムスはようやく自分がまだこのイディンに生きていることを知った。

 その向こうから丈高い男が、白い歯を見せて見下ろしている。

「御生還」

 やはり来たのはこいつかと思いつつ、一番の心配を息の合間に訊く。

「籠はどうした……?」

 ヴァルドは頷くと、若い母親を呼び寄せた。その腕の小さな赤ん坊を示す。

「ピピちゃんは元気だ。とっても安らか」ひょうきんな黒い眼をくるりと回す。「肝っ玉の据わった女傑だ」

 エナムスは咳き込みながら、小さく笑った。

「ありがとうよ……武勇伝が増えたな」

「どうせなら、一度でいいから妙齢の姫君を助けてみたいぜ」

 顔をしかめる勇者に、親方は大きく息をついて囁いた。

「……お前、そりゃ語るに落ちてるぞ……」


挿絵(By みてみん)

カラックと得物


 それでもカラックの元締の株は、いや増した。濡れた体を乾かすべく大きな焚火を起こし、木々の間に綱を張って服を吊るしながら、アシェルとユースフが事の顛末を興奮して話す。

 エナムス達が流されたのを見るや、カラックはまだ向こう岸にいたユースフに、綱の一本を切るよう指示した。こちらも同じ方を切ると、たくし寄せて肩に担ぎ、飛び乗った馬で下流へ向かう。若者たちも駆け足で後を追い、しばらく行ったところで見つけた時には、流れを盛り上がらせている大岩にロバが引っ掛かり、籠がゆらゆらと揺れていた。

 ヴァルドは、自分の体に結んだ綱の一方を馬の鞍に繋げると、合図をしたら馬とともに引くよう見習いに命じ、川に飛び込んだ。流れに乗りながら徐々に近づいていく途中で、突然ロバが暴れ、籠とエナムスが膨れる水筋の向こうに沈んだ。籠は間もなく浮かび上がったが、人影の現れる様子がない。それを岸からの合図で知ったカラックは、岩を回り込んで深みへ潜ると水底を蹴り進み、沈んでいるエナムスを救出したのだ。

 そこまで語ったアシェルの言葉に、ユースフが付け足す。岸に上げられた親方は息が止まっていて、シーリアの若者が必死の蘇生術を施したのだと言う。息が戻ったのは、周囲が半ば諦めかけた頃だった。

 目の前にカップが差し出され、顔を上げるとアシェルのはにかんだ笑顔があった。

「……お前がシーリアで助かったな」

 エナムスは淹れたての黒茶を受け取り、見習いの髪へと上げた右手を途中で止めた。それをちらりと見ながら若者が首を振る。

「はい……でも、やっぱりカラックの元締のお陰です」

 ふたりは、焚火の前で気持ちよさそうに煙草を吸っている、ヴァルドの男に目をやった。服は乾かすためにあらかた吊るされて、腰に毛布を巻いただけの上半身が見て取れる。すぐに目を引くのは、右胸と腹にある縫い目もはっきりとした大きな刀傷で、小さなものもそこかしこについている。

「武勇伝はどこまで本当かわからんが、死にかけたことは確からしい」

「竜の牙の傷ってどれなのかなあ……」

 次元のかけ離れた感想にエナムスが喉の奥で唸っていると、そうだ、と言ってアシェルが立ち上がった。荷物に駆け寄り、私用の袋から例の花柄の箱を取り出す。

「ピピちゃんと親方が助かったお祝いをしよう。お酒はまずいけど、これならアステラも食べられるしね」

 親方、若夫婦、自分の焼き菓子を取り分けると箱は空になった。横目で硬直しているカラックに気がついて、ユースフが訝しげに訊く。

「元締さんの分は? 足りないのでしたら、俺のを……」

「いえ、いいんです」

 アシェルはにこやかに、しかしぴしゃりと言った。

「元締は誓願を立てているんです。ええ、人並み以上の勇者としての力を出すべく、焼き菓子を一切口にしないと――はい」

 たちまち若夫婦の称賛の視線が集まる。カラックが引きつったように口端を上げる。

 勇者の名誉のため、エナムスは失笑を必死に堪えた。




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