3.空中船
一筋の雲のかかる夕焼け空が、遮るものの無い草原を染めている。
空中船イズレエル・ガレの屋外デッキに出たイルグ・ダン・ヴァーリックは、内ポケットから煙草を取り出すと、火をつけ深く吸い込んだ。王宮の警護隊に入ってからティムリアを離れることが殆ど無くなり、このような茫漠とした光景を目にするのは、戦場を駆け巡っていた時以来だ。怒号と地鳴りと汗と鉄錆の匂い。それらが金色から茜色へと変わる太陽の陰に思い起こされる。
「どうだ、姫君達は納得したか?」
イズレエル・ガレの船長タダイ・ノーラの巨躯が隣に現れて、いつもの愛嬌のある顔を向けた。
「下の姫様には船を下りて馬に乗りたいと、散々駄々をこねられた」ヴァーリックは、手すりにもたれると溜息をついた。「できるだけ姫達の御要望に沿うようにしているが、下船だけはならないとの厳命だからな。給仕長のお言いつけだと言って、なんとか我慢してもらった」
「泣く子も黙るタニヤザールか。この先チェルキスの伯母君に会うとなれば、姫君の気持ちも分からんでもないがなあ」
そのあたりは、ヴァーリックの気の晴れない原因でもあった。嫁ぐ前の国王姉君のため、前任の警護隊長の胃の穴が開いたというのは有名な話だ。なにより護衛する立場から、ゴンドバルの不穏な動きが伝わっている今、さっさとファステリアに行き、用を済ませて帰りたいのが本音である。
「王弟陛下の船酔いはどうだ?」
ノーラに煙草を差し出しながら訊くと、船長は太い指でそれをつまみながら応えた。
「そうだ、それを言いに来たんだ。王弟陛下におかせられましては、たびたび自分の船酔いのため停船して申し訳ないとのことでな、今夜は乗船員全員にベオル酒をふるまうとのお達しだ」
たちまちヴァーリックの唯一残った目が細められ、ただでさえ眼帯付きの人相の悪い顔が一層険悪になる。
「何おう? 馬鹿な! こっちは、四六時中ピリピリしてんのに、何考えてるんだ!?」
「主導権はオレにあるって言いたいんだろ?」ノーラは小山のような肩をすくませた。「給仕長が一から十まで仕切るのが気に入らないのさ。なんせ、姫君達まで従うくらいの影響力だからな」
「給仕長はなんて!?」
「王族に押し切られたら頷くだけだ。で、給仕長の命令は、当直と警護兵に限って一滴も飲むなとさ」
ヴァーリックは鋭く舌を鳴らすと、デッキの手すりから離れた。船内に入ろうとしてふと地上に落とした目に、自身の苛立ちとはかけ離れた長閑な一行が映る。ノーラも気がついて声をかけた。
「調達人が山ウズラを運んできたのさ。烽火を見て、無事に着いたらしいな」
ヴァーリック
空中船の乗降口の近くに山ウズラの籠を下ろし、獣人達がくつろいでいる。エナムスが船に近づくと、扉が開いてタラップが下された。彼が船内に入ったのを目で追ったアシェルは、改めて夕日の黄金に映える空中船を振り仰いだ。澄み切った青空を横切る銀の船体もさることながら、草原の真中に夕陽を映して燃え立つような姿は、この世のものとは思えない。今まで幾度か優美な大帆船を見てきたが、やはり飛ぶということの奇跡は体の芯を震わせた。
ひたすら見入って口を半開きにしている若者に、カラックは鼻を鳴らして呟いた。
「何をイっちゃってっか知らんが、乗っちまえばタダの飛ぶ箱だっての……」
間もなくエナムスがタラップに現れ、獣人達を呼びよせた。
「五人入れる。鑑札を渡すから、首から下げとけ。倉庫番がもうすぐ来るから、それに従ってウズラ籠を運び入れるんだ」
そして、見習いに顔を向ける。
「アシェル、俺と一緒に中に入れ。親父殿――給仕長が会いたいそうだ」
若者は驚きに目を瞬かせた。
「俺に……ですか?」
「俺達の親分に挨拶ってことだ」エナムスはカラックに視線を移した。「『元締も、よかったらどうぞ』とか言っとったそうだぞ」
仲介人の元締は、浮き岩台地で見せた渋い表情で手を振った。
「ご遠慮イタシマス」
二人が乗船口に消えるのを見送ったカラックは、両手を腰に当てて船を見上げた。
「タニヤザールが、あのシーリアをどう見るか…興味はあるんだがなあ……」
清潔な船員の制服に身を包んだ青年に先導され、磨き上げられた船内を奥へと案内される。迷路のような通路と階段をいくつか進み、彼は一つの扉をノックして、調達人の到着を告げた。了解の返事があり、開けられた扉の中へと招き入れられる。アシェルは親方の陰に隠れるようにして、恐る恐る足を踏み入れた。華美ではないが凝った作りの部屋は思ったより小じんまりとしていて、その分部屋主の姿が意外な近さにあった。
給仕長ネヴィド・アシュタル・タニヤザールを初めて目にし、アシェルは息を呑んだ。細い長身がその姿勢の良さから更に強調され、しなやかな佇まいは、白銀を頂く頭から磨き上げられた靴の先まで一分の隙もない。そして、目を奪うその左の手甲。
「きたか」タニヤザールはそれまで読んでいた書類から顔を上げると、錦織りの椅子を示した。「ご苦労だったな。まあ、外套を脱いで座れ」
「どうも」
エナムスが低く答えて外套を脱ぎ始めたので、アシェルもそれに倣った。先ほどの青年が気配もなく近づいて、そつなく二人の外套を受け取り、隣りの控室へと姿を消した。もっと埃を落としておけばよかったと内心後悔しながら、親方に続いて椅子に腰を下ろす。クッションの余りの柔らかさにバランスを崩しかけた時、タニヤザールがいきなり話しかけた。
「君がアシェルか。シーリアのアシェル」
「あ……はい」
返事をしたものの、見下ろされた銀の瞳に真正面から捉えられ、後は絶句する。探るような視線を留めたまま、エナムスに問いが発せられる。
「どうだ、彼の働きは?」
「上々だ」打てば響くように調達人の親方は答えた。「素直で物覚えもいい。最近では食料係を任せている」
「それは……たいした信用だ」
荒野の旅において食糧管理は生死にかかわる事柄で、普通は旅頭が担うものである。給仕長は軽く顎を引き、薄い笑みを浮かべた。視線はそのままに、手にした書類を示す。
「これは君が持ってきたデブアの紹介状だ。彼のサインがある」
アシェルは紙面をちらりと見、硬直する首で頷いた。
「先日――君達が旅に出た後、厨房を訪れた者がいる。デブアの――調達人としての紹介状を持って」
一瞬何を言われているのか、分からなかった。混乱する頭で親方に助けを求めると、戸惑いと驚きの眼差しが向けられている。息がつまり、喉の奥で笛のような音が鳴った。
と、タニヤザールが若者から視線を外し、言葉を続けた。
「もちろんデブアに問い合わせたところ、後者は彼の間違いだということが分かった。デブアは確かにシーリアのアシェルに紹介状を書いたと言っている。なぜ間違えたか調査中だが、まあ、船長、甲板長、ええ……」
書類に付いている小さい走り書きに目をやる。
「……マニーの保証人付きで身元は明らかだと彼は言っていた」口の中で小さく繰り返す。「マニー?」
小首を傾げたものの、給仕長は正面にある書斎机の向こうに回ると、その椅子に腰かけた。呆気にとられているアシェルの横で、エナムスが深い息をついた。
「親父殿も人が悪い」
「出がけに、お前が腑に落ちないと言っていたのでな。まあ、これではっきりした訳だ」
さてと、と言って給仕長は書類を机の上に置き、手を組んだ。
「イクスミラレスまでの経過は聞いたので、そこからここまでの報告を受けようか」
言葉を受けて親方が頷く。
「パシャンの山ウズラは予想通り、当てにはならなかった……」
パシャンの山ウズラの状況、デドロンへの猟師達の反応、行商人レスコーを案内人として雇ったこと、数ヶ月前競りに出された竜の心臓の持ち主が彼であったこと――
「出所不明の竜の心臓?」
エナムスの思惑通り、タニヤザールの顔に好奇の色が浮かんだ。
「もちろん心臓は売られてなかったが、おそらくこれが対の竜石のようだ」
タニヤザールはエナムスが懐から出した例の革袋を受け取ると、中の石を取り出した。しみじみと眺めながら呟く。
「結構大きいな。その男、パシャンかデドロンにいるんだな」
「それが」
死んだと聞いて、給仕長は眉をひそめた。そこでエナムスは、レスコーから聞いた彼の簡単な経歴を伝えた。実際手に入れた父親も、どうやら詳しい状況を知らなかったらしいことなど。
「それは残念だ。しかし……面白い」手にした竜石を、自分の左の手の甲にあるものと見比べる。「最近、殺伐とした報告ばかりだったから、気が滅入っていた所だ。こういうことでも無くては、給仕長なぞやってられん」
なあ、と向けられた満面の笑みを、アシェルは青く見開く目で返しながら大きく頷いた。給仕長からその左の手甲にあるもの――腕輪と指輪の間の金の鎖に繋がれた――輝く竜石に目を移す。
タニヤザールは竜騎士だった。
タニヤザール
エナムスがアムダルカの猟師達の協力を得て、山ウズラを運んだ次第までを話し終えると、しばらく沈黙が流れる。
「親父殿からは何か?」
調達人から問いを受け、給仕長は立ち上がって手を後ろに組んだ。
「浮き岩台地のマルキウスの件について、ヴァルドの東長から、彼の猟師頭の名目を剥奪すると知らせてきた。彼と取引しているこちらの立場を考えての報告だ。もちろんこちらの方も、公序良俗に著しく反している場合は契約解消としてあるから、次に浮き岩台地の猟師頭になる者と契約することになるだろう」
アシェルが明るい笑顔を向けたので、エナムスは頷きを返した。
「……で、殺伐とした話だ。シーリアのアシェル、君はブルブランで襲われたそうだな」若者の返事を受ける前に、給仕長は言葉を続けた。「君は運がいい。他に二件同じような事例があり、三人が死んでいる」
アシェルの頬が再び凍りつく。気をつけろ、奴らは本気だ、と低い声で忠告した後、給仕長はゆっくり歩を進め始めた。
「もう一つ、滅入る話だ。イクスミラレスの果仕合を見たそうだが、その竜騎士アブロン・デル・レオドーテが死んだ」調達人二人の驚く間も与えず一気に継ぐ。「公には病死と発表されているが殺されたのだ」足が止まる。「抵抗する間もなく、後ろから一気に喉を掻き切られた」
給仕長の言葉が調達人達の心に沈み、驚きが収まった頃エナムスが訊いた。
「それと……この度のゴンドバルの動きとの関係は?」
「わからない」タニヤザールは首を振った。「病死と発表したものの、イクスミラレスの秘密警察は重要参考人として、ジャッロという男の行方を捜している。前夜アブロンを訪ねた後、姿を消したそうだ」
「そんなはず、ありません!」アシェルが思わず立ち上がって叫ぶ。「ジャッロがアブロンを手にかけただなんて、そんなことできるわけありません!」
給仕長は若者に顔を向けると、目を細めた。エナムスが見習いの手首を引いて諌める。
「アシェル! すわれ!」
「でも!」
若者の興奮を、給仕長の通る声が制した。
「アブロンの命を受けて旅館に彼を呼びに行った使いによると、彼はラスタバンの調達人一行と共にいたということだ。だが遺体の発見が遅かったため、調達人達は既に出発しており、後を追ったが捕まえられず、パシャンで一行にはそのような男はいなかったとの話を得たに留まった」
タニヤザールはそこまで一気に言うと大きな歩で歩み寄り、アシェルの肩に手を置いて、ゆっくりと彼を椅子に座らせた。
「……イクスミラレスから問い合わせが来ている。どうなんだ?」
「……確かにジャッロは、我々と一緒にデドロンへ行くはずだった。だが、前夜アブロンを訪ねたきり戻らなかった」エナムスは、細かく震える若者の手をそっと握った。「親父殿、俺にもジャッロにアブロンを倒せる腕があるとは思えない」
「そうかね?」
それこそ街道一の筋切エナムスの言葉とも思えないと、給仕長は背筋を伸ばして左手を上げた。手甲の金の鎖が小さな音を立てる。
「油断をつけば、どんな竜騎士と言えど簡単に倒すことはできる。竜騎士こそ、呪いの心配もなく手にかける事が出来る唯一の人間だろう? ――実に簡単だ」
「でも、アブロンはジャッロの誇りなんです」俯いたアシェルが呟く。「アブロンはジャッロの竜です……竜は殺せない」
「アブロンが殺された!?」空中船から帰ってきたエナムス達から知らされ、カラックは言葉を失った。続いてジャッロが追われていることも聞くと、眉を大きく歪める。「ジャッロが……? そりゃ冗談だろ?」
「下手人かはともかく、何か知っている可能性は大きい。こうなっては、ティムリアに戻れるかどうか」消沈している見習いを目の端に留めながら、エナムスは口端を引き締めた。「それどころか、ジャッロ自身の命も……だな」
カラックは鼻を鳴らして腕組みをした。
「……ったく、ついてない野郎だぜ」
「ああ……」呟いてしばらく目を落としていたエナムスは、大きく息をつくとやおら体を開き、ヴァルドの男に詰問した。「それにしても、これは何の騒ぎだ!?」
彼らから少し離れた所では大きな焚火の炎が上がり、その周りを酒瓶片手の男達が飲めや歌えの大宴会となっていた。人数も連れてきた猟師達の倍はいて、彼らの歓声、罵声、手拍子が空中船の船体に跳ね返っている。
カラックはころりと表情を変え、大口を開けてふんぞり返って笑った。
「いやあ! 情け深きラスタバンの王弟陛下が、乗船員の労をねぎらって酒蔵の扉を開けてくだすったのよ! そのおこぼれがこっちにも来てだな! ラスタバン王家の御名を称えているわけだ!」項垂れている若者の腕を取る。「ほら、アシェル。お前も飲め。旨いベオル酒だぞ。王室御用達だ。な、滅入る時には飲むのが一番!」
親方の止める間もなく、彼は見習いを焚火の傍に引いていき、カップをその手に押しつけた。
「マルキウスのウルム酒とは段違いだからな、余りのうまさに腰抜かすなよ」
「……ニーが」
酒を注がれながら、ぼそぼそとアシェルが呟く。
「何だって?」
「マニーが……酒で憂さは晴らせないって……惨めな気持がますます惨めになるのに、どうして男は酒を飲むんだろうって……」
カラックは酒を注ぐ手を止めると、目をつぶって眉を八の字に寄せ、喉の奥で低く唸った。
「お前がマニーに勝てるか」エナムスが苦笑して酒瓶を取り上げ、アシェルのカップに注ぎ足す。「マニーならどうするんだ?」
「泣いて……一晩寝れば元気になるって……」
「じゃあ、お前も泣いて一晩寝るか? そうすれば元気になるか?」
「……いいえ」
「なぜだ?」
アシェルは軋むように顔を向け、歯を食いしばってやっと言った。
「――しなければならないことが……あるからです」
「そうだ。泣く前にしなければならないことがある」エナムスはカップの注がれた金茶色の液体を示した。「こいつは景気づけだ。ゆっくり飲んで、意気を上げろ」
なお切なげに青い瞳を向ける若者の頬を、人差し指で軽くつつく。
「上等のベオル酒を『竜の涙』と呼ぶそうだ……ぴったりじゃないか、ええ?」
「なんだ、あれは!?」
屋外デッキの手すりから身を乗り出して、ヴァーリックは叫んだ。乗船口を少し離れた所に、焚火を中心として幾重にも人垣ができ、陽気な歌声が下から上がって来る。
「おう、デドロンの猟師達と意気投合した連中が気を良くしてるな。やっぱり良い酒はシアワセの元だぜ」
ノーラが、カップのベオル酒を呑気にすすった。
「お前までその体たらくはなんだ!? 給仕長の命令を忘れたんじゃないだろうな?」
「ええ? 俺は非番だぜ。一杯ぐらいいいじゃないか。こんな時でもなきゃ、王室御用達は飲めないぞ」
「船長に非番も何もあるか!」
警護隊長は相手のカップを奪い取ると、中身を手すりの外に撒き捨て、ああっと嘆く船長の脇を抜けて船内へ駆け込んだ。階段を三、四段とばしで二階ほど降りた所、上がりかけた給仕長と鉢合わせになる。
「ああ、ヴァーリック、ここにいたのか」
「御用でしたら、こちらから参りますが、何か……」そこではっと気づく。「外の騒ぎでしたら、すぐ止めさせます! 申し訳ありません! すっかり綱紀が緩んでしまって」
「いや……下の姫の養育係から、姫が窓辺に張り付いて寝ようとしないと苦情が来てな」
「こんな時間に、まだ起きていらっしゃるんですか!? いや、まったく調達人と一緒に来たヴァルドの元締や猟師達が騒ぎ出すもんで、調子に乗った奴らがまた舞いあがって……」ヴァーリックは髪をかきむしると敬礼した。「は! すぐさま止めてまいりますので、しばらくお待ちを!」
身を翻して階段を駆け降りる警護隊長に、タニヤザールは声をかけた。
「……すまんな、イルグ」
下からの歌声に調子を取って首を振っていたノーラは、デッキに現れた給仕長を見ると慌てて手すりから身を起こした。タニヤザールは構わないよう手で合図をし、手すり越しに下の車座の宴会を見下ろした。歌はいつの間にか一つの大合唱になっていて、飽きもせず繰り返されている。
しかし人よ、怯んではならない。
栄光はイディンの内にある。
誉れは勇者に与えられる。
帯を締めよ、剣を取れ。
今こそ、イディンに名乗りを上げる時。
「竜の歌か……」
ノーラは驚いて片眉を上げた。給仕長が口の中で小さく歌っている。
頭を上げて、心を静めよ。
見よ、暁は玉座、蒼天は大路。
――竜が来た。
警笛が鳴り響いて、乗降口から数人の警護兵がバラバラと飛び出してきた。と同時に、焚火のまわりの人垣がわっと崩れて皆が一斉に船に吸い込まれていく。まるでクモの子だなとノーラが目を向けた時、給仕長が呟いた。
「……とにかく、しなければならないことを、せねばならん」
ノーラ
暁闇に話声がして、目を覚ました。天幕に外のランタンの明かりが映っている。身を起こして出入口から外を覗くと、灯りを持った黒い影が列になって、暗闇の中を去って行く。彼らを見送っている人影に声をかけた。
「……親方」
エナムスが振り返り、手元の灯を消して天幕の中に入ってきた。
「ああ、起こしちまったか。アムダルカの猟師達が発ったところだ。女子どもだけ残して心配だから、早く帰りたいのだと」
「……ヤヌムも子どもが待っているだろうな」
アシェルは呟くと、再び毛布にもぐりこんだ。奥の方からは、カラックの景気のいい鼾が聞こえてくる。
「明けるまではまだ間があるから、もうひと眠りだ」
エナムスが床に収まる布擦れの音がして、暗い沈黙が戻ってくる。遠い風の音を聞きながら眠りに落ちるうちに、奇妙な感覚に捉われていった。
――そっちじゃない……
「まったく明け方は煩かったぜ。ぶつぶつ誰かさんの寝言でよ」
明るくなって朝食が済んだ後、空中船から借りた野営用の天幕をたたみながら、カラックが仏頂面で文句を言った。
「そっちじゃないとか、あっちだとか、終いにゃ元締の下手くそとか、ああ? 俺が何ぞしたか?」
「夢です、つまんない夢ですってば」アシェルは赤面すると、たたんだ天幕をそそくさと紐でくくり肩に担いだ。「船へ返して来ます」
暁前に暗かったのも道理で、この日の空はどんよりとした雲で覆われていたが、幸い風はほとんどなく、空中船の出立には問題は無い。足取りも軽く、空中船に向かう見習いの後ろ姿をカラックは目で追った。
「なんでえ、飲んで寝たら元気になってんじゃないの」そこで、黒茶を入れるため湯を沸かしているエナムスを見下ろす。「おい……しなければならないことって、なんだ?」
「ああ?」
「昨夜、あいつに言ったろうが。しなければならないことがどうとか」地面に転がしてある丸めた毛布の上に腰を下ろして、訝しげな眼差しを親方に向ける。「いつの間にかツーカーの仲になったんだか……」
その視線に気づき、エナムスはくつくつと笑った。
「なんだ、妬いてんのか? あいにくだな。あいつの考えていることなんぞ分からん」
「はあ? だって、お前……」
「あいつがそう思うんなら、そうなんだろうよ。それに誰だって多かれ少なかれ、そういうことを抱えているだろう? 違うか?」エナムスは黒茶を入れたカップを差し出した。「お前さんも、でっかいのがあるだろう?」
黒茶を受け取ったカラックの顔に嫌悪が浮かび、ニヤリと笑う。
「大図星か」
空中船の中にしばらく消えていた見習いの姿が、乗降口に現れる。彼が下りるとタラップが上げられ扉が閉じ、間もなく空中船はゆっくり上昇を始めた。微かに起こる風を受けながら、アシェルが思い切り手を振って別れを叫んでいる。その無邪気に揺れる赤い髪に、カラックは思わず失笑した。
「やっぱり船繋がりで好きなのかね。せっかくだから昨夜は中で泊めてもらえばよかったんだ」
「……だって元締が……」
エナムスの呟きに振り返る。
「え? なに?」
「いや昨夜、帰り際に親父殿に船中泊を勧められたんで、俺もその気でいたんだが、あいつがまた例のごとく『だって元締が一人に……』とか言うんだな。うん。で、せめて天幕を借りようということになってだな」
「そうか……」
カラックは頷くと満面の笑みを浮かべ、飛び上がって飛行船を見送っている若者に視線を戻した。が、いきなりカップを地面に叩き置くと立ち上がり、すさまじい形相で叫ぶ。
「アシェル!! てめえ!!」
長い脚を一杯に伸ばして、たちまち見習いに駆け寄り、掴んだ頭を小脇に抱えて、脳天を拳骨でぐりぐりと思い切り押しつける。
「余計な御世話だ、馬鹿野郎!!」
「いてて!! なんですか! 痛いですってば! 俺が何かしたんですか!?」
遥かに広がる草原で叫ぶ二人と黒茶を手にする調達人を眼下に、空中船は灰色の空へと上りつつ南へ針路を取って行った。
ここからは本街道目指して北へまっしぐらだと、エナムスは地図を広げた。
「進むにつれ泉付きの林も多くなるし、三日もすれば川に出て渡ればすぐ街道だということで、ありがたくも方位磁針をもらったぞ」
親方から渡された磁石の針がクルクル回り、じきに一つの方向を指して止まる。その先には、仁王立ちに煙草を吹かせているヴァルドの元締の背中があった。
「……元締は、何を怒ってるんですか?」
乱れた赤毛を逆立ててそろりと聞く見習いに、親方は小さく笑った。
「三十男のつまらん誇りが傷付けられたってことだ。気にするな」
「え!? 元締って三十になるんですか?」若者は目を見張って声をひそめた。「それにしちゃ、大人じゃないですよね……?」
エナムスは両眉を上げて見習いに横目を送り、口の中で呟いた。
「……それは……お前だけには言われたくないと思うぞ」
そうそう配給とは別に差し入れをもらいましたと、アシェルは荷物の中から白い小袋を取り出した。
「給仕長から親方に上等の黒茶、元締には上等の煙草、俺には……なんだろ、これ」
バラ色のリボンで結ばれている花模様の紙の箱を取り出す。立ち上る甘い香りを覚えつつ開けると、黄金の満月の形をした焼き菓子がたくさん詰まっていた。
とたんに脇で馬鹿笑いが起こる。いつの間にか近寄って手元を覗いていたカラックが、大口を開けて身をよじらせていた。見習いを指して何か言おうとするが、腹が痙攣して言葉にならない。それに怪訝な顔を向けていたアシェルだが、手元の菓子に目を落とすと嬉しそうに頬を緩めた。
「おいしそうですよね」
笑いの調子が一段と高くなる。こうなると収まるのに時間がかかるが待ってもいられないと、エナムスは見習いに合図してロバに乗り、その腹を蹴った。
「三十男の誇りは回復したのかね」
灰色の空の下、風が出てきてゆっくり雲が動き始めている。