2.山ウズラ
外へ出ると昨夜は見えなかったデドロン谷が、朝靄の中に広がっていた。
店小屋は谷へ落ち込む崖の中腹にあり、脇には峠からの岩階段が下へと続いている。階段の向こう側は大きく切れ込んでいて、深い底を速い流れが谷へと走っていた。小屋からは谷の急斜面が一望でき、そこに張り付くように小さな家が点在していて、細いつづら道が間を結んでいる。小屋脇の岩階段を少し下った所に、流れにかかる木の橋があり、村への道と繋がっていた。
この橋の上でカラックは、後から来た二人に下方の流れを示した。水しぶきの上がる岩の上に、半身を水に沈めた人の姿が横たわっている。見覚えのある麦色の髪のかかる顔は真っ白で、すでに生気を失っていることは明らかだった。口を引き結んだカラックの下で、いつの間に下りたのか、岩の重なる間から見習いの若者が姿を現し、遺体に近づいていく。
「カラック、こっちだ」
声のする方を見上げると、小屋脇からエナムスが手を振っている。一旦そちらへ上ってから彼の後に続き、小屋の裏の小道を通って流れの底へ下りた。岩を飛び越え、橋下を目当てに進んで行った先で、若者が遺体を引き上げている。詳しく検分するまでも無く、ぱっくり開いた頭の傷が致命傷だと分かった。
「あそこから落ちたのか……」
エナムスが見上げた橋の上で、村人が顔を引きつらせて覗いている。
「おい! 仲間を呼んで来い!」
彼の叫びを聞いて村人は慌てて頷き、太い角笛のような声を谷に響かせた。
獣人が遺体にすがって泣いている。カモシカ族の彼はヤヌムといい、レスコーの訪問先である友人だった。昨夜は久しぶりの出会いを喜び、杯を傾けたのだと言う。遅くなってかなり酔っていたこともあり、泊るよう勧めたのだが、雇い主には恩があるので世話をしたいと帰って行ったそうだ。あの時泊めていればと悔やむ彼の背を、アシェルが優しく撫でている。その様子を見ていたカラックは、顔を上げて周りを取り巻いている村人に言った。
「とにかく、死人が出たんだ。魂解きをしないとな。村長か長老はいるか?」
村人達の間に動揺のざわめきが起こり、熊族の獣人が困惑気に口を開く。
「それがその……先日から出かけていて、あと五日ぐらいは戻らないんで」
カラックは思案顔で腕を組んだ。
「五日か……まあ、即死の様だから、しなきゃならないってことも無いんだが……」
「あっしらは、それでも構いませんが」
村人達が頷きかけたところで、アシェルの声が割って入る。
「俺がします」
「何!?」
カラックとエナムスが同時に叫び、見開いた眼をシーリアの若者に向けた。
「お前……できるのか?」
怪訝そうな親方の問いに、アシェルはレスコーの遺体から目を離さずに頷いた。
「はい……たぶん」
人も死の床では、苦しみを除く薬――安送薬を与えられる。しかし薬が間に合わず、恐れと苦しみと共に迎える不慮の死においては、魂はその地にとどまり、不作や病気、人々の不和という呪いをもたらす。そこで呪いが地に深く沈む前に『魂解き』と呼ばれる祈りが唱えられるのであるが、長い難解な祈りは誰もができるわけではない。普通は専門の祈祷師か、アムダルカのような辺境地では村長や長老が取り行うのであるから、アシェルが名乗り出た時に二人が驚いたのも無理はなかった。
「たぶんて何だよ。たぶんて……」
口の中でぶつぶつ言うカラックの前で、アシェルは遺体の上に屈み込むと、その額に手を置いた。目を閉じ、静かに息を整える。
「――竜に」
一時の沈黙の後、若者は歌うように言葉を紡いだ。
竜に。イディンの地に。
この問いかけに応えよ。
魂はどこから来たのか。
魂はどこへ行くのか。
人は生き、そして死ぬ。
その間にあるものは何か。
人はどこを流離っていたのだろう。
帰るべき場所はあるのか。
この魂は嘆いたか。
この魂は叫んだか。
それとも
――歌を歌ったのだろうか……
聴いているうちに、カラックの眉間に皺が寄る。横のエナムスを軽く肘で突くが、親方の方は身動きせず、祈りを綴る若者を見つめている。
魂よ、聞け。
今、イディンが応える。
竜がお前のもとにやってくる。
光よりの竜。
その栄光はお前のもの。
その誉れもお前のもの。
竜が知っている。
この地に満ちているものは何か。
それはイディンと同じもの。
もはや流離う者はいない。
すべてが帰るその先を
竜が知っている。
魂よ、望み願え。
望み願え、魂よ。
竜の守りを――
「――竜の守りを…」
村人達が慌てて唱和し、祈りは終わった。
「耳金にはなんて彫ってある?」
カラックが問うと、遺体を荒布に包んでいた村人がレスコーの耳飾りを取り、その台座に彫られた文字を読んだ。
「パシャンとありやすが、アムダルカとも書き足して彫ってありやす」
「だったら、ここでも埋葬できるな」
イディンの人々は、生まれた地の名を刻んだ耳飾りをつけるのが常であった。基本的に弔いも同じ地で行われるが、生地さえ決まっていれば、希望する別の地の名を記すこともできる。おそらくレスコーは、パシャンよりアムダルカに心を寄せていたのだろう。
荒布の遺体は村人達に運ばれていく。赤岩原野の岩山の上での風葬の後、遺骨は村の共同墓地に入れるとヤヌムが申し出た。
村人達が引き揚げて行く姿をぼんやり見上げているアシェルに、カラックが低い声で話しかける。
「おい、良い度胸だな。ありゃ、竜の歌の替え歌じゃねえか。村の連中も戸惑ってたぜ」
「大丈夫です」
若者が急に振り向き、はっきりした声で応えたので、カラックは思わず顎を引いた。
「村は……レスコーは大丈夫です」
言葉を繰り返した笑顔に、涙が一筋伝っていた。
村の中央に大きな岩棚が張り出しており、その上が集会場となっている。エナムスが、村の猟師達に山ウズラの取引についての条件を説明すると、彼らは喜んで受諾し、例によって契約書の読み合わせが行われた。が、その文面に首を傾げたアシェルは、しまうよう渡された書類を受け取りながら、エナムスに疑問を向けた。
「親方、アムダルカとの契約相手が、ラスタバンでなく給仕長タニヤザールになっていましたけど、いいんですか?」
「ああ、それが親父殿の方便だ。これを元にタニヤザールからラスタバンへの二重契約になっている」エナムスは肩をすくめた。「ラスタバンの……少なくともティムリアで、取引の相手が人間だろうと獣人であろうと気にする者はいないが、まあ中には煩いのがいるんだ。で、書類上の提供者はタニヤザールにして文句の出ないようにしている」
見習いが怪訝そうに眉をひそめる。
「それって……全然意味ないじゃないですか」
「そうだ、意味はない」
親方は放つように言うと、若者に視線を向けた。
「外の者に獣を狩らせ、屠殺をさせ、解体をさせ、命への呪いとは無関係を装う。そのくせそれを元に上等な料理を作り、腹いっぱい食べ、舌鼓を打って身を肥やす」両の眼には沈黙の暗い谷がある。「――意味はない。けれど……それがイディンだ」
傍で二人の会話を耳にしたカラックは、親方の言葉に見習いが、また情けなく打ち沈むだろうと思っていた。しかし、若者は目を逸らすことなく、その喉元を微かに緊張させただけだった。
とりあえず午後に営巣地を視察し、明日ファステリア用の山ウズラを捕獲、明後日にこちらの指定する場所へ搬送することになった。パシャンとは逆の方向のべト・シェアンの台地で、ここからは一日半かかる。ウズラもなんとか大丈夫だろうとエナムスは言うと、強張ったアシェルの頬を軽くつまんで小さく笑った。
「べト・シェアンに、お前の好きな空中船がくるぞ。ラスタバンの誇る、大空中船イズレエル・ガレ号がな。姫君達を乗せてファステリアに向かう途中で休憩がてら降りるんで、山ウズラをそこで積み込めとのお達しだ」
アムダルカはカモシカ族と熊族の混合型の獣人村で、また成人男子の殆どが農家と猟師を兼業とし、レスコーの友人のヤヌムもその一員である。
午後になって、ラスタバン一行はドルカという熊族の猟師頭に案内され、山ウズラの営巣地へ向かった。村から先の路を進むと、店小屋からは見えなかった段畑があり、穀物や果実が栽培されている。急斜面のつづら道を一刻近く下って行き、デドロン谷の底にある草原に着いた。一見保護色で分からないが、目を凝らしてみると山ウズラが草陰のそこここに見つかり、どれもが丸々と肥えてパシャンのものとは段違いである。
「すごいな。こいつを街に卸そうという気にはならなかったのか?」
カラックが感嘆して訊くと、猟師頭は苦笑した。
「一番近場のパシャンがあの通りで、逆のトルマリも五日かかるんでさ。まあ、あっちもパシャン程ではないにしても、苦労の割には買い叩かれるんで。でも、ラスタバンの空中船に来てもらえれば、願ってもねえ事です」
今回はべト・シェアンまでの搬送だが、月一度の巡回運送船はもっと近場に下りる予定である。空中船からすれば、パシャンとデドロンの距離は何という事もないが、それぞれの猟師達にとっては天と地ほどの違いだった。
翌日猟師達が、各々大きな籠を背負って草原に下り立つ。ウズラの捕獲は矢ではなく投げ網で行われ、捕えた鳥は指定された大きさのみが籠に入れられて、その他はまた野に放たれた。夕刻前にはそれぞれの籠が一杯になり、エナムスの確認のもとに蓋がされる。鳥には獣のような気を遣わなくて済むのだが、生きて暴れることには変わりなく、猟師の籠担ぎを手伝ったアシェルは、さんざん手をつつかれた。
崖路を上って村に帰り、籠を集会場に並べて明日の出発に備える。準備が整って店小屋へ帰る途中、ヤヌムが夕食用に獲った山ウズラをくれると言うので、アシェルが残って彼の捌くのを待つことにした。彼の家の脇には谷川から引いた水場あり、そこで三羽まとめて首を刎ね血抜きをする。
「今夜の夕食は、どこもウズラ料理だね。ヤヌムの家じゃ誰が料理を作るのかい?」ウズラを逆さに持って羽をむしりながら、アシェルはふと顔を上げた。「そう言えば、女の人が見当たらないけど?」
「……物忌みですのさ。昨日レスコーがあんなになっちまって、女子どもは三日は外へ出ちゃいけない決まりになってますんで」獣人は肩をすくめた。「ちょっと不便でやすが、仕方ありませんて」
「それは残念だなあ。子どもだって三日も家の中に閉じこもりじゃ、つまんないだろうね」
羽をむしり終え血抜きがすむと、ヤヌムがウズラの体を裂いて取りだした内臓を器に入れる。本体の内部を洗うため、アシェルは樋口の近くにあった桶に水を張ったが、長く引かれた樋の陰に何か落ちているのに気付いた。
「やあ、これは……」拾ったアシェルの表情が緩む。手の平ほどの玩具の船。船体は丁寧に青く塗られていたが、ところどころ剥げて古ぼけた木の地が出ている。「ヤヌムのところは男の子がいるんだ」
「ああ、こんなところにありましたんで!」差し出された玩具を、獣人は嬉しそうに受け取った。「坊の奴、見つからないと泣いていたんですよ。これで機嫌が治りやす」
やがて捌き終わった三羽のウズラを盆の上に乗せ、ヤヌムはアシェルに手渡した。
「こんなに!? 食べきれるかな?」
「なあに、レスコーがいろいろお世話になったお礼ですって」微笑んで手にした船を示す。「こいつも見つけてもらったんで……」
アシェルも笑みを返すと別れを告げて、細道を店小屋へと歩み出した。空はまだ明るかったが、アムダルカ村は早くも山の陰に暗く沈んでいった。
翌朝、ラスタバンの一行は岩小屋を後にした。カラックが小屋の扉の取っ手に鎖と錠を掛ける間に、調達人の二人は先に岩階段を下っていく。
「……ここへ行商に来る奴を、なんとか当たってみるか」
独り言ちたヴァルドは、自分も見習いに甘いなと思いつつ、軽く放った手の内の鍵をポケットに入れた。馬の手綱を取りながら岩階段を下り、橋を渡る。
――レスコーはあの辺りだっけ?
一昨日のことを思い出してぼんやり下を覗くと、上流から流れてきた木の枝が岩にぶつかり、くるりと渦に巻き込まれた。一旦沈んで浮き上がった際、つられるように水底から青い小さな物が水面に現れる。何かと目で追ったが、それと分からない間に渦巻く飛沫に揉まれ、沈んでは浮かびながら早い流れの彼方に消えていった。
谷底の細長い草原を一日進むと、両側にあった岩山は急速に遠のいていき、視界が一杯に広がっていく。谷を出た所を南へ進むとやがてトルマリに通じる街道に出るのだが、彼らはべド・シェアンへの西の道をとった。アムダルカの猟師達にとっても不案内らしいが、単純な道筋なので地図と天測で迷うことなく、翌日の昼下がりには目的の地に着くことができた。
「さあて、問題はこっからだよな」緩やかな起伏が続く台地を見渡し、カラックが呟く。「愛するイズレエルがいつ来るかってのが」
「イクスミラレスで受けた情報から察するに、まあ遅くても二日の内にくるだろう」エナムスは地図を覗き込むと、東の空を示した。「話によると、デドロンの上空を通ると言うからあっちの方角からだな」
親方から地図を受け取り、目を落としたアシェルが腑に落ちない顔を向ける。
「でも親方。空中船がティムリアからエルシャロンの航路を取るにしちゃ、随分南に外れてますよ。まさか、山ウズラのためにここまで来るんですか?」
エルシャロンはファステリアの王都である。それを聞いてカラックが声をあげて笑った。
「ラスタバン王ならやりかねないからな。さすがシーリア、地図を読むのも朝飯前か」
猟師達が小さな樫の木の茂みを見つけ、そこに簡単な天幕を張り始めたので、馬とロバを下りたラスタバンの一行もそれを手伝った。地面に杭を打ちながらエナムスが言う。
「ラスタバンの姫君達が、エルシャロンの前にチェルキス行くからさ。国王の姉君の嫁ぎ先だ」
南のトルマリを更に進むと、良港に栄えるチェルキスの城塞都市があり、ここの領主はラスタバン王家と姻戚関係にあった。
「姫君達がこんな遠出をするなぞ滅多にないから、これを機会に伯母君が是非いらっしゃいってことだ」
「姫達にとっちゃ、えらい迷惑だったりしてな」
カラックがニヤリと歯を見せた。
東の空への物見を交替にしながらその晩を過ごし、翌日昼近くに、船体を銀色に輝かせながら空中船が姿を現した。急いで天幕をたたみ、船の飛んでいった方角へ進み始める。船は間もなく丘の起伏の間に見えなくなったが、陽が傾き始めた頃彼方に烽火が上った。
「やれ、方角はばっちりだ。もう少しだ、頑張れよ」
カラックが声をかけると、猟師達は手を挙げて威勢よく返事をした。