7
戻ってきた拓斗の手には新しいグラスはない。
「どうしたの?」
立ったままの拓斗に聞く。
「やっぱさ、店変えていい?」
「うん、別にかまわないけど。」
突然の申し出に驚きながらも、残りのビールを飲み干してパブを出ることになった。
店を出て無言のまま拓斗は歩き出し、パブからほど近いバーへと入って行った。
ここは内装がとてもおしゃれで出されるお酒もおいしいけど、その分料金も割高なのでほとんど来たことがない。
バーの隅のほうのカウンター席に二人並んで腰かけ、カクテルを注文する。
「何飲むか決まってる?」拓斗が聞く。
「わたしはカルーアミルクかな。」
「え、そんな甘いの飲むの?」
「そんな気分なの。」
雰囲気のいいバーでカルーアミルクとはなんともちぐはぐな気もするけれど、なんとなくそういう気分だった。
こってり甘いのが飲みたくなった。
ほどなくしてふたりの前にひとつずつグラスが置かれる。
「Cheers」
二度目の乾杯をして、そっと口をつけた。
濃い甘さが口に広がる。
拓斗はしゃべらずに、物思いにふけっているようだった。
暖かい、橙色の照明に右側にいる拓斗の横顔が照らされる。
そのまま、その静寂を邪魔せずにカルーアを口に含んだ。
「マルガリータを。」
空になったカルーアミルクのグラスを下げてもらい、あたらしく注文する。
だんだんとわたしの飲むペースのほうが早くなってくる頃だ。
「マルガリータ、か。」
沈黙していた拓斗が、ぽつりと口を開いた。
「ドライマティーニを。それとチーズの盛り合わせも。」
頼んだ彼の横顔は、なんだか悲しげだった。
「別れたんだ。」
彼が切り出したのは、ちょうどわたしの頼んだマルガリータが目の前に置かれたときだった。
「えっ?」
「彼女と、別れた。」
「・・・・・はあっ?」
思わぬ告白に変な声が出る。
「それっていつのこと?」
「ひと月くらい前、かな。」
「もうすぐ帰るっていうのに。なんで?っていうか、ひと月前って、」
「・・・・・うん、あの時。」
そう言って口をつぐんだ彼に、頭が真っ白になった。
ひと月前。ちょうど彼がつぶれてた、あの時。
課題のストレスだけじゃなくて、精神的にも落ち込んでて、それで潰れてしまったのか――
「ここまで頑張ってきたのに?どうして今になってなの?」
「な。なんでだろうな。でもやっぱり俺が悪いんだと思う。課題で忙しかったりするとあんまり連絡とらなかったし、だいぶ寂しい思いもさせた。」
自嘲するようにグラスを煽る彼に、胸が痛くなる。
「そんなの彼女もわかってたはずじゃない。わかってて、帰りを待つって言ってくれたんじゃないの?拓斗が一生懸命頑張ってきたことはみんなが知ってる。わたしも知ってる。」
「でも、彼女が一番つらい時にそばにいてやれなかった。彼女にとっても限界だったんだと思う。それだけ、離れた時間も、距離も大きかった。」
それでも、そんなのないって思う。
彼女も辛かったかもしれない。寂しかったかもしれない。
でも拓斗だって日本を離れて彼女とも遠く離れて寂しかったはずだし、待っていると言った彼女のもとへ戻ることを励みに苦しい時間を乗り越えてきたのに。
しかも、もう少しで帰国するっていうあの時期に。
辛いのは拓斗のはずなのに、わたしの胸も苦しい。
もう一度同じものを、と彼がバーテンダーに頼む。
ペースが上がってる。
それが彼の苦しさを表しているような気がした。
でも、今のわたしは、慰める言葉をもたない。
二人にしかわからないことがある。
だから安易な慰めの言葉を使ってはいけないような気がした。
「辛かったね。それなのに最後までよく頑張ったね。」
言えたのはそれだけだった。
その精神状態でがんばり通す大変さは、わたしでもわかるから。
ぽつり、とカウンターに涙のしずくが落ちたのが見えた。
うつむく拓斗からそっと視線をそらす。
そして、思う。
今の拓斗には自分の思いを告げるべきではない。
こんなときに言うなんて、とてもできそうになかった。
――永遠に、封印してしまうしかないかな。
天井を仰いで、そっと息を吐いた。
区切りが悪いので今回はちょっと短めです。