10
俺自身体力的にも精神的にも限界だったんだと思う。
『拓斗、ほら、帰るよ。』
気づいたら沙夜に腕を取られ、家に帰ってベッドに寝かされていた。
いつの間にか入れられていた体温計は38度を指している。
そりゃぼーっとするし頭も痛いわな、と自分で納得したところで、うつらうつらと眠りに落ちていった。
夢の中でも彼女の言葉が何度も繰り返された。
どんなに苦しくても熱のせいか目は醒めず、まどろみの中で彼女に責められる。
―じゃあ俺はどうすればよかった?
―そもそも俺が別れようって言ったときに別れればよかったんじゃないか?
―寂しい想いをさせるって言ったはずだよな?
―それでも待つって言ったのはあいつじゃないか。
―そもそも頻繁に連絡をとっていたら本当に別れずにすんだのか?
―これはほんとに俺だけのせいか?
ぐるぐるぐるぐる気持ち悪いほど同じことが頭の中をめぐる。
――こんな苦しい思いばかりならイギリスに留学するんじゃなかった。
そのとき、少しひんやりしたものが額に触れた。
ああ、誰かの手だ。誰かがそばにいてくれている。
それで不思議と落ち着いて、無限の思考のループから抜け出すことができた。
時折目を覚ますと、かならずそこに沙夜の姿があった。
時には食事を作る後ろ姿だったり、パソコンに向かう横顔だったり、ベッドのすぐそばで本を読む姿だったり。
それにひどく安心して、最近の寝不足をすべて取り戻すかのようにぐっすりと眠り続けた。
だから。
目が覚めたときに沙夜の姿がなかった日曜日の朝。
かしゃん、と鍵が落とされたことに気づいた瞬間に布団を跳ねのけ、玄関へダッシュして扉を開けていた。
『沙夜っ!』
ドアを開けるとすぐそこに沙夜の姿があった。
「どうしたの?」
不思議そうに問われて、はっと我に返る。
「えっっと、あの、」
自分でも理由をうまく説明できなかった。
ただ、瞬間的に「行ってしまう」と強く思って体が動いただけだった。
怖かった、たぶんそれが一番ぴったりくる表現だと思う。
『外寒いんだからそんな恰好で出てきたらまたぶり返すよ。ほら、なか入ろ。』
そう言って一緒に中に入ってきた沙夜の姿に、ものすごい安堵感を覚える。
「朝ごはん食べる?それとももう少し寝る?」
いつものように微笑みながら聞く沙夜に
「・・・ご飯食べて寝る。」
と言うと、彼女が吹き出した。
朝ごはんを食べ後ふたたびベッドに入るように促され、横になったもののなんとなく不安になった。
「じゃあ沙夜お母さんは自分の仕事に戻るわ。」
おどけて言った彼女は俺の額に手を当てた。
これ以上彼女を拘束すべきでないことも、自分にその資格がないこともわかっている。
彼女も課題を仕上げなければならないからここがリミットだということも。
わかってはいるものの、風邪をひいたときの子供のように、行くなと駄々をこねそうな自分がいた。
それで不安の正体をはっきり悟った。
――ひとりになるのが、寂しい。
気づいた時にはもう、額から離れていく沙夜の手を追うようにつかみ、ベッドから起き上がっていた。
すると。
沙夜が両手を背中に回してふうわりと抱きしめた。
『大丈夫。もう少し休めばまた元気になるから。みんな待ってるよ。』
何も言わないけれど、まるでそう言って安心させるように、とんとん、と背中を叩いてくれる。
そんな風にあやされるのが嫌ではなくて、自分も沙夜の背中に手を回した。
「・・・ありがと。」
きゅっと沙夜を抱きしめる。
沙夜は胸の中にすっぽりと収まっているのに、なんだか自分が包まれているような気持ちになった。
こんなふうにして、俺は沙夜に助けられてきた。
でもこうして思い返してみて初めて気づいたことがある。
彼女は元来シャイで、自分の気持ちを伝えるのも苦手だけれど、ボディタッチもおそらく苦手なほうだと思う。
外国人は基本的に距離が近いので、この2年間で「体の一部が触れる」ということに慣れてきたとは思う。
けれど、彼女から「触れる」のはほとんど見たことがなかった。
ましてや「抱きしめる」なんて行動を彼女から起こすなんてますます想像しがたい。
けれどあの時は、その行動に不自然さなんて全くなくて、
そのあとはまた、いつも通りの距離を保つ沙夜に戻っていたから、
あの時包んでくれたのが沙夜だったっていうことをどこかきちんと認識しないまま、
そこにある意味や、それが沙夜だったことの大きさ、
それらを「彼女の優しさ」という簡単な言葉でひとくくりにして、さして考えることなく病気の記憶に放り込んでしまっていた。
あの時いったい沙夜は、どんな気持ちで抱きしめていてくれていたんだろう。
人にとても気を使う性格の彼女が、
学問以外のことであれば、言いたいことも言わずに抑えてしまう彼女が、
そしてどんなに辛くてもうまく人に頼れない不器用な性格の彼女が。
そしていったいどんな気持ちで、
このあいだ、別れ際にハグしてくれたんだろう。
おとなしい彼女が自分からハグしてくれたのも、
『2年間、拓斗と一緒でよかった。ありがとう。』耳元でささやかれた言葉も、
そしてあの日自分のためにおしゃれして来てくれたことも、
ほんとは全部、彼女の心の声を全部表していたのに。
ハグのために回された手がするりと離れて距離ができ、見えた彼女の瞳に抑えきれなかった気持ちがすべて出てしまうまで、
巧妙に隠されてきた彼女の気持ちにはまるで気付けなかった。
逸らされる前に見えた瞳は少し切なげで、泣きそうで、
それでいて、まるで別れがイヤだと精一杯叫んでいるようだった。
笑顔で手を振っても、その気持ちが笑顔に完全に覆いつくされることはなくて。
「最後まで沙夜に気ぃ遣わせっぱなしかよ・・・。」
沙夜が消えていった改札の前で頭をかかえてしゃがみこむ。
しばらくそこにうずくまったあと、のろのろと立ち上がり、
自転車をおして静かな町を歩いて家に帰った。
まだ荷造りも始めていない部屋の中、電気もつけずただベッドに腰掛ける。
そのとき、着信を告げるメロディーが部屋に響きわたった。
なかなか時間がなくて、投稿が遅くなりました。
次からまた、沙夜編に戻る予定です。