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盛り上がるパブの片隅で、人知れずひっそりと深く息を吸い込んで、吐き出した。
長い長いコースの終わり。半分以上、まだ信じられずにいる。
イギリスにやってきたのは2年前。
大学院で学ぼうと意気込んできたものの、これまで英語が特に得意でもなかったわたしは当然のように英語の壁にぶちあたった。
言いたいことがうまく言えなくて、内容を理解していても主張ができないために「理解で来ていない」と思われることも多く、理不尽な思いもたくさんした。
基礎レベルはほかのクラスメイトと変わらないはずだと思うのに、英語の理解が遅いために人よりも理解にかける時間が長くなり、ときにはどういうことを聞かれているのか、質問の意図を理解するのに長い時間が必要だったこともある。
そうして苦しみながらコースの終わりを迎えることができるのは、クラスメイトのおかげだと思う。
同じアジア圏からの留学生の女の子、わたしのつたない英語も理解してくれる地元イギリスの子、そして、同じ日本からの留学生。
「ほんとに今日で終わりなんだね。」
手元のビールグラスを弄びながら、隣に声をかけた。
「だね、なんか信じられないけど。」
応えたのは、行永拓斗。同じ日本からの留学生だ。
彼は父親の仕事の都合で幼いころにカナダに住んでいたことがあり、そのため英語はわたしよりもはるかにできる。
そのため、うまく理解できないときは彼に何度も意味を聞いたことがあった。
はっきり言って、彼がこのコースにいなければわたしがコースを無事に終えるのは難しかっただろう。
周りに目を向けると、クラスメイトが陽気に踊っているのが目に入った。
その輪に入ることももちろんあるのだけれど、今日はなんとなくしんみりとしていたい気分だった。
いつもなら隣の彼、拓斗も必ず輪の中に入っているのだが、今日は珍しくじっとビールを飲んでいた。
拓斗はクラスメイトみんなから愛されていて、どんなときも誰からも必ず誘われる。
だから、普段はこうして日本人同士隣り合わせで座ることはほとんどないので、こうして二人で座っているのはなんだか不思議な気がした。
「沙夜はいつ発つの?」
喧騒の中、隣で拓斗が聞いた。
「あと1週間くらいしたら発つつもり。拓斗は?」
「俺は1カ月くらいいるかな。ちょっと旅行してから帰るつもり。」
海外だからというのもあると思う。
普段は男性の名字ではなく名前を呼ぶのには抵抗があるのだけど、イギリスに来てからはみんなファーストネームで呼び合っているので、彼のことは「拓斗」と呼んでいる。
ちなみにクラスメイトは彼のことを「タク」と呼んでいる。
「タクト」はどうも言いにくいらしい。
わたしはみんなからそのまま「サヤ」と呼ばれているが、発音しにくいのかどうしても「サラ」に聞こえる。
だから拓斗に名前を呼ばれると自分が自分である感じがして懐かしいような嬉しい気分になる。
わたしが彼を「タク」と呼ばずに「拓斗」と呼ぶようにしているのは、そういう理由から来ている。
もちろん彼に言ったこともないし、ずいぶん自分勝手な理由だけれど。
「なんかさ、ほんといろいろあったよね。」
思い返すといろんなことがあって、自然と笑顔になる。
「いきなり拓斗に英語で話しかけられるしさ。」
「ああ、そうだったな。」
大学院最初のオリエンテーションで教室に着いたわたしは、なんとなく落ち着かない気分で適当な椅子に腰かけ、オリエンテーションの資料を眺めていた。
そこに茶髪のアジア系の男の子が入ってきて、話しかけられたのだ。
『オリエンテーションの会場を探してるんだけど、ここで合ってる?』
アジア系の顔立ちにしてはほとんど癖のない英語を話すので、イギリスに住むアジア系のハーフの人なんだろうと思った。
『ええ、あってると思いますよ。』
そう言うと、彼はほっとしたように笑ったのを覚えている。
そのまま彼はわたしの隣に座り、彼の専攻が自分と同じであること、彼はイギリスに来たばかりであることを知った。
『あのさ、じゃあ君はどこの国から来たの?』
そう彼から聞かれたので、当然のように
『日本から来たの。』
というと、
『え、まじで?日本人?俺も日本人なんだけど。え、ってか日本語でいいじゃん。』
そういう彼に驚きつつ、気づかずに英語で話していた自分たちに爆笑したのだった。
日本人だからといって、それからいつも一緒にいたわけではない。
彼には彼の友達ができて、わたしにはわたしの友達ができて、だから普段はもちろん別行動になった。
けれど、朝会うと日本語で「おはよう」って挨拶するし、
帰りに「おつかれ」って言って手を振るし、
そういうちょっとしたやりとりにずいぶん救われていた。
ほんのたまに、時間ができるとどちらかの家で一緒に和食を作って食べたり、
グループ課題がうまくいかないときは愚痴を言い合ったり、
プレゼンで切羽詰まってると「大丈夫?」って声をかけてくれたり。
ほんとに、思い返すときりがない。
「タク、来なよ!」
店の奥、踊っているクラスメイトから彼に声がかかる。
「ほら、いっといでよ。」
言うと、彼はわたしを見て、一瞬心配そうな顔をした。
そのとき、Hey, come on, Taku! とさらに彼を呼ぶ声が聞こえた。
「ほら、大丈夫だから。」
ね、と安心させるように微笑むと、彼は軽くうなずいてクラスメイトの輪へと向かった。
それがなんとなく眩しくて、少し寂しくなった。