第4話:英雄の夜と、駆け出しの頃
宴の喧噪が、壁一枚を隔てて轟いていた。
「勇者様に乾杯!」
「海竜を倒した影武者を従える、史上最強の英雄に!」
「いや、そもそも影武者を送り込んだこと自体が策略だったんだ! 到着前に恐怖を与えておく、勇者様の心理戦術だよ!」
港町ハーヴェンの一番大きな酒場を貸し切った祝宴。レオンのために町を挙げて用意された英雄の凱旋パーティーだ。
その主賓であるはずのレオンは、酒場の裏口からこっそり抜け出し、港の突堤に一人で座っていた。
「…………」
夜風が潮の匂いを運んでくる。波が静かに岸壁を叩いている。海竜がいなくなった海は嘘みたいに穏やかだった。
(俺が倒したんじゃないのに。俺は馬車に揺られてただけなのに。着いたら全部終わってたのに)
遠くの酒場から「勇者様万歳!」の声がまた聞こえた。レオンは膝を抱え、深い溜息を吐いた。
(どうして、こうなったんだっけ)
潮風が頬を撫でる。記憶が、勝手に巻き戻り始めた。
レオン・ハートフィールド。農村出身、長男。
特別な才能はなかった。剣術の師匠に「筋は悪くないが、まあ普通だな」と言われたのが、戦闘に関する最高の評価だった。
それでも冒険者になりたかった。理由は単純で、村の英雄譚に憧れたからだ。かっこいい冒険者が魔物を倒し、人々を救い、感謝される。そういう人間になりたかった。
村を出て冒険者ギルドに登録したのが、半年前。ランクは最下位のF。依頼はゴブリンの見張り、薬草の採取、荷物の運搬。地味で、泥臭くて、英雄譚とは程遠い日々。
それでも楽しかった。少なくとも、あの日までは。
最初の「誤解」は、本当に些細なことだった。
森で薬草採取の依頼を受けていたときのことだ。目当ての薬草を見つけ、しゃがんで摘んでいたら、背後の茂みから大型の野犬が三頭、飛び出してきた。
レオンは腰を抜かした。
正確には、しゃがんだ状態から立ち上がろうとして足がもつれ、尻もちをついた。剣に手をかける余裕すらなかった。
そのとき、偶然にも真上の枯れ木の大枝が折れた。前日の暴風雨で半ば折れかけていた枝が、レオンが尻もちをついた衝撃か、あるいはただのタイミングの一致か、まさにそのとき落下した。
巨大な枝が三頭の野犬を直撃し、悲鳴を上げて散り散りに逃げていった。
レオンは呆然と座り込んだまま、目の前の出来事を理解できずにいた。
「す、すげえ……」
声がした。振り向くと、木の陰から一人の大柄な男がこちらを見ていた。全身に鎧を纏った重戦士。その目が、畏怖に見開かれている。
「あんた、今……剣も抜かずに、座ったまま野犬を追い払ったのか?」
(いや、枝が勝手に落ちただけ――)
「しかも、俺が隠れてたのに気づいてたろ。こっちを振り向いたもんな。気配察知もできるのか」
(振り向いたのは声が聞こえたからだ!)
レオンが否定の言葉を口にする前に、男はずかずかと歩み寄ってきて、レオンの手を両手で握りしめた。
「俺はガルド。あんたに付いていきたい。いや、付いていかせてくれ! 俺は腕っ節だけは自信があるが、あんたみたいな判断力のあるリーダーをずっと探してたんだ!」
(待ってくれ。待ってくれ。全部違う)
だが、ガルドの目は完全に据わっていた。子供が憧れのヒーローを見つけたときの、あの光。こちらの言葉など耳に入らない種類の確信がそこにあった。
(……まあ、仲間がいた方が安全だし、いいか)
それが、レオンの人生最大の判断ミスだった。
波の音が、記憶を現在に引き戻す。
レオンは突堤に座ったまま、苦い笑みを浮かべた。
(あのとき断っていれば、今頃はF級冒険者として地味に薬草を摘んでいたんだろうな)
酒場の方角から、パーティーメンバーの声が聞こえた。
「リーダーを探せ! きっと一人で海辺の警備をしてくださっているに違いない!」
(してない。ただ逃げてきただけだ)
レオンは慌てて突堤の影に身を潜めた。
ガルドが仲間になった直後から、「偶然」は加速し始めた。
二人で受けた護衛依頼。盗賊団が馬車を襲撃してきたとき、レオンは恐怖で馬車の御者台から転落した。その拍子に足が手綱に引っかかり、馬が暴走。暴走した馬車が盗賊団の真ん中に突っ込み、全員を吹き飛ばした。
「さすがリーダー! 自ら囮になって敵の陣形を崩すとは!」
ガルドは感涙していた。
(落ちただけだ! 馬が勝手に走っただけだ!)
この一件を目撃していたのが、旅の途中だった聖職者の少女、ミーシャだった。
「あの方……自らの身を危険に晒して、他者を守るために……なんて尊い……」
翌日、ミーシャはレオンの前に跪き、「どうか私をお供にしてください」と懇願した。
レオンは「いや、あれは本当にただ落ちただけで」と言いかけたが、横からガルドが割り込んだ。
「リーダーは謙虚だからな! 自分の功績を語らない主義なんだ! なあリーダー!」
(お前が全部喋ってるだろうが!!)
だがミーシャの目にはすでに、ガルドと同じ光が宿っていた。こちらの言葉が届かない種類の確信。
こうして、レオンのパーティーは三人になった。
潮風が少し冷たくなってきた。レオンは膝を抱える腕に力を込めた。
(二人が仲間になってからは、もう止められなかった)
小さな依頼をこなすたびに、何かしらの「偶然」が起きた。レオンが躓いて落とした松明が乾燥した巣穴に引火し、中のモンスターを焼き払った。レオンがくしゃみをした瞬間に、背後から襲いかかっていたスライムがガルドの盾に激突した。レオンが「腹減った」と立ち止まった場所が、たまたま罠が仕掛けられた一歩手前だった。
すべてがただの偶然だった。だが、偶然が積み重なると、人はそれを「実力」と呼び始める。
「リーダーの戦術眼は常人の理解を超えている」とガルドは言った。
「リーダーの行動には全て深い意味がある」とミーシャは言った。
そしてレオンが「違う」と言えば言うほど、二人は「この謙虚さこそがリーダーの美徳だ」と目を輝かせた。
否定が肯定に変換される。弁明が美談に書き換えられる。
レオンは、いつの間にか否定することをやめた。
「いたぞ! やはり港の警備をしてくださっていたんだ!」
ガルドの大声が闇を切り裂いた。レオンは突堤の影に隠れていたはずだったが、ガルドの索敵能力は無駄に高かった。
「リーダー、町の皆様がお待ちですよ。海竜討伐の功労者として、ご挨拶を」
ミーシャが丁寧に、しかし逃げ道を塞ぐように言った。
(功労者じゃない。俺が着いたときには全部終わってた。いつものパターンだ)
レオンは観念して立ち上がった。二人の仲間に挟まれて酒場に戻る道すがら、ふと空を見上げた。
星が綺麗だった。
(冒険者になりたかっただけなんだけどな)
村を出たときの自分は、こんな未来を想像していなかった。英雄になりたかったのは本当だ。でもそれは、自分の力で誰かを守れる人間になりたかったという意味であって、嘘の上に嘘を塗り重ねた虚構の英雄になりたかったわけではない。
だが今さら「全部嘘です」と言えるわけがない。
国家が認めた。王が命令を下した。民衆が信じている。そして何より、「見えない暗殺者」がどこかで見ている。レオンがこの茶番を降りた瞬間、あの存在が自分をどう処理するか分からない。
(結局、進むしかないんだよな)
酒場の扉が開いた。光と歓声が溢れ出す。
「勇者様のお帰りだ!」
レオンは、いつもの引きつった笑顔を顔に貼り付けた。コクッと頷く。歓声がさらに大きくなる。
その笑顔の奥で、駆け出し冒険者だった頃の自分が、小さく溜息をついた。
宴もたけなわの頃。
レオンは喧噪の中、ふとテーブルの上に置かれた座布団に目を落とした。あの宿場町の市場で、刀を持った青年が譲ってくれたものだ。遠征にも持ち歩いている。
座布団の柔らかさに手を沈めながら、レオンは思った。
(あの座布団の兄ちゃん、今頃どこで何してるんだろうな。きっと俺みたいな面倒ごととは無縁で、のんびり旅をしてるんだろう。羨ましい)
その「のんびり旅をしている兄ちゃん」が、数時間前までこの町にいたことも。
この町の海竜を一刀のもとに斬り伏せた張本人であることも。
レオンの英雄譚の全てを、無自覚に書き続けている作者であることも。
レオンは、何一つ知らない。
座布団だけが、二人の唯一の接点として、静かにそこにあった。




