第2話:海鮮丼と海竜討伐令
「生の魚を、そのまま飯に乗せて食う……だと?」
港町ハーヴェンの食堂で、ジンは目の前に置かれた丼を凝視していた。
艶やかに光る赤身、透き通った白身、脂の乗った腹身。それらが酢飯の上に美しく並べられ、微動だにしない。
――微動だにしない。
(……本当に動かないのか?)
ジンの知る「魚」とは、死してなお牙を剥く凶器だった。魔境の川魚は息絶えた後も反射的に毒針を射出し、内臓には触れた者の皮膚を溶かす酸が詰まっている。調理とは「殺した後にもう一度殺す」工程であり、生食など自殺行為そのものだった。
しかし、周囲の客たちは何の警戒もなく箸で魚を摘み上げ、口に放り込んでいる。
(この町の人間は、毎食命懸けで飯を食っているのか……? いや、違う。外の世界の魚は、死んだら本当に死ぬのか)
ジンは覚悟を決めて箸を取った。まず切り身の端を軽く突いた。反撃がないことを確認し、慎重に持ち上げる。口元まで運び、最後にもう一度殺気の有無を探ってから、意を決して口に入れた。
目が見開かれた。
(……甘い。とろける。そして、俺を殺そうとしてこない)
感動に打ち震えるジンの目尻に、薄っすらと涙が浮かんだ。隣の席の漁師が怪訝そうにこちらを見ている。
「兄ちゃん、そんなに旨いか? うちの海鮮丼は」
「……これほど平和な食事は生まれて初めてだ」
漁師はカラカラと笑った。変わった客だ、としか思わなかった。
同じ頃。王都の宮殿、謁見の間。
偽勇者レオンは、王の前で直立不動のまま、胃の底が冷えていくのを感じていた。
「――よって勇者レオンに命ずる。港町ハーヴェンの沖合に出現した海竜の討伐を」
(海竜!? 海竜って、あの海竜か!? 国の正規軍でも手が出せないやつだろ!?)
レオンの顔面は蒼白になったが、背後に控えたパーティーメンバーたちは歓喜に沸いていた。
「ついに海竜級の任務ですよリーダー! あの覇気をもってすれば朝飯前でしょう!」
「リーダーなら波の上を歩いて海竜のところまで行けそうですわね!」
(歩けるか! 俺は泳ぎも怪しいんだぞ!)
だが王の御前で「無理です」とは言えない。何しろレオンは、先日の宿場町で「剣すら抜かず覇気だけで魔物を粉砕した英雄」として王都中に名を轟かせてしまっている。
レオンは引きつった笑顔で、コクッと頷くことしかできなかった。
港町ハーヴェンに、海竜の噂が広がり始めたのは、ジンが二杯目の海鮮丼を注文した頃だった。
「沖の海竜が段々と岸に近づいとるらしい。今朝は漁に出た船が三隻沈められた」
食堂の主人が、不安そうに窓の外の港を見ながら言った。客たちの表情にも緊張が走る。
「だが安心しろ。王都から勇者様が派遣されるって話だ。あの、覇気だけで魔物を倒すっていう……」
(覇気だけで魔物を倒す?)
ジンの箸が止まった。
(まさか、あの男か。あの、座ったまま不可視の攻撃で魔物を解体した、あのバケモノ――)
全身の血が一瞬で冷えた。三杯目の海鮮丼を注文しようとしていた手が引っ込んだ。
(この町に来る。あのバケモノが、この町に来る)
ジンは丼の残りを一気にかき込み、代金を置いて席を立った。未練はあった。この店の海鮮丼はあと五回は食べたかった。だが命あっての物種だ。
(食い逃げならぬ食い終わり逃げだ。あのバケモノが到着する前に、この町を出る)
ジンが港の市場を足早に通り抜けていると、鮮魚店の前で足が止まった。
木箱に氷を敷き詰め、その上に巨大な魚が丸ごと一匹横たわっている。銀色の鱗が朝日を反射して輝き、海鮮丼の感動がまだ舌に残っているジンの目を引いた。
「おっ、兄ちゃん目が高いね。今朝一番の大物だ。この町を出るなら土産にどうだい」
店主が威勢のいい声で言った。ジンは値段を聞き、財布の中身と相談し、少し迷ってから頷いた。
(次の町で自分で捌いて食えばいい。……外の世界の魚なら、捌いている最中に反撃してくることもないだろう)
店主が魚を包んでいるその時。
港の方角から、地響きのような低い咆哮が聞こえた。
海面が盛り上がり、巨大な影が水柱とともに姿を現した。全長30メートルはあろうかという蛇のような竜体。海竜だ。岸壁に係留された漁船が波で大きく揺れ、市場の客たちが悲鳴を上げて逃げ出した。
ジンは包みかけの魚を受け取りながら、海竜を一瞥した。
(ああ、海の大物か。……魔境の海蛇に比べれば随分おとなしそうだな。毒霧も吐かないし、分裂もしない)
ジンにとって海竜は脅威ではなかった。だが、問題は別にあった。
海竜が咆哮とともに放った衝撃波で、市場の屋台が吹き飛んだ。木箱が砕け、氷が散乱し、並べられていた鮮魚が石畳の上に叩きつけられた。
ジンが手に持っていた包みかけの魚も、衝撃で店主の手から弾かれ、汚れた地面に落ちかけた。
――カチッ。
思考が介在する余地はなかった。
ジンの体は「自分の所有物への加害」を検知し、自動で起動した。瞬きよりも速い抜刀。斬撃は海面を走り、空気を裂き、港の向こうで咆哮していた海竜の首を音もなく両断した。
刀が鞘に納まった音と、海竜の巨体が左右に分かれて海面に沈む音が、ほぼ同時に港に響いた。
「……危なかった。地面に落ちるところだった」
ジンは落下する魚を空中でキャッチし、軽く砂を払って包みの中に戻した。
背後で、港全体が凍りついていた。
鮮魚店の店主は、後にこう証言した。
「あの刀の兄ちゃんは、海竜なんか見てもいなかった。ただ魚が落ちるのを防いだだけだった。信じてくれ、本当にそれだけなんだ」
だが、その証言を聞いた人々の解釈は、すでに別の方向に走り出していた。
「それこそが真の強者の証ではないか。海竜すら眼中にないということだろう」
「いや違う。あれは勇者様の先遣隊だ。勇者様が前もって送り込んだ手練れに違いない」
「つまり、勇者様の部下ですら海竜を瞬殺するということか。勇者様本人はどれほどの……」
噂は雪だるま式に膨らみ、ジンが町を出る頃には「勇者の影武者が海竜を一刀のもとに斬り伏せた」という武勇伝が港町の隅々まで行き渡っていた。
レオンたちが港町ハーヴェンに到着したのは、夕暮れ時だった。
馬車から降りたレオンの目に飛び込んできたのは、港を埋め尽くす群衆と、万雷の拍手だった。
「勇者様万歳!」
「さすが勇者様! 到着する前に部下を遣わして海竜を倒してくださるなんて!」
「影武者の方も凄まじい腕前でした! さすが勇者様の配下!」
(は? ……はぁぁぁっ!?)
レオンの思考が停止した。
(海竜が、もう死んでる!? しかも俺の部下がやったことになってる!? 俺にそんな部下はいない! また『見えない暗殺者』の仕業か!? なんで俺の手柄になるんだ!?)
パーティーメンバーたちは当然のように胸を張っていた。
「さすがリーダー。我々が到着する前に布石を打っておくとは。これぞ真の戦略家ですな」
「影武者を使うなんて、リーダーの謙虚さの表れですわね。ご自身の手を汚さず、部下に経験を積ませるなんて」
(お前らの解釈力はどうなってんだ!!)
レオンが絶叫を飲み込んで引きつった笑顔を作ったその時。
ふと、港町の門の方角に目をやった。
夕日に照らされた街道を、一人の黒い外套の青年が歩いて行くのが見えた。その背中は小さく、腰の刀が夕陽を反射してちらりと光った。
(あれは……座布団を譲ってくれた、あの良いやつか? この町に来てたのか)
恐怖と重圧で押し潰されそうなレオンの胸に、ほんの少しだけ温かいものが灯った。
(ああいう、普通で無害な奴がいるだけで救われるよな……。また会えたら、今度こそ俺が何か奢ってやりたいな)
レオンは小さく微笑んだ。
一方、門をくぐって街道を早足で歩くジンは、背後から響く万歳の声に背筋を凍らせていた。
(あのバケモノが来た。来てしまった。間一髪だった)
脇に抱えた鮮魚の包みをぎゅっと握り直し、ジンは振り返ることなく歩調を速めた。
(俺が斬った海の大物を、あのバケモノが到着する前に処理できたのは不幸中の幸いだ。あれがまだ生きていたら、あのバケモノが俺の存在に気づく口実になりかねなかった。……次はもっと内陸の、海のバケモノが出ない町に行こう)
街道の先に広がる夕焼けの中、ジンは安堵の息を漏らした。
その背中を、レオンは「無害な一般人のささやかな旅路」として微笑ましく見送っていた。
全力で逃げている背中を、癒やしとして眺めていた。




