第67話:旅立ちの前夜。隣国の王と騎士に、筋肉流の別れを告げました
建国宣言から一夜明けた、深夜。
『聖筋肉連合王国』は、宴の余韻を残しながら静かな眠りについていた。
だが、この国の中枢である『神殿』だけは違った。
フンッ……! フンッ……!
重い吐息と、金属が擦れる音が響いている。
月明かりの下、二つの巨大な影が黙々とスクワットを繰り返していた。
隣国バルガの王、ガンドル。
そして、その腹心である騎士団長、ゼノン。
彼らは上半身裸になり、玉のような汗を流しながら、互いの筋肉を確かめ合うようにトレーニングに励んでいた。
「こんな時間までトレーニングとは、相変わらず熱心ですわね」
私が声をかけると、二人はピタリと動きを止めた。
「おお、アレクサンドラ嬢!」
「お、師匠!」
二人が同時に振り返る。
その体からは湯気が立ち上っている。健康そのものだ。
「どうなされた? 宴はまだ続いておるのだろう? 主役が抜けてきていいのか?」
「ええ。皆様には悪いですが、こっそり抜け出してきましたの」
私は彼らの近くにあるベンチに腰掛けた。
この二人は――国境を越えてまで私を助けてくれた。
旅立つ前に彼らには、きちんと挨拶をしておくべきだと思ったのだ。
「もうすぐ旅立ちますので、お別れの挨拶に参りました」
「……やはり、行くのですか」
ゼノンが俯く。
彼はバーベルを置き、寂しげな瞳で私を見た。
その手には、いつも私を守ってくれた『黒曜丸』ではなく、汗を拭うタオルが握られている。
「はい。私の居場所は、ここにはもうありませんから」
国は完成した。
セレスティアという最高の指導者もいる。
私がこれ以上ここに居座れば、ただの「飾り」になってしまう。それは私の筋肉が許さない。
「ガハハ! そう湿っぽい顔をするな、ゼノン!」
沈黙を破ったのは、ガンドルの豪快な笑い声だった。
彼はゼノン様の背中を、バシン! と力強く叩いた。
「ぐはっ……! へ、陛下!?」
「師匠さえよければ、こいつを連れて行ってはくれんか!?」
「えっ?」
陛下の提案に、私は目を丸くした。
「本来であれば、余も行きたいところなのだが……いかんせん、一国の王という立場がある以上、1箇所に留まるのはともかく、世界を放浪する旅というのは少しな」
(……ここに数ヶ月も留まっていること自体、どうかと思いますけど)
私は心の中でツッコミを入れたが、口には出さなかった。
彼らなりの理屈があるのだろう。たぶん。
「だが、ゼノンは別だ。こいつは身軽な騎士団長(独身)だし、何より師匠のことを溺愛しているからな!」
「陛下……」
ゼノン様が顔を赤らめる。
ガンドルはニカっと笑い、親指を立てた。
「こいつが役に立つことは、師匠も知っているだろう? 剣の腕は大陸一、家事もできるし、荷物持ちとしても優秀だぞ!」
「ええ。十分に存じ上げております」
私は頷いた。
ゼノンの実力は、これまでの戦いで証明済みだ。
彼がいれば、旅の安全と快適さは保証されるだろう。野宿でも美味しいご飯が食べられるかもしれない。
でも。
「……今回の旅に、同行してもらうことはできませんわ」
私は静かに、しかしはっきりと告げた。
「な、なぜです!」
ゼノンが食い下がった。
彼は私の前に跪き、切実な表情で訴える。
「私では……不服ですか? 足手まといになりますか?」
「いいえ。貴方は最高の騎士です」
「ならば! ……分かっています。貴女が、誰よりも『筋肉』を一番に愛していることは」
彼は苦しげに胸を押さえた。
「貴女の心の中で、私が一番になれないことは百も承知です。ですが……私は2番目でいいのです。貴女が筋肉を愛でるその横で、貴女をお守りできるなら、それだけで……!」
健気な言葉だ。
普通の令嬢なら、ほだされて頷いてしまうかもしれない。
これほどのイケメンに、ここまで尽くされるのだから。
だけど。
「それではだめですわね」
「えっ?」
私は冷たく言い放った。
「2番目でいいと……そんなことを言う男を、誰が愛せますか?」
「……!」
ゼノンが息を呑む。
私は立ち上がり、彼を見下ろした。
「私は貪欲なのです。私が筋肉を愛するよりも、もっと深く愛したいと思った方と、その愛を育みたいのです」
私の理想は高い。
妥協なんてしたくない。
筋肉と同じくらい、あるいはそれ以上に熱くなれる相手でなければ、私のパートナーは務まらない。
最初から「2番でいい」なんて諦めている男に、私の心は動かせない。
「アレクサンドラ嬢……」
ゼノンが呆然としている。
ショックを受けているようだ。
……ふふふ。
(くぅ〜! 私にメロついてるイケメンを振る! これやってみたかった〜! 私、今最高にリア充してんじゃん!)
内心でガッツポーズを決める。
悪役令嬢として転生して以来、ずっと「捨てられる側」だと思っていた。
まさか自分が、こんな極上の男を袖にする日が来るなんて。
人生、何が起こるか分からないものだ。
「私に愛されたいと願うならば」
私は彼に背を向け、肩越しに振り返った。
「超えてみなさい。私の筋肉への愛を」
それは、実質的に「不可能」と言っているに等しい。
だって、私の筋肉愛はオリハルコンよりも硬く、海よりも深いのだから。
「……くっ、ふふふ」
沈黙を破ったのは、ガンドルの笑い声だった。
「ガハハ!! これは一本取られたな!! ゼノン! お前はまだ修行不足だ!!」
陛下がバンバンと床を叩いて笑う。
「2番目でいいなどと、ぬるいことを言っているうちは、師匠の隣には立てんということだ! 出直してこい!」
「……はい」
ゼノンが立ち上がった。
その顔に、迷いはなかった。
振られたはずなのに、その瞳は以前よりも強く輝いている。
「仰る通りです。……私は甘えていました」
彼は『黒曜丸』を強く握りしめた。
「分かりました。出直します。……いつか必ず、貴女の筋肉よりも、私自身を愛させてみせます。いえ、貴女の筋肉さえも嫉妬するほど、私が貴女を愛してみせます!」
ちょっと何言ってるかわからない……。
それになんだかよく分からない理屈だが、とにかくやる気になったようだ。
「ふふ、楽しみにしていますわ」
私は微笑み、二人に向き直った。
そして、スカートの裾をつまみ、深く一礼した。
「ガンドル陛下。ゼノン様。……本当に、ありがとうございました」
「師匠?」
「お二人が来てくださらなければ、この領地は守りきれませんでした。貴方たちの力と、そして何よりその熱い魂に、私は何度も救われました」
これは本心だ。
彼らがいなければ、魔神との戦いも、領地の開拓も、もっと困難なものになっていただろう。
最高の仲間であり、最高の弟子たちだ。
「感謝してもしきれません。……この御恩、一生忘れませんわ」
「よせ、師匠。湿っぽいのは苦手だ」
ガンドルが鼻をこすった。
「余らこそ、感謝しておる。退屈な王宮生活で錆びついていた魂を、再び燃え上がらせてくれたのだからな」
「ええ。貴女に出会えて、私の剣は……いえ、人生は輝きを取り戻しました」
ゼノンも微笑む。
月明かりの下、男たちの汗と筋肉が美しく輝いていた。
「それでは、また会う日まで。ごきげんよう」
私は二人に背を向け、歩き出した。
もう、振り返らない。
私の道は、前へ前へと続いているのだから。
「アレクサンドラ嬢」
背後から、ゼノンの声がかかった。
「はい?」
「必ず、貴女を振り向かせてみせます! ……覚悟していてください!」
熱い宣戦布告。
私は振り返らず、足を止めず、片手だけを上げて応えた。
「期待しないでお待ちしておりますわ」
「ガハハ! 先は遠そうだな!」
背後で響く豪快な笑い声を聞きながら、私は闇夜へと消えていった。
さようなら、最強の武人たち。
いつかまた、どこかの空の下で。
その時まで、スクワットを欠かさないようにね。




