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第5話:朝起きたら伝説級の魔獣がいたので、とりあえず『お手』させてみました

 

 チュンチュン、と小鳥のさえずりが聞こえる。

 爽やかな風が頬を撫でる。


 私はゆっくりと目を開けた。

 視界いっぱいに広がるのは、抜けるような青空と、白い雲。


「んん~っ! よく寝た!」


 私は瓦礫の上に敷いた毛布を蹴飛ばし、大きく伸びをした。

 屋根がないので日差しが直撃だが、おかげで目覚めは最高だ。

 背中の痛みもない。私の背筋は、硬い瓦礫の上でもウォーターベッドのようにリラックスできる柔軟性を持っているからだ。


「お、お嬢様……。おはようございます……」


 少し離れた場所から、トムの力ない声が聞こえた。

 彼は馬車の中で寝ていたはずだが、目の下に濃いクマができている。


「あら、トム。顔色が優れませんわね。枕が変わって眠れませんでしたか?」


「いえ……一晩中、狼の遠吠えと謎の唸り声が聞こえて生きた心地がしなかったんですが……お嬢様は気づかなかったんですか?」


「ええ。爆睡でしたわ」


 図太さは生きる力だ。

 私は昨日のリフォーム作業で薄汚れたワンピースの埃を払い、周囲を見渡した。


 昨日、物理で風通しを良くした(破壊した)屋敷。

 その周りには、私が積み上げた瓦礫の山が城壁のようにそびえ立っている。


「さて、まずは腹ごしらえですね。昨日の残りの干し肉は……」


 私がバスケットに手を伸ばそうとした、その時だった。


 ドスーン……ドスーン……。


 地面が揺れた。

 小石が跳ねるほどの振動。

 トムが「ひっ」と悲鳴を上げて馬車の陰に隠れる。


 足音だ。

 それも、とてつもなく巨大な何かの。


「グルルルルゥ……」


 低い唸り声とともに、屋敷の正面にある林の木々が、メリメリと音を立ててなぎ倒された。


 現れたのは、巨大な「影」だった。


 体長は5メートルを超えているだろうか。

 全身が鋼のような黒い剛毛に覆われた、二足歩行の熊。

 額には赤い紋様があり、鋭い牙と爪は血で濡れたように赤い。


「あ、あ、あれは……『血濡れた覇熊ブラッディ・グリズリー』……!!」


 トムが絶望的な声を上げた。


「Aランク指定の災害級魔獣ですよ! 騎士団が一個小隊で挑んで全滅したっていう……終わった……俺たちの開拓は一日で終わったんだ……」


 トムがガタガタと震えながら神に祈りを捧げ始めた。


 私はその巨体を見上げた。

 圧倒的な質量。

 殺意の塊のような赤い瞳が、私たちを「餌」として認識し、ギロリと睨みつけている。


(でかい……!)


 私の胸が高鳴った。

 恐怖ではない。

 歓喜だ。


 王都では、こんな素敵な生き物にはお目にかかれない。

 動物園のライオンなど、これに比べれば子猫同然だ。


「グルアアアアアアアアッ!!」


 グリズリーが咆哮を上げ、巨大な右腕を振り上げた。

 その爪の一撃だけで、この廃屋など粉々にできるだろう。


 トムが目を閉じる。


 私は一歩、前に出た。


「コラ」


 私は低い声で言った。

 お腹の底から出す、よく通る声だ。


「朝っぱらからうるさいですわよ」


 グリズリーの動きが一瞬止まった。

 目の前のちっぽけな人間が、逃げもせず、あろうことか説教をしてきたことに困惑しているようだ。


「グルッ……?」


「それに、人様の家に入るときはノックをするのがマナーです」


 私はニッコリと笑い、右手を軽く握った。


「しつけが必要ですね」


 グリズリーが激怒した。

 ナメられたと悟ったのだろう。

 風を切る音とともに、丸太のような剛腕が私めがけて振り下ろされた。


 ブォンッ!!


 直撃すれば人間など肉片になる一撃。


 私はそれを、左手一本で受け止めた。


 バァンッ!!


 乾いた音が響く。

 私の足元の地面がひび割れ、少し沈んだ。

 だが、それだけだ。

 私の腕は1ミリも下がっていない。


「グ……ガ……!?」


 グリズリーの目が点になっている。

 自分の最強の一撃が、木の枝のような細腕に止められたことが理解できないようだ。


「握手ですか? 力が強すぎますわ」


 私は掴んだ剛毛の手首を、ギュッと握り返した。


 ミチチチチッ……。


 骨が軋む音がした。


「ギャウンッ!?」


 グリズリーが悲鳴を上げる。

 離れようと暴れるが、私の万力のような握力からは逃げられない。

 毎朝の日課であるハンドグリップ(鉄塊)でのトレーニングに比べれば、熊の手首など柔らかいマシュマロのようなものだ。


「さて、どうしましょうか」


 私はもう片方の手で顎に手を当てて考えた。


 殺して食べるのもいい。

 熊鍋は精がつくと聞くし、この毛皮は冬の敷物に最高だろう。


 だが、この不毛の地で開拓をするには、()()が足りない。

 重い木材を運んだり、岩をどかしたりする「力仕事要員」が欲しいところだ。


 私はグリズリーの目を見た。

 恐怖に濡れた瞳。

 そこには知性があった。言葉は通じなくとも、「格付け」は理解できる程度の知能はあるようだ。


(よし、決めた)


 私は右の拳を握りしめ、グリズリーの鼻先に突きつけた。

 当てる寸前で止める。

 その拳圧(プレッシャー)だけで、グリズリーの鼻の周りの毛が逆立った。


「あなた、私の()()()になりなさい」


「……?」


「『お手』」


 私は掴んでいた左手を離し、右手を差し出した。


 グリズリーは呆然としている。

 言葉が分からないのか、状況が飲み込めていないのか。


「あら、分かりませんか?」


 私はもう一度、空いた手で地面にある岩(バスケットボール大)を拾い上げた。

 花崗岩の一種で、ハンマーでも砕けない硬度を持つ石だ。


 私はそれをグリズリーの目の前で、リンゴを潰すようにパシュッと握りつぶして粉にした。


 パラパラと、砂になった石が風に舞う。


「『()()』です」


 グリズリーの顔色が青ざめた(ように見えた)。

 彼は即座に理解したようだ。

 従わなければ、自分の頭があの岩のようになるのだと。

 野生の本能が、「こいつには逆らうな」と警鐘を鳴らしまくっているのだろう。


 スッ。


 グリズリーは震えながら、巨大な前足を私の手のひらに乗せた。

 肉球が意外と柔らかい。


「よくできました! いい子ですわ!」


 私は背伸びをして、グリズリーの頭をワシャワシャと撫でた。

 剛毛だが、手触りは悪くない。


「今日からあなたの名前は『ポチ』です。私の番犬として、しっかり働きなさいね」


「クゥ~ン……」


 伝説の災害級魔獣ブラッディ・グリズリー改めポチは、完全に戦意を喪失し、借りてきた猫のように地面に伏せた。


「お、お嬢様……?」


 馬車の陰から、トムがおっかなびっくり出てきた。

 状況が理解できず、脳がショートしかけているようだ。


「トム、紹介しますわ。新しい従業員(スタッフ)のポチです」


従業員(スタッフ)……? 化け物ですが……」


「力持ちですので、開拓の役に立ちますわよ。さあポチ、まずはあそこの倒木を運んでちょうだい」


 私が指差すと、ポチは「ワン(のような鳴き声)」と答えて、嬉々として(恐怖に突き動かされて)働き始めた。


 ◇


 その様子を、遠くの丘の上から見ている人影があった。

 昨日、アレクサンドラに警告をしてきた銀縁眼鏡の辺境伯、ルイスだ。


「……バカな」


 彼は持っていた望遠鏡を落としそうになった。


「ブラッディ・グリズリーを手懐けただと……? テイマーのスキルを持っているという情報はない。それに、あれは魔法による支配ではない」


 ルイスの「魔力視」には、支配魔法特有の黒い鎖が見えていない。

 そこにあるのは、純粋な「暴力による屈服」という原始的な主従関係だけだ。


 Aランクの魔獣を一撃も殴ることなく、威圧だけで従わせる。

 そんな芸当ができるのは、この大陸でも数えるほどの英雄か、あるいは魔王くらいのものだ。


「アレクサンドラ……。君は一体、何者なんだ」


 ルイスは口元を手で覆った。

 笑いがこみ上げてくるのを止められなかった。


 昨日、屋敷を素手で破壊した時も驚いたが、これは予想を遥かに超えている。

 魔力を使わずに、生物としてのスペックだけで魔獣を圧倒する人間など、研究対象として希少すぎる。


「素晴らしい。……欲しい」


 彼の眼鏡の奥の瞳が、怪しく光った。


「彼女のすべてを解明したい。あの異常な筋肉繊維、魔力を持たない肉体強度……細胞の一つ残らず研究し尽くしたい」


 学究の徒としての、そして少し歪んだ好奇心が、彼の中で爆発しようとしていた。


 アレクサンドラの知らぬところで、変態(魔法オタク)のターゲットに認定された瞬間だった。


 こうして、彼女の開拓生活二日目は、頼もしいペット()と、粘着質なストーカー(イケメン)の視線と共に始まったのだった。


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