第35話:執事たちが『どちらが真の執事か』を決めるために、筋肉決闘(マッスルファイト)を始めました
バルガ国軍3万人の入会から数日が過ぎ、カルスト領はかつてない賑わいを見せていた。
そんなある日の午後。
筋肉の神殿の前で、一人の男が思い詰めた表情で立っていた。
我が家の執事、トムである。
身長2メートル(元は170センチ)、体重120キロ(元は54キロ)。執事服が悲鳴を上げるほどの巨漢に進化した彼は、しかし今、どこか自信なさげに背中を丸めていた。
「……はぁ」
彼が溜息をつくと、それだけで突風が巻き起こり、近くの洗濯物が飛んでいく。
「どうしましたの、トム? プロテインの味が落ちましたか?」
私が声をかけると、トムはビクッとして振り返った。
「お、お嬢様……。いえ、プロテインは最高です。悩みがあるのは、私の心です」
「心?」
トムは視線を逸らし、屋敷の方を見た。
そこには、ルイスの妹君セレスティアに付き従う老執事、セバスの姿があった。
セバスは目にも止まらぬ速さでティーカップを並べ、優雅にお茶を淹れている。その所作には一点の曇りもない。
「……彼ですよ」
トムがギリッと奥歯を噛み締めた。
「セバスチャン殿が来てからというもの、私の影が薄くなっているのです! 掃除も洗濯も、彼が『サササ』と言って動けば一瞬で終わってしまう! 私の唯一のアイデンティティである『アレクサンドラ様の執事』という仕事が、あのジジイに奪われている!」
トムの目から涙がこぼれた。
見た目はゴリラだが、中身は繊細な男のままだ。
彼なりに、自分の存在意義に悩んでいたらしい。
「トム……」
「もう我慢できません! 男として、執事として、白黒つけさせていただきます!」
トムはドスドスと足音を鳴らして、セバスの元へと歩み寄った。
その背中からは、今まで見たこともないような闘気が立ち上っている。
「おい、始まるぞ……!」
「トム兄貴がキレた!?」
周囲でトレーニングをしていたガイルたちや、バルガ兵たちがざわめき始める。
何事かと、ルイスやゼノン、ガンドルも集まってきた。
トムはセバスの前に立つと、懐から「白い物体」を取り出した。
「セバスチャン殿! 決闘を!」
トムが叫ぶと同時に、その物体をセバスの足元に叩きつけた。
ペチンッ。
乾いた音が響く。
地面に転がったのは、湯気が出ている「茹でささみ」だった。
「……おや」
セバスが片眼鏡の位置を直し、足元のささみを見下ろした。
「食材を無駄にするとは、執事にあるまじき行為。お嬢様に怒られますぞ」
「否!」
トムが即答した。
「後で洗って食べれば済む話! ここでは決闘を申し込む相手の足元に『茹でささみ』を投げることが流儀! 手袋などという筋肉に何の影響も及ぼさないゴミは投げない!」
トムは胸を張った。
「そして、決闘を受ける相手がその茹でささみを拾った瞬間、決闘は正式に成立するのです!」
いつの間にそんなルールができたのかは知らないが、トムは大真面目だ。
セバスは数秒の沈黙の後、静かに屈み込んだ。
そして、ささみを拾い上げ、土をパンパンと払った。
「……良いでしょう。受けます」
彼は茹でささみを懐にしまい、スッと立ち上がった。
その瞬間、老人の纏う空気が一変した。
柔和な執事の仮面が剥がれ落ち、かつて世界を震え上がらせた『閃光の処刑人』の殺気が漏れ出す。
「うおおおおおおッ!!」
筋肉戦士たちが沸き立った。
「決闘だー!! アレクサンドラ様の腹心、トム兄貴がついにその実力を見せるぞー!」
「相手は伝説の暗殺者だ! 世紀の一戦だぞ!」
広場があっという間にコロシアムと化した。
私は慌てて二人の間に割って入ろうとしたが、ルイスに止められた。
「放っておけ、アレクサンドラ」
「でも、怪我をしたら……」
「これは雄の戦いだ。プライドを懸けた戦いに、主人が口を出すのは無粋というものだ」
隣でガンドルも「うむ! ささみを投げたからには後へは引けぬ!」と頷いている。
仕方ない。見届けるとしよう。
◇
対峙する二人。
トムは身長2メートルの巨体。
対するセバスは、枯れ木のように細い老人。
体格差は歴然だ。だが、放たれるプレッシャーは互角。
「ふんぬっ!」
トムが気合を入れた。
全身の筋肉が膨張し、血管が浮き上がる。
ビリィッ!!
執事服が弾け飛んだ。
上半身裸になったトムの肉体は、オリハルコンの彫像のように輝いている。
見事なパンプアップだ。
対するセバスチャンは、余裕の笑みを浮かべている。
「……素晴らしい筋肉ですな。ですが、戦いは質量だけで決まるものではありません」
「その笑み……いつまで保っていられますかな?」
トムが低く唸った。
次の瞬間。
ドォンッ!
トムが消えた。
巨体からは想像もできない瞬発力だ。
「速い! あんなデカイのに!」
「かすかにしか見えねぇ!」
観衆が叫ぶ。
トムの突進は、まるで砲弾だ。真正面から激突すれば、城壁すら粉砕するだろう。
だが、セバスは動じない。
「サササッ」
口で効果音を言いながら、セバスは陽炎のように揺らめいた。
トムの豪腕が空を切る。衝撃波が木をなぎ倒す。
セバスはすでに、トムの背後に回り込んでいた。
「遅いですな」
セバスの手刀が、トムの首筋へと振り下ろされる。
勝負あったか。
誰もがそう思った。
しかし。
ゴゥンッ!!
トムが振り向きざまに、裏拳を放ったのだ。
視界の外からの攻撃に対する、完璧なカウンター。
「……!?」
セバスが目を見開く。
回避が間に合わない。
彼は咄嗟に体を逸らしたが、頬に鋭い痛みが走った。
ツー……。
セバスの頬から、一筋の血が流れる。
「……ほう」
セバスは頬の血を指で拭い、目を細めた。
「私の『閃光』を読みましたか」
「見えてはいません」
トムは拳を構え直した。その瞳は獣のように鋭い。
「ですが、感じました。このカルスト領では、殺気を感じてから動いていては死にます。風の動き、殺気の揺らぎ……ポチとの散歩で磨き抜かれ研ぎ澄まされた『野生の勘』です!」
トムの背後に、巨大な熊の幻影が見える気がした。
毎日、Aランク魔獣と命懸けのじゃれ合いをしていれば、嫌でも第六感が覚醒するというものだ。
トムは深く息を吸い込んだ。
「はぁぁぁぁ……」
呼吸とともに、彼の筋肉がさらに赤熱し、体表から湯気が立ち上る。
限界を超えたパンプアップ。
『過剰・筋肉・充填』。
「見くびっておりました。こちらも全力でいかせていただきましょう」
セバスが手袋を締め直した。
老執事の全身から、空気が凍りつくような殺気が溢れ出す。
もはや執事ではない。処刑人の顔だ。
「ササササササササッ!!」
セバスが分身した。
高速移動による残像だ。十人以上のセバスが、全方位からトムに襲いかかる。
対するトムは、動かない。
ただ、天に向かって咆哮した。
「マッスル! パワー! 力こそパワー!! はぁぁぁぁ!!!」
ドォォォォォォン!!
トムが地面を殴りつけた。
衝撃波がドーム状に広がり、地面の岩盤をめくり上げる。
広範囲攻撃。
セバスの分身たちが、衝撃波に吹き飛ばされて消えていく。
「なっ……!?」
本物のセバスが空中に逃れる。
だが、トムはそれを見逃さない。
「そこですッ!!」
トムが足元の岩(1トン)を蹴り上げた。
サッカーボールのように飛んでいく巨岩。
「くっ!」
セバスは空中で体をひねり、岩を足場にして再跳躍した。
人間離れした身のこなしだ。
それを観戦している、私たち。
「やや、セバスの方が有利か?」
ガンドルが腕組みをして唸る。
「いえ、トムの方もあれだけの質量の筋肉を保持しながら、驚くべき速さで対応しています」
ゼノンが分析する。
「技のセバスと、剛のトムですわね」
私はブロッコリーとコカトリスのむね肉を食べながら頷いた。
どちらも素晴らしい仕上がりだ。
トムがここまで成長していたなんて、飼い主として鼻が高い。ナイスバルク。
戦いは激化していく。
『いいよー! キレてるキレてるぅ!』
『僧帽筋が並じゃないよぉ!』
『ダビデ像!』
周囲からはトムの筋肉を褒め称える言葉が飛び交う。
セバスの鋭い手刀が、トムの鋼鉄の胸筋に弾かれる。
トムの剛腕ラリアットが、セバスの残像を切り裂く。
ジムの前の広場は、すでにクレーターだらけになっていた。
衝撃で窓ガラスが割れ、風圧で洗濯物が異次元へ消える。
「はぁ……はぁ……」
「ぜぇ……ぜぇ……」
数十分後。
二人は肩で息をして、互いに距離を取った。
トムの体は傷だらけだ。セバスの鋭い攻撃が、鋼の筋肉をわずかに切り裂いている。
セバスも無傷ではない。服はボロボロで、片眼鏡が割れ、呼吸が乱れている。
「認めましょう、トム殿」
セバスが口元の血を拭った。
「貴殿は、ただの力任せの男ではない。その巨体の中に、主をお守りするという鋼の意思が宿っている」
「貴公こそ……。その老体で、私のフルパワーを受け流すとは。まさに伝説の技」
二人の間に、奇妙な友情のようなものが芽生え始めていた。
拳で語り合った者同士にしか分からない世界だ。
「次で、決めましょう」
「望むところです!」
トムが最後の力を振り絞り、右拳を引く。
セバスが低く身を沈め、抜刀術のような構えを取る。
「マッスル・インパクトォォォッ!!」
「瞬殺・千手!!」
二つの影が交錯しようとした、その瞬間だった。
「――お茶の時間ですわよ」
カチャリ。
戦場のど真ん中に、ティーカップを置く音が響いた。
ピタリ。
二人の動きが、極限状態で静止した。
トムの拳は、セバスの鼻先1センチで止まっている。
セバスの手刀は、トムの延髄の寸前で止まっている。
二人の視線の先には、優雅に紅茶を啜る私がいた。
「3時になりました。休憩にしませんか?」
私がニッコリと微笑むと、二人の体から殺気が霧散した。
「……はっ! 申し訳ありません、お嬢様!」
「これは失礼いたしました。すぐに新しいお茶を」
シュババババッ!!
二人は同時に動き出した。
戦いではない。
トムが瓦礫を片付け、テーブルをセットする。
セバスがお湯を沸かし、茶葉を用意する。
その連携たるや、長年連れ添ったパートナーのようだ。
阿吽の呼吸で、完璧なティータイムの準備が整えられていく。
「どうぞ、お嬢様」
「最高の茶葉でございます」
二人が同時に、私に紅茶とお茶菓子を差し出した。
「あら、ありがとう。二人とも、いい動きでしたわよ」
私は紅茶を受け取り、二人を見た。
「どちらが上か、なんて決める必要はありませんわ。トムにはトムの、セバスにはセバスの良さがありますもの」
「お嬢様……」
「剛力で道を切り開くトムと、技で細やかな気配りをするセバス。二人がいれば、このカルスト領は最強の執事団を持つことになります」
私はウィンクした。
「仲良くしてくれますか?」
トムとセバスは顔を見合わせた。
そして、照れくさそうに笑い、ガシッと握手を交わした。
「……私の負けですな。あの剛腕で繊細なテーブルセットを行うとは」
「いいえ、貴公の紅茶の淹れ方、勉強になりました」
会場から、割れんばかりの拍手が巻き起こった。
筋肉と技術の融合。
そして、執事としての矜持。
素晴らしい戦いだった。
こうして、カルスト領に「最強の執事コンビ」が誕生した。
彼らがタッグを組んだ時の戦闘力は、もはや国家戦力に匹敵するのだが、それはまた別の話である。
ちなみに、投げられた茹でささみは、後でガンドルが美味しくいただきました。




