第32話:父が二週間の合宿を経て王都へ帰還しましたが、服の下がムキムキすぎて会議になりません
王都、王城の円卓会議室。
重苦しい沈黙が支配していた。
「……まだ戻らんのか! バーデン公爵は!」
上座に座るジェラルド王太子が、苛立ちを隠そうともせずに机を叩いた。
「予定より一週間以上過ぎているぞ! 娘を連れ戻すだけの任務に、どれだけ時間をかけているんだ!」
周囲に控える大臣や将軍たちも、渋い顔で押し黙っている。
無理もない。
暗殺部隊『ロイヤル・シャドウ』が消息を絶ち、その調査に向かったはずの公爵まで音信不通になったのだ。
最悪の場合、公爵もまたアレクサンドラに消されたのではないか、という憶測さえ飛び交っていた。
「殿下、落ち着いてくださいまし」
隣に座るソフィが、ジェラルドの手を握る。
「きっと、あの悪女が卑怯な罠を張っているのですわ。お可哀想な公爵様……今頃、冷たい牢獄で苦しんでおられるに違いありません」
「くっ……! アレクサンドラめ、実の父親にまで手をかけるとは……!」
ジェラルドが歯噛みした、その時だ。
バンッ!!
会議室の扉が、乱暴に開かれた。
「失礼する!」
野太い声とともに、一人の男が入室してきた。
エイドリアン・フォン・バーデン公爵だ。
だが、その姿は会議室の全員をどよめかせた。
「……公爵?」
ジェラルドが目を丸くする。
以前のエイドリアンといえば、神経質そうで線の細い、いかにも文官肌の貴族だった。
しかし、目の前にいる男はどうだ。
肌は健康的に日焼けし、艶々と輝いている。
そして何より、体格が違う。
着ているのはいつもの公爵家の礼服だが、サイズが合っていないのか、布地がパンパンに張り詰めている。
歩くたびに、服の下で何かが蠢くように盛り上がっているのだ。
「遅くなって申し訳ない。少々、現地での『研修』が長引いてな」
エイドリアンは円卓の席に着こうとしたが、椅子が小さすぎたのか、ミシミシと悲鳴を上げた。
彼は仕方なく、空気椅子(スクワットの姿勢)で腰を浮かせたまま会議に参加することにした。
「き、貴様! 殿下の御前であるぞ!」
側近の宰相が立ち上がって怒鳴った。
「遅参した上に、そのふざけた態度は何だ! 言葉を慎め!」
「ん? ああ、すまんすまん」
エイドリアンは悪びれもせずに手を振った。
「僧帽筋が張りすぎていてな、首が回らんのだ。敬語を使うと筋肉が萎縮する気がしてな」
「な、何をわけのわからんことを……!」
宰相が顔を真っ赤にする。
不敬罪だ。通常なら即刻退室を命じられるレベルの暴挙である。
だが、エイドリアンから放たれる圧倒的な「圧」に、誰も強く出られない。
それは権力による威圧ではない。生物としての「強者」のオーラだ。
「こ、公爵……? その体は……太ったのか?」
ある大臣が話題を逸らすように尋ねる。
「太った? 失敬な」
エイドリアンはニカっと笑った。白い歯が眩しい。
「ビルドアップだ」
「は?」
「まあよい、報告をしよう」
エイドリアンは懐から報告書を取り出した。
その動作だけで、上腕二頭筋が膨張し、袖のボタンが一つ弾け飛んだ。
パチンッ!
飛んだボタンが向かいの宰相の額に命中する。
「あだっ!」
「すまん。力が有り余っていてな」
謝罪に心がこもっていない。
ジェラルドはこめかみを引きつらせながら尋ねた。
「……公爵。余に対する不敬は後で問うとして、報告を聞こうか。アレクサンドラはどうなっていた? 反乱の証拠は? 暗殺部隊の行方は?」
「結論から申し上げよう」
エイドリアンは真顔で言った。
「娘に反逆の意思はない。彼女はただ、ひたすらに土を耕し、汗を流していた」
「土を……?」
「ああ。私も手伝ったが、あれはいい運動になる。大地と対話することで、己の弱さを知ることができるのだ」
エイドリアンは遠い目をした。
カルスト領での二週間。
毎朝のラジオ体操、日中の開墾作業、そして夜のプロテインパーティー。
最初は地獄だと思ったが、筋肉がつき始めると、それが快感に変わった。
長年の胃痛も消え、今では岩を砕くことだけが生きがいだ。
「暗殺部隊については?」
「ああ、彼らなら元気だぞ。娘の畑で、害虫駆除の仕事に就いている」
「はぁ!?」
ジェラルドが椅子から立ち上がった。
「王国の精鋭を、農作業に使っているだと!? ふざけるな!」
「ふざけてなどいない。彼らも言っていたぞ。『人を殺すより、雑草を抜く方が心が洗われる』とな」
エイドリアンは頷いた。
実際、元暗殺者たちは「農家最高ォォ!」と叫びながら、超高速で草むしりをしていた。あれは天職だろう。
「殿下。あそこは平和そのものだ。魔獣はペットになり、荒れ地は農地になり、誰もが笑顔で筋肉を鍛えている」
エイドリアンは机に手をついた。
バキッ。
机の端がへし折れた。
「……失礼。とにかく、娘を王都へ連れ戻す必要はない。むしろ、あの地で自由にさせてやるべきだ」
「な、何を勝手なことを! 娘に絆されたのですか!」
ソフィが金切り声を上げる。
「いいえ、これは国益のためです」
エイドリアンは真剣な眼差しで、ソフィとジェラルドを見据えた。
「今のカルスト領は、一種の『聖域』と化しています。下手に手を出せば、王国にとって取り返しのつかない損失となるでしょう」
言葉の裏に隠された意味。
(あそこには、王国が束になっても勝てない化け物たちが揃っている。手を出せば国が滅ぶぞ)という警告。
だが、筋肉脳になっていない彼らに、それが伝わるはずもなかった。
「……もうよい。下がれ」
ジェラルドは疲れたように手を振った。
話にならない。
この男もまた、アレクサンドラの毒牙にかかり、洗脳されてしまったのだ。
不敬罪で捕らえようにも、今の公爵を取り押さえられる兵士がこの場にいない。
「承知した。……ああ、そうだ殿下」
エイドリアンは退室際、懐から緑色の粉末が入った小袋を取り出し、テーブルに置いた。
「これは?」
「娘からの献上品だ。『マッスルパウダー』というらしい。水に溶かして飲むと、憂鬱な気分も吹き飛ぶそうだ」
彼はニカリと笑い、そして颯爽と退室していった。
背中のジャケットが、広背筋のせいで裂けそうになっているのを、誰もが黙って見送った。
◇
廊下に出たエイドリアンは、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……ふぅ。これで任務完了か」
彼は自分の腕をさすった。
パンパンに張った筋肉が、心地よい熱を持っている。
彼は洗脳されたわけではない。
ただ、カルスト領で見た光景――娘の笑顔と、ルイスやガンドル王たちの活気ある姿を見て、思い出したのだ。
若い頃、自分もまた、武芸に明け暮れていた日々を。
(貴族のしがらみなど、筋肉の前では些末なことよ)
彼は決めていた。
王都に戻ったのは、報告のためだけではない。
この腐った王都に、「筋肉教団・王都支部」を設立するためだ。
まずは運動不足の貴族たちを集め、あの緑色の粉末を配ろう。
そして、いつの日か王都中をマッチョで埋め尽くし、娘の理想郷をこの地にも作り上げるのだ。
エイドリアンは力強く歩き出した。
その足取りは、往年の全盛期よりも遥かに軽やかだった。
(待っていろ、アレクサンドラ。パパも頑張るからな)
新たな筋肉布教活動が、静かに始まろうとしていた。




