第31話:実家の父が武装して乗り込んできましたが、こちらの戦力が過剰すぎて胃を痛めているようです
バーデン公爵家の馬車が、荒野の道をガタゴトと進む。
その中の一台に乗っているのは、当主であるエイドリアン・フォン・バーデン公爵だ。
彼は今、猛烈な胃の痛みに襲われていた。
「……胃が痛い」
エイドリアンは胃薬を水で流し込み、深いため息をついた。
今回の視察は、彼の本意ではない。
王家からの圧力だ。
ジェラルド王太子が、「アレクサンドラが反乱を企てている」などという妄言を吐き出し、近衛騎士団を派遣したのが発端だ。
その騎士団が「洗脳」されて帰ってきたことで、王都は大パニックに陥った。
さらに悪いことに、王太子が裏で放った暗殺部隊『ロイヤル・シャドウ』までもが、誰一人として戻ってこなかったというのだ。
『精鋭部隊が全滅だと……? バーデン公、貴様の娘は魔王にでも魂を売ったのか!』
ジェラルドの怒号が耳に残っている。
暗殺部隊が戻らないということは、消されたか、あるいは捕らえられたか。
どちらにせよ、娘の手はすでに血で汚れてしまっているのかもしれない。
『父親である卿が責任を取れ。娘を説得し、武装解除させ、王都へ連れ戻せ。さもなくば、バーデン家を取り潰す』
(アレクサンドラよ……。なぜ大人しくしていなかったのだ)
エイドリアンは窓の外を見た。
見渡す限りの岩と荒野。魔獣の気配が濃い。
あんなか弱い(と思っていた)娘が、こんな場所で生き延びるために、禁断の力に手を出してしまったのだろうか。
「閣下! 見えてきました!」
御者の声に、エイドリアンは顔を上げた。
視線の先に、異様な建造物が見える。
巨大な石柱が並ぶ神殿。
整然と区画整理された農地。
そして、何よりも目を引くのは――。
「な、なんだあれは……?」
入り口に、巨大な熊が座っていた。
体長5メートル。血のように赤い爪。
伝説の魔獣、ブラッディ・グリズリーだ。
「敵襲ーッ!! 魔獣だ! 構えろ!」
護衛の兵士たちがパニックになる。
だが、熊は襲ってくる様子がない。
首から『Welcome! 受付係・ポチ』と書かれた看板をぶら下げ、前足で器用に手招きをしている。
その横には、一人の男が立っていた。
盛り上がった筋肉の鎧を執事服に無理やり押し込んだ巨漢。
アレクサンドラの従者、トムだ。
トムは笑顔で、ポチの頭をワシャワシャと撫でている。
まるで愛犬を扱うかのような手つきだ。
「と、トム……なのか?」
エイドリアンは目を疑った。
トムといえば、虫も殺せないような気弱で線の細い青年だったはずだ。
それがどうだ。Aランクの魔獣を笑顔で撫で回すその姿からは、以前のひ弱さは微塵も感じられない。
肉体のみならず、精神面までもが鋼のごとく鍛え抜かれている。
(一体、この地で何があったというのだ……)
馬車が門をくぐる。
そこで待っていたのは、上半身裸のマッチョな男たちが、笑顔で巨大野菜を運ぶ光景だった。
ここは本当に魔境カルスト領なのか。王都近郊の農村よりも豊かな「楽園」ではないか。
そして、その中心にある屋敷の前。
そこに、娘はいた。
◇
「ようこそお越しくださいました、お父様!」
アレクサンドラが、満面の笑みで駆け寄ってくる。
白いワンピース姿。以前よりも肌艶が良く、健康そのものに見える。
ただし、その手首には黒い手錠が嵌められている。
「アレクサンドラ……! 無事だったか!」
エイドリアンは馬車を降り、娘の肩を掴んだ。
生きていた。それだけで、胸のつかえが取れた気がした。
「ええ、ピンピンしておりますわ。お父様こそ、顔色が優れませんわね。また胃痛ですか?」
「誰のせいだと思っている……! それに、その手錠はどうした! やはり、無法者に捕らえられていたのか!?」
エイドリアンは周囲の男たちを睨みつけた。
こいつらが娘を脅し、魔獣を使役させ、強制労働させているに違いない。
「おのれ、娘を離せ! バーデン公爵家の名において成敗してくれる!」
彼が剣を抜こうとした、その時だ。
「……騒々しいな」
屋敷の中から、冷ややかな声が響いた。
現れたのは、銀髪の青年。
上質なローブを纏い、知的な眼鏡をかけている。
「ル、ルイス殿……!? なぜ貴殿がここに?」
エイドリアンは絶句した。
ルイス・ヴァン・ジークフリート。
隣の領地を治める辺境伯にして、王国最強の魔術師。
その実力は、王家ですら一目置き、腫れ物のように扱う「アンタッチャブルな存在」だ。
公爵であるエイドリアンよりも爵位は下だが、この国において国の生命線である彼に指図できる者はいない。
「彼女は私の研究パートナーだ。文句があるなら私が聞こう」
ルイスは傲岸不遜な態度で言い放った。
本来なら不敬にあたる口調だが、彼が相手なら文句など言えるはずもない。
「そ、そうであったか……。いや、私はただ娘の安否を……」
エイドリアンが気圧されていると、ルイスの後ろから新たな人影が現れた。
銀髪の少女と、それに付き従う一人の老執事。
少女はルイスの妹、セレスティア嬢だろう。
問題は、その執事だ。
「セレスティア様、お茶のご用意ができました」
老執事が優雅にワゴンを押してくる。
その顔を見た瞬間、エイドリアンの全身に悪寒が走った。
「そ、その顔は……まさか……」
エイドリアンは後ずさった。
忘れるはずがない。
若い頃、政敵との抗争の最中に幾度か命を狙われ、そのたびに死線をさまよった相手。
闇の世界でその名を知らぬ者はいない、伝説の暗殺者。
「セバスチャン・バス・セバス……ッ!?」
なぜだ。
なぜ奴ほどの男がここにいる。
奴は引退して行方知れずになったと聞いていたが、まさか辺境の執事をしているというのか。
「おや、バーデン公爵閣下ではありませんか。お久しゅうございます」
セバスは穏やかな笑みを浮かべ、深々と一礼した。
その隙のない所作だけで、エイドリアンは剣の柄から手を離してしまった。
勝てない。瞬きする間に首を落とされるビジョンが見えた。
「セバス、早くお茶を」
セレスティアが命じる。
「かしこまりました。お嬢様。アレクサンドラ様、ルイス様はいかがですか?」
「結構だ」
「私はお願いいたしますわ」
日常の一コマのように交わされる会話。
エイドリアンは口をパクパクさせた。
「し、執事!? あの男が、本当に執事をしているのか!? 世界を震え上がらせたあの『閃光の処刑人』が!?」
最強の魔術師に、伝説の暗殺者。
なぜ娘の周りには、こんな劇薬のような人物ばかり集まるのか。
「か、閣下! あちらをご覧ください!」
さらに部下の兵士が震える声で指差した。
畑の方から、二人の巨漢が歩いてくる。
一人は、豪奢なマントを羽織った、ライオンのような男。
「ガハハ! 客人! ちょうどいい、トレーニングに付き合わんか!」
「バ、バルガ国王……ガンドル陛下!?」
エイドリアンは卒倒しかけた。
敵国の王が、なぜ鍬を持ってここにいる。
そしてその後ろには、全身黒鎧の騎士。
バルガ国最強の騎士団長、ゼノンだ。
「アレクサンドラ嬢、重い荷物はお任せください! 貴女の指一本、疲れさせはしません!」
ゼノンはアレクサンドラに熱烈な視線を送り、彼女の持っていたバスケットを奪い取るようにして持った。
「ど、どういうことだ……?」
エイドリアンは膝から崩れ落ちた。
王国最強の魔術師。
伝説の暗殺者。
隣国の武王。
最強の騎士団長。
世界を動かす要人たちが、なぜか娘の周りに集結している。
しかも、全員が彼女に対して好意的、いや、信奉者のような態度を取っているのだ。
この戦力があれば、王国の一つや二つ、半日で滅ぼせるではないか。
反乱の嫌疑どころではない。
ここはすでに、どの国も手出しできない「魔境」と化している。
「アレクサンドラ……お前、一体何をしたんだ」
「何って……ただ、皆さんと一緒に汗を流して、ご飯を食べていただけですわ」
娘はキョトンとして答えた。
「ここは素晴らしい場所ですのよ、お父様。空気は美味しいし、お肉は食べ放題。面倒なマナーも派閥争いもありません」
彼女は私の手を取り、ニッコリと微笑んだ。
「お父様も、最近お疲れのようですから、少し休養されてはいかがですか? ちょうどいい『リハビリコース』を用意しておきましたの」
「リ、リハビリ?」
「ええ。まずはプロテインで栄養補給をして、それからポチのマッサージを受けていただきます」
彼女が指差した先には、緑色のドロドロした液体が入ったジョッキを持ったトムと、両手をワキワキさせて待ち構える巨大熊の姿があった。
「ひぃっ……!」
エイドリアンの生存本能が警鐘を鳴らした。
あれに関わってはいけない。
だが、逃げ場はない。
後ろにはルイスとガンドル王、そして伝説の暗殺者セバスが、「逃がさんぞ」というプレッシャーを放って立っている。
「さあ、お父様。遠慮なさらず」
娘の手が、鋼鉄の万力のように私の腕を掴んだ。
手錠をしているはずなのに、この力強さはなんだ。
「健康になりましょう。物理で」
その笑顔は、慈愛に満ちていた。
だがエイドリアンには、地獄への案内人のようにも見えた。
(王子よ……。娘をどうにかするのは、物理的に不可能です)
エイドリアンは心の中で遺言を残し、緑色の液体を口に含んだ。
◇
数時間後。
屋敷の前には、「筋肉万歳!」と叫ぶ公爵と、それを見て涙を流す兵士たちの姿があったという。
こうして、王都からの第一次干渉は、アレクサンドラの完全勝利で幕を閉じた。




