第3話:盗賊が出たので「デコピン」で空の星にしました。あと、現地に着いたらイケメンに不法侵入を疑われました
王都を出てから三日。
私を乗せた馬車は、北へ向かう街道をひた走っていた。
ガタゴトと車輪が石畳を叩く振動が、お尻に響く。
この世界の馬車にはサスペンションという概念がないらしい。
普通なら音を上げるところだろうが、私の鍛え上げられた大臀筋は、この程度の衝撃をすべて吸収し無効化していた。
快適だ。
精神的にも、肉体的にも。
「ふふふ……」
私は馬車の中で一人、不気味な笑みをこぼした。
コルセットは外した。
窮屈なパニエも脱ぎ捨てた。
今は動きやすいシンプルなワンピース姿だ。
何より素晴らしいのは、食事制限がないことだ。
王都にいた頃は、「令嬢は小鳥のように食べるもの」という謎の同調圧力のせいで、サラダをついばむ程度しか許されなかった。
成長期の筋肉にタンパク質が足りないなんて、拷問以外の何物でもない。
私はバスケットから、道中の宿場町で買い込んだ干し肉の塊を取り出した。
硬くて有名な「オークの燻製肉」だ。普通のナイフでは刃が通らないほどの硬度を誇る。
私はそれを手で引きちぎり、ガブッとかじりついた。
美味い。
噛みしめるたびに肉の旨味が広がる。
顎の筋肉が喜んでいるのが分かる。
「お、お嬢様……? 大丈夫ですか……?」
御者台の方から、トムの怯えたような声が聞こえた。
小窓から顔を覗かせる。
「何がですの、トム」
「いえ、その……本当によろしいのですか? カルスト領なんて……。あそこは人の住める場所じゃありませんよ」
トムは泣きそうな顔をしていた。
無理もない。
彼には「実家に帰省する」としか伝えていなかったのに、いきなり「最北の魔境まで走れ」と命じられたのだ。ブラック企業も真っ青の無茶振りである。
「心配いりませんわ。住めば都と言いますでしょう?」
「い、言いませんよ! あそこは『住めば墓場』の間違いです!」
「あら、上手いことを言いますわね」
私はクスクスと笑った。
私のこの余裕が、逆にトムの不安を煽っているようだ。
彼が心配するのも無理はない。
これから向かうカルスト領は、隣国との国境に位置する未開の地。
強力な魔獣が我が物顔で闊歩し、険しい山々が人を拒む。
まともな貴族なら、領主になるくらいなら爵位を返上して逃げ出すレベルだ。
だが、私には勝算がある。
魔獣? 食料だ。
岩山? 筋トレの器具だ。
何もない荒野? これから私が好きに作ればいい。
(最高のセカンドライフじゃないか)
王都での窮屈な「猫かぶり生活」を思えば、魔境でのサバイバルなんてバカンスみたいなものだ。
その時だった。
ヒヒーンッ!
突然、馬がいななき、急ブレーキがかかった。
ガクンと車体が揺れる。
私は体幹で踏ん張り、微動だにしなかったが、膝の上に置いていた干し肉が転がってしまった。
「……トム? どうしましたの?」
私が声をかけると、外から下卑た笑い声が聞こえてきた。
「ヒャッハー!! 止まれ止まれぇ!」
「上等な馬車じゃねえか! 金目のものを置いていきな!」
ああ、なるほど。
私は深いため息をついた。
お約束だ。
ファンタジー小説のテンプレイベント、盗賊の襲撃である。
人里離れた街道、女性が乗った馬車、そこに現れる悪漢たち。
様式美としては百点満点だが、私の干し肉を床に落とさせた罪は重い。
「ひぃぃぃ! ど、どうしましょうお嬢様! 盗賊です! 武器を持っています!」
トムが真っ青になって震えている。
護衛はいない。
公爵家を出る時、父が「護衛など不要だろ(どうせお前が一番強いし)」と投げやりに言ったからだ。ひどい親である。
「トム、落ち着きなさい」
私は床に落ちた干し肉を拾い上げ、フッと埃を払った。
3秒ルールだ。まだ食べられる。
「私が話をつけてきますわ」
「む、無理です! 殺されますよ!」
止めるトムを制して、私は馬車の扉を開けた。
外には、10人ほどの薄汚い男たちが道を塞いでいた。
手には錆びた剣や斧。目つきはギラギラしており、明らかに「会話」で解決できる相手ではない。
「おっ、出てきやがった。……へえ、上玉じゃねえか」
リーダー格と思われる、顔に傷のある男が私を見てニヤリと笑った。
獲物を値踏みするような、ねっとりとした視線。
生理的な嫌悪感で鳥肌が立つ。
(うわぁ……。一番関わりたくないタイプだ)
前世で満員電車に乗っていた頃を思い出す。
こういう、自分の欲望だけで他人を踏み躙ろうとする手合いが、私は一番嫌いだ。
「おい姉ちゃん。痛い目にあいたくなかったら、身ぐるみ置いていきな。……もちろん、服もだぜ?」
男たちが下品な笑い声を上げる。
私はスカートの埃を払い、優雅に微笑んでみせた。
もちろん、目は笑っていない。
「ごきげんよう、皆様。急いでおりますので、道を開けていただけますか?」
「あぁ? 状況が分かってねえのか?」
リーダーの男が、脅すように斧を振り上げた。
刃渡り50センチはある巨大な戦斧だ。
「俺たちは『赤蛇団』だ。この辺りで泣く子も黙る……」
「存じ上げませんわ」
私は言葉を遮った。
「どこの馬の骨とも知れぬ方々の自己紹介を聞くほど、私は暇ではありませんの。3秒差し上げますから、そこをどいてくださる?」
私の言葉に、男の顔から笑みが消えた。
額に青筋が浮かぶ。
「……ナメてんじゃねえぞ、アマァッ!!」
男が激昂し、戦斧を振り下ろした。
容赦のない一撃。
トムが「お嬢様ーッ!」と絶叫する。
遅い。
あくびが出るほど遅い。
私は避けることすらしなかった。
ただ、左手をすっと上げた。
ガキンッ!!
甲高い金属音が響き、火花が散った。
「は……?」
男が目を見開く。
私の左手の人差し指と親指。
その二本の指先だけで、振り下ろされた戦斧の刃を受け止めていた。
いわゆる「真剣白刃取り」の、指先バージョンだ。
私の指の皮一枚すら切れていない。
毎日欠かさず行っている「指立て伏せ」一万回のおかげで、私の指先はダイヤモンドよりも硬く鍛え上げられているのだ。
やはり、カルシウム摂取と負荷トレーニングは裏切らない。
「な、なんだコリャ……!? びくともしねえ……!」
男が顔を真っ赤にして斧を引こうとするが、私の指に挟まれた刃はミリ単位も動かない。
「最近の盗賊の方々は、マナーがなっていませんのね」
私は冷ややかな声で言った。
「レディの前で刃物を振り回すなんて。……お仕置きが必要ですわ」
「ひっ……!?」
男が本能的な恐怖を感じたのか、斧から手を離して後ずさる。
逃がさない。
私は右手を構えた。
握り拳ではない。
中指を親指に引っ掛けた、デコピンの構えだ。
「そこ、動きませんように」
パチンッ。
私が指を弾いた瞬間。
ドオォォォン!!
大気が破裂したような轟音が響いた。
指先から放たれた衝撃波が、空気の塊となって男の腹部に直撃する。
「ごふぁっ!?」
男の体はくの字に折れ曲がり、砲弾のように彼方へと吹き飛んだ。
そのまま後ろにいた手下たち数人を巻き込み、ボウリングのピンのように跳ね飛ばしていく。
ズザザザザーッ!!
10メートル……20メートル……。
男たちは地面を転がり続け、ようやく森の木に激突して止まった。
全員、白目を剥いてピクリとも動かない。
「あ……あ……」
残った数人の盗賊たちが、腰を抜かして震えている。
彼らの視線の先には、何事もなかったかのように指をフーフーと吹いている私の姿。
「まだ続けますか?」
私が首を傾げると、彼らは「ヒィッ!」「お助けぇぇ!」と悲鳴を上げて、脱兎のごとく森の奥へ逃げ去っていった。
賢明な判断だ。
◇
「さあ、トム。邪魔者は消えましたわ。行きましょう」
私が馬車に戻ると、御者台のトムは石像のように固まっていた。
口が半開きで、魂が抜けているようだ。
「……お嬢様。今の、は何ですか?」
「デコピンですわ」
「デコピンで人が空を飛ぶものですか!?」
「当たり所が悪かったのかもしれませんわね」
私は適当にはぐらかし、馬車を出させた。
それから数時間。
日が傾き、空が茜色に染まる頃、ついに視界が開けた。
「着きました、お嬢様……。ここが……」
トムの震える声。
私は窓から顔を出した。
そこに広がっていたのは、想像を絶する光景だった。
荒涼とした大地。
草木はまばらで、地面からは鋭い岩が槍のように突き出している。
遠くからは、魔獣の遠吠えが風に乗って聞こえてきた。
畑など一つもない。あるのは、風化した廃墟のような屋敷が一軒だけ。
まさに「地獄の入り口」と呼ぶにふさわしい場所だ。
「素晴らしい……!」
私は思わず感嘆の声を漏らした。
トムが「えっ」と振り向く。
見渡す限りの荒野。
つまり、ここにあるもの全てを、私が好きに壊して、作り変えていいということだ。
岩を砕き放題。木を引き抜き放題。
誰に遠慮することなく、全力を出せる場所。
私の胸は高鳴った。
馬車が、領地の境界線にある古い石碑の横を通り過ぎようとした時だ。
「――止まれ」
不意に、凛とした男の声が響いた。
石碑の陰から、一人の男性が姿を現した。
夕日を背に受けて輝く、流れるような銀髪。
知的な銀縁眼鏡の奥には、氷のように冷ややかな青い瞳。
仕立ての良いローブを纏っており、ただの旅人ではないことは一目で分かった。
彼は私の馬車を見上げ、表情一つ変えずに言った。
「ここから先はバーデン家の管理地、通称『死に場所』だ。迷い込んだのなら引き返せ」
その美しい顔立ちに見とれそうになったが、私はすぐに気を取り直した。
彼からは、ビリビリとした魔力の気配を感じる。
何者だ?
こんな最果ての地で、何をしている?
「ご忠告ありがとうございます。ですが、引き返すつもりはありませんの」
私は馬車から降り立ち、彼に向かって優雅に微笑んだ。
「ここが、私の新しい家ですので」
銀髪の男が、初めて眉をピクリと動かした。
その青い瞳が、探るように私を射抜く。
私のスローライフの第一歩は、この謎めいた美青年との出会いから始まった。




