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それでも俺はAIを使わない  作者: 人間賛歌
第1章:時代遅れの遠吠え
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第3話:異変のベストセラー

書店には、嫌でも目に入るタワーができていた。 佐伯涼介の新作『硝子の羅針盤』。 帯には「本屋大賞ノミネート確実」「今年一番泣けるミステリー」の文字が踊る。


俺は舌打ちを一つ落とし、その平積みの塔から一冊を引き抜いた。 セルフレジを通す。1800円と税。 この金で、この金で安酒を買ったほうが有意義だったと後悔するのは、きっと数時間後だ。


帰宅し、澱んだ空気の仕事部屋に籠る。 ThinkPadのファンの音だけが響く中、俺は佐伯の本を開いた。 片手には愛用のデバイス(電子タバコ)。加熱完了の振動が指に伝わる。


「お手並み拝見といこうか。重機オペレーター様」


ページを捲る。 冒頭の一行目から、異変はあった。


『雨がアスファルトを叩く音だけが支配する深夜の渋谷で、探偵・久城くじょう)は足元の死体を見下ろし、冷めたコーヒーを啜った。「……定刻通りだ」』


上手い。いや、上手すぎる。 たった一文だ。 それなのに、舞台設定《雨の渋谷》、主人公の職業と名前、事件の発生(死体)、そして「定刻通り」という謎を呼ぶフック。これら全てが、テトリスのブロックが完璧に嵌まるように、最短距離で配置されている。


俺がいつも苦心して、検索タブを30個開いては閉じ、デバイスの充電が切れるまで悩み抜いて配置する情報のピースが、そこには「最適解」としてさらりと置かれていた。


10ページ、50ページ、100ページ。 ページを捲る手が止まらない。 リーダビリティ(読みやすさ)が異常だ。まるで摩擦係数がゼロの氷の上を滑らされているようだ。 本来、読書とは「他人の思考」という異物を咀嚼する行為のはずだ。どこかに引っかかりがあり、喉越しの悪さがあり、それが「味」になる。


だが、この小説にはそれがない。 スルスルと脳に入り込み、感情のスイッチを的確に押してくる。 ここで泣け。ここで笑え。ここで驚け。 まるで、俺の脳の仕様書スペックを知り尽くしたエンジニアが書いたコードのようだ。


「……気持ち悪い」


俺は150ページ目で本を閉じた。 吐き気がした。


文章が破綻しているわけではない。誤字脱字もない。 だが、「佐伯涼介」がいない。 かつての彼が持っていた、少し鼻につく気取った言い回しや、リズムの悪い独りよがりな比喩。 人間特有の「手癖」が、完全に漂白されている。


代わりにそこに在るのは、何億もの小説から抽出された「正解」のパッチワークだ。 最大公約数の感動。平均値の集合体。


「これが重機を使った結果か……?」


俺は震える手でデバイスを口元へ運ぶ。 深く吸い込むが、燃焼の熱はない。 水蒸気化したメンソールが、冷たく肺を満たすだけだ。 吐き出した煙もまた、すぐに霧散して消える。この小説のように、実体がない。


PCに向き直り、検索窓に『佐伯涼介 新作 感想』と打ち込む。 画面には絶賛の嵐が吹き荒れていた。


『無駄がない』 『一気に読めた』 『文章が透明で、映像が浮かぶよう』


透明。そう、その通りだ。 この小説には「色」がない。 人間という不純物が混じっていない蒸留水のような文章。 それを世間は「名文」と呼ぶのか。


俺は恐怖した。 もしこれがスタンダードになるなら、俺のような、泥臭いノイズ混じりの文章を書く作家は、エラーとして処理されるだけだ。


ふと、モニターの隅に視線をやる。 牧野から送られてきた、次回の打ち合わせ資料のPDFが開いたままだ。 そこには、俺の過去作の売上データと、佐伯の新作の初速比較グラフが載っていた。 赤い線(佐伯)が、青い線()を垂直に突き放している。


「ふざけるな……。こんなの、小説じゃねえ」


俺は佐伯の本をゴミ箱——デスクトップのアイコンではなく、足元のリアルなゴミ箱——に放り投げようとした。 その時、帯の裏にある「著者近影」と目が合った。 佐伯が薄く笑っている。 その笑顔さえも、画像生成AIが作った「信頼できる中年男性」のサンプルのように見えて、俺は背筋が凍った。


俺のスマホが震えた。 画面には『牧野悠人』の文字。 出たくない。 だが、指は勝手に通話ボタンをスライドさせていた。


「……もしもし」


『先生、読みました? 佐伯さんの新作』


牧野の声は、ひどく弾んでいた。無邪気なほどに。


『あれ、すごいですよね。……先生の作品とは、真逆で』


その言葉が、最後のトドメのように俺の鼓膜を刺した。 俺は無言で通話を切り、充電切れのランプが点滅し始めた電子タバコを、ただ見つめていた。

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