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それでも俺はAIを使わない  作者: 人間賛歌
第4章:学習データ
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最終話:それでも俺はAIを使わない

季節が二つほど巡った。 俺は今、都心のタワーマンションの最上階にいる。 かつての仕事部屋のような、書類の山も、埃っぽい臭いもない。 あるのは、モデルルームのように洗練された家具と、完全防音の静寂。 そして、24時間稼働し続けるサーバーの低い唸り声だけだ。


窓の外には、巨大なデジタルサイネージが輝いている。 そこには、今月のベストセラーランキングが表示されていた。


1位:『涙の誤変換』 (著:AI・カフカ) 2位:『サヨナラの構文エラー』 (著:GPT-X)


街は今、「感動的な誤植」で溢れかえっている。 かつて俺が偶発的に生み出し、人間性の証明だと崇められた「あいしていた」という表現。 あれは今や、AIが標準装備する「感動エモアルゴリズム」の一つになっていた。


書店に行けば、「高村メソッド搭載」を謳うAIライティングソフトが売られている。 俺の思考の揺らぎ、迷い、そしてタイプミスに至るまでのプロセスが、すべてパッケージ化され、安価で切り売りされているのだ。


「……皮肉なもんだ」


俺は呟く。 声が枯れていた。ここ数日、誰とも会話していない。 頭には、例のヘッドギアが嵌められたままだ。 俺が「皮肉」を感じて眉をひそめた瞬間、その微細な脳波の乱れさえも、フューチャー・シンセシス社のサーバーに吸い上げられ、「シニカルな表現」を生成するための肥料となる。


リビングのテーブルには、離婚届が置かれている。 破り捨てられることもなく、提出されることもなく、ただそこにある。 絵里子は戻らなかった。


あの日、俺が意気揚々と5億の通帳を見せた時、彼女は怒りもせず、ただ寂しそうに笑ったのだ。


『……ねえ、健。気づいてる?』 彼女は静かに言った。 『今日、ファミレスで会ってから、あなたは一度も「私の話」を聞こうとしなかった。一方的にお金の話をして、自分の正しさを主張しただけ』


彼女は俺の目を真っ直ぐに見て、言葉を継いだ。


『あなたはいつだってそう。自分の言葉を吐き出すばかりで、私の言葉を、心から聞こうとしてくれたことなんてなかった』


その時、俺はようやく理解した。 彼女が欲しかったのは、5億円のマンションでも、安定した老後でもない。 ただ、PCの画面から目を離し、「そうか、今日はそんなことがあったのか」と、俺の言葉で相槌を打つ夫だったのだ。


俺は「作家」であることに固執し、ネットの海から言葉を拾うことには血眼になっていたくせに、一番身近な場所にいた読者の声だけは、ずっと「雑音ノイズ」として切り捨てていたのだ。


『さようなら。……私の言葉が届く人と、生きていくわ』


そう言い残して去った彼女の背中は、もう二度と戻らない。 俺は世界中のサーバーと接続されているが、たった一人、妻との接続コネクションだけは、永久にタイムアウトしてしまったのだ。


俺はデスクに向かった。 最高級のThinkPad。 画面には、執筆中の原稿が表示されている。 ……いや、「執筆中」というのは正確ではない。


俺が「あ」と打とうとすると、AIが先回りして「あ」から始まる最も俺らしい、泥臭い文章を予測して表示する。 俺はただ、エンターキーを押してそれを承認アクセプトするだけだ。


『承認しますか? [Y/N]』


画面の中で、カーソルが点滅している。 かつては、この点滅が俺を急かす敵に見えた。 だが今は、俺を飼い慣らす飼い主の合図に見える。


俺はキーボードから手を離した。


「……もう、いい」


俺は頭のヘッドギアを乱暴に引き剥がした。 ブツン、とケーブルが抜ける音がした。 警報音が鳴るかもしれない。合田が飛んでくるかもしれない。 知ったことか。


俺は胸ポケットを探った。 いつもの電子タバコ。 充電は満タンだ。緑色のランプが点灯している。 効率的で、無臭で、害の少ない、現代の嗜好品。


俺はそれをじっと見つめ……そして、部屋の隅にあるゴミ箱に放り投げた。 ガコン。 硬い音がした。


「いらない。こんなもの、もういらない」


俺は引き出しを開けた。 奥底から、一本の万年筆を取り出す。 モンブラン。 あの「誤植騒動」で一躍時の人となった際、テレビ出演のギャラで見栄を張って買ったものだ。 インクは吸入済みだ。あれから一度も使っていないが、まだ乾いてはいないはずだ。


俺は真っ白なコピー用紙をデスクに置いた。 震える手でキャップを外す。 ペン先が黒く濡れている。


書け。 AIの予測変換も、検索エンジンの助けもない、俺だけの言葉を。 脳波を計測されることもない、純粋な俺の魂を。


俺はペンを紙に走らせようとした。


……動かない。


ペン先が紙の上で止まっている。 何も浮かばない。 言葉が出てこない。 思考の沼を掘り返しても、そこにあるのはAIに吸い尽くされた後の、カラカラに乾いた荒野だけだった。


「あ……」


口から漏れたのは、言葉ですらない空気の音。


俺は、書けなかったのではない。 「書く」という機能ファンクションを、システム側に移行マイグレーションし終えてしまったのだ。 今の俺は、中身のない抜け殻(空のフォルダ)に過ぎない。


俺は乾いた笑いを漏らした。 喉の奥で、カヒュ、と音が鳴る。


モニターの中で、書きかけのAI小説が、俺の承認を待たずに勝手に続きを紡ぎ始めていた。 俺がいなくても、俺らしい文章は生成され続ける。 永遠に。


俺は万年筆を握りしめたまま、その光景をぼんやりと眺めた。 そして、誰に聞かせるでもなく、最後の独り言を呟いた。


「それでも、俺はAIを使わない、と……そう言っていたな」


過去形だ。 すべては過去の話だ。


「俺はAIを使わなかった。……俺が、AIに使われたんだ」


ペンが手から滑り落ちる。 カツン、と乾いた音がして、ペン先が床に当たった。 黒いインクが飛び散り、洗練されたフローリングの上に、醜い飛沫スプラッシュのような染みを作った。


それはまるで、俺という人間が存在した最後の痕跡バグのようだった。 だが、そのインクはデジタルの光に照らされながら、ただ冷たく乾いていき、黒い汚れとしてそこにへばりつくだけだった。


部屋のあるじを失ったデスクの上で、PCの画面だけが青白く輝き続けている。 そこには、動かなくなった俺の肉体や、乾いていくインクの染みとは対照的に、生き生きとした速度で、感動的なラストシーンが綴られていた。

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