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それでも俺はAIを使わない  作者: 人間賛歌
第4章:学習データ
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第21話:パンドラの箱

濡れたコートから滴る雨水が、純白の床に小さな染みを作っていた。 フューチャー・シンセシス社の最上階。 俺は異物だ。 無菌室に紛れ込んだ、泥だらけの靴を履いた菌だ。


「賢明な判断です」


合田恭介が、契約書の束をデスクに広げた。 分厚い。辞書ほどもある。 だが、俺が書くべきなのは、最後の一枚にある署名欄だけだ。


「これで、あなたの奥様も安心されるでしょう」


「……ああ」


俺はモンブランの万年筆を取り出した。 手が震えるのを止めるために、左手で右の手首を掴む。 インクが滲む。 『高村 健』。 その三文字を書くのに、永遠のような時間がかかった。


ペンを置く。 カタン、という音が、俺の作家人生に終止符を打つ音(ピリオド)のように響いた。


「契約成立です」


合田はすぐに契約書を回収し、アタッシュケースにしまった。 まるで、俺が気が変わるのを恐れるかのように。 いや、違うな。 「生鮮食品」の鮮度が落ちないうちに冷凍保存しようとしているのだ。


「では、早速ですが」


合田が合図をすると、壁の一部が開き、医療用のアームのような機械が伸びてきた。 その先端には、銀色に輝くヘッドギアが吊り下げられている。 無数のセンサーと、神経接続用の端子が、食虫植物の棘のように内側を向いていた。


「これを装着してください。あなたの脳波、視線、血流、そして微細な筋肉の動き……すべてをリアルタイムでクラウドに同期します」


「……これを着けて、書くのか?」


「ええ。24時間体制で。トイレに行く時も、眠る時もです。無意識下のノイズこそが重要ですから」


俺は唾を飲み込み、その冷たい金属の輪を頭に被った。 こめかみに端子が密着する。 ひやりとした感触。 次の瞬間、ブォンという低い起動音が頭蓋骨に直接響いた。


『Sync... Start.』


無機質な合成音声が聞こえた。 直後、視界の端に小さなパラメータが表示された。 俺の心拍数、ストレス値、そして「思考深度」なる数値が、デジタルな数字として可視化される。


「う、ぐ……ッ」


軽いめまいがした。 脳の中身を、ストローで吸われているような感覚。 痛くはない。だが、気持ち悪い。 俺が「あ」と考えようとすると、その思考が形になる前に、数値データとして吸い上げられていく。


「素晴らしい」


合田がモニターを見ながら感嘆の声を漏らした。


「見てください、このグラフの乱れを。 迷い、後悔、自己嫌悪。 通常の人間ならノイズとして処理される波形が、あなたの場合、美しいフラクタル図形を描いている」


美しい? 俺の苦しみが? 俺の屈辱が?


「さあ、高村先生。試しに一文、書いてみてください。何でもいい」


俺は目の前に用意されたキーボードに手を置いた。 書く。 いつものように。泥臭く。


『俺は、ペンを売った。』


タイプする。 その瞬間、頭のデバイスが微かに熱を帯びた。


「いいですね。その『、』を打つまでの0.5秒の躊躇ためらい。それです! その非効率なタイムラグこそが、我々が欲しかった『黄金』だ!」


合田が拍手をする。 俺は自分の手を見た。 指先から、感覚が抜けていく。 今まで、この指は俺の言葉を紡ぐための魔法の杖だった。 だが今は、巨大なシステムにデータを流し込むための「パイプ」でしかない。


スマホが震えた。 銀行からの通知だ。


『入金がありました。残高:500,000,000円』


5億。 俺の魂の値段。 妻の安心の値段。 そして、俺が「高村健」でなくなるための手切れ金。


俺は震える手で、胸ポケットの電子タバコを取り出そうとした。 吸いたい。 この無機質なデータの奔流から逃れて、あのアナログな煙(水蒸気)を肺に入れたい。


だが、合田が冷たく制した。


「ああ、喫煙は控えてください」


「……何だと?」


「ニコチンは脳の血流を変化させ、データの純度を下げます。契約条項にも書いてありますよ。『健康管理の徹底』とね」


合田は微笑んだ。 その笑顔は、家畜の健康を気遣う飼い主のそれだった。


「これからは、我々があなたの脳を管理します。食事も、睡眠も、思考も。最高のバグを出力し続けるために、最高の環境を提供しましょう」


俺は電子タバコを取り落とした。 プラスチックの筐体が床に当たり、乾いた音を立てて転がった。 拾おうとするが、体が動かない。 デバイスから流れる微弱な電流が、俺の運動野を制御しているかのように。


「……あ、あ……」


声が出ない。 言葉が出てこない。 俺の中にある「言葉」が、俺の口から出る前に、すべて背後のサーバーへと吸い込まれていく。


パンドラの箱は開いた。 だが、そこから飛び出したのは災厄ではない。 俺という個人の「消失」だった。


俺はモニターに映る自分を見た。 頭に機械をつけた男。 その瞳からは、急速に光が失われ、代わりにデジタルの光(データ)が明滅していた。


俺は勝ったつもりでいた。 だが、本当は最初から負けていたのだ。 俺が「AIを使わない」と意地を張っていた時間さえも、彼らにとっては「熟成期間」に過ぎなかったのだ。


部屋の隅で、俺の電子タバコの充電切れランプが、誰にも気づかれることなく、寂しく赤く点滅していた。

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