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それでも俺はAIを使わない  作者: 人間賛歌
第4章:学習データ
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第20話:愛の修復費用

六本木のビルを出て、俺はすぐにスマホを掴んだ。 発信履歴の一番上。 『絵里子』という表示。 指が震える。だが、今の俺には「億単位のオファー」という最強の武器がある。 コール3回。繋がった。


『……はい』


久しぶりに聞く絵里子の声は、少し痩せて聞こえた。


「俺だ。……会えないか。どうしても話したいことがある」


『今さら何を。離婚届、まだ出してないの?』


「そのことだ。俺の人生スペックが変わった。ニュースを見ただろ? 今の俺は、以前の俺とは違う」


少しの沈黙の後、彼女はため息交じりに言った。


『……わかったわ。駅前のファミレスでなら』


30分後。 俺たちは、騒がしいファミレスのボックス席に向かい合って座っていた。 絵里子は疲れていた。 目の下には薄いクマがあり、着ている服も数年前に買った安物のブラウスだ。 パート先のスーパーの制服が、鞄から少し見えている。


「元気だったか」


「見ての通りよ」


絵里子はドリンクバーの冷めたコーヒーを一口啜った。


「で、話って?」


「これを見てくれ」


俺はスマホを取り出し、通帳アプリの画面を見せた。 『人間失格の夜』の印税。 かつての年収の数倍の額が、そこにはあった。


「……すごい額ね」


絵里子の目が少しだけ見開かれた。 だが、すぐに冷めた色に戻る。


「でも、これが何? 慰謝料のつもり?」


「違う! これでやり直せるってことだ!」


俺は身を乗り出した。


「俺は証明したんだ。俺のやり方は間違っていなかった。世間は俺を認めた。これからは仕事も選べる。もう、お前に苦労はかけない」


「健。勘違いしないで」


絵里子は静かに言った。 その声は、AIが書いた手紙よりも残酷に、現実的だった。


「そのお金、いつまで続くの? ネットで見たわ。『誤字が面白いから売れた』って。そんなの、ただの一時的な流行りでしょう? 来年は? 再来年は?」


「だ、大丈夫だ。俺には才能がある」


「才能じゃご飯は食べられないのよ!」


絵里子が声を荒らげた。 周囲の客がチラリとこちらを見る。


「私が欲しかったのは、ベストセラー作家の妻という肩書きじゃない。……普通の、安心できる生活だったの。来月の家賃を心配しなくていい、たまには旅行に行ける、そんな当たり前の毎日が欲しかったのよ」


彼女は涙ぐんでいた。 その涙を見て、俺の思考回路アルゴリズムが高速で回転し始めた。


安心。安定。継続性。 今の印税だけでは、確かに彼女の不安バグを完全に取り除くことはできない。 このブームが去れば、俺はただの「過去の人」だ。


だが。 あの「黒いアタッシュケース」の中身があればどうだ?


フューチャー・シンセシス社との契約金。 桁が違う。 あれがあれば、都心にマンションを現金で買える。 投資信託に回せば、配当だけで一生遊んで暮らせる。 「永遠の安定」が、あそこにはある。


「……金があればいいのか?」


俺は低い声で尋ねた。


「そういう言い方しないで」


「いくらあれば、お前の『安心』を買える? 1億か? 5億か?」


「健、やめて……」


「用意してやるよ」


俺は笑った。 歪んだ笑いだったと思う。 だが、俺の中で結論が出た。


俺のプライド? 魂? そんなものでは、妻のクマ一つ消せない。 あのAI野郎・合田恭介の言う通りだ。 俺の脳みそなんて、金に換えてしまった方がよほど「建設的」だ。


俺は席を立った。


「待ってろ、絵里子。数日中に、お前が腰を抜かすような通帳を見せてやる。そうしたら、その離婚届を破り捨てて、俺の家に戻ってこい」


「健、どこへ行くの?」


契約サインしに行くんだよ。俺たちの未来のためにな」


俺は絵里子の制止も聞かず、ファミレスを飛び出した。 外は雨が降り始めていた。 冷たい雨が、熱を持った俺の頬を叩く。


タクシーを止める。 行き先は、さっき出たばかりの六本木のビルだ。


俺は胸ポケットの電子タバコを握りしめた。 これが最後の「人間らしい抵抗」だったのかもしれない。 だが、俺はそれを捨ててでも、妻という「他者」を取り戻したかった。 たとえそれが、俺自身を「モノ」に変える行為だとしても。


スマホを取り出し、合田の秘書へメッセージを送る。


『契約を受ける。今すぐ向かう』


送信完了。 すぐに既読がついた。


俺はまだ気づいていない。 この選択が、彼女との距離を埋めるどころか、永遠に引き裂く決定打になるということに。


雨脚が強くなる中、タクシーは首都高を走り出した。 後戻りできない片道切符だ。

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