第19話:黒いアタッシュケース
指定された場所は、六本木の摩天楼の最上階だった。 『フューチャー・シンセシス』本社。 エレベーターの扉が開くと、そこは別世界だった。 壁も床も真っ白。受付嬢すらいない。 空中に浮かぶホログラムの矢印だけが、俺を奥へと導いていく。
「……まるで、パソコンの筐体の中だな」
俺は呟き、胸ポケットの電子タバコを確かめた。 ここじゃ、煙どころか、人間の呼吸音さえノイズになりそうだ。
最奥の部屋。 全面ガラス張りのオフィスで、一人の男が待っていた。 合田 恭介。 メディアで何度も目にしたことがある、フューチャー・シンセシス社の若きCEOだ。 彫刻のように整った顔立ち。 年齢不詳。肌にはシミ一つなく、着ているスーツは俺の年収数年分だろう。
「ようこそ、高村先生。お待ちしていました」
合田は立ち上がり、握手を求めてきた。 その手は乾燥していて、体温が低い。
「単刀直入に行きましょう。あなたの時間は貴重だ。……いや、あなたの『脳の処理能力』は貴重だ」
合田はソファを勧め、自分も対面に座った。 テーブルの上には、俺の家に送られてきたのと同じ、黒いアタッシュケースが置かれている。
「契約書は読んでいただけましたか?」
「ああ。金額の桁が多すぎて、目が回ったよ」
俺は足を組み、虚勢を張る。
「だが、納得がいかない。あんたみたいな最先端のAI企業が、なぜ俺のようなアナログ作家に固執する? 『誤植』が面白かったからか? それとも、話題作りの広告塔か?」
「広告塔?」 合田は面白そうに笑った。 「まさか。そんな表面的な価値ではありません」
彼は空中で指を弾いた。 部屋の照明が落ち、壁一面のモニターにグラフが表示された。 右肩上がりの曲線が、ある地点で頭打ちになり、横ばいになっているグラフだ。
「これは、現在の生成AIの進化曲線です。見ての通り、成長は止まりかけている」
「止まっている? 嘘をつけ。毎日のように新機能が出てるじゃないか」
「あれはマイナーアップデートに過ぎません。本質的な『創造性』は枯渇しているのです」
合田は立ち上がり、モニターのグラフを指差した。
「理由は単純です。AIが学習するデータが、綺麗になりすぎたのです。 ネット上のテキストは、すでにAIが生成したもので溢れている。AIが書いた完璧な文章を、また別のAIが学習する。 これを繰り返すとどうなるか? コピーのコピーが劣化するように、多様性が失われ、平均化された『無味乾燥な正解』しか出力されなくなる。我々はこれを『|モデル崩壊《Model Collapse》』と呼んでいます」
「モデル崩壊……」
聞き慣れない単語だが、背筋が寒くなる響きだった。
「AI界は今、酸素欠乏に陥っているのです。 文法的に正しいだけの、退屈なデータで窒息しかけている。 そこに現れたのが、あなたです」
合田が俺の方を向いた。その瞳が、獲物を狙う猛禽類のように鋭く光る。
「あなたの『人間失格の夜』を解析しました。 驚くべきことに、全編の40%が、文法規則や論理的整合性から逸脱している。 本来ならゴミデータです。 しかし、ラストの『哀していた』という誤用。 あれは、確率論の予測を完全に裏切りながら、文脈的な意味を拡張させる、奇跡的なエラーでした」
「……ただの打ち間違いだと言ったら?」
「意図的か偶発的かは重要ではありません。 重要なのは、あなたというハードウェアが、AIには不可能な『魅力的なバグ』を高頻度で生成できるということです」
合田はアタッシュケースを開いた。 中には札束……ではなく、見たことのない奇妙なヘッドギアのようなデバイスが入っていた。
「契約の条件は一つ。 著作権の譲渡だけではありません。 今後、あなたが執筆する際、このデバイスを装着し、視線、脳波、キーストロークの揺らぎ、発汗、心拍数……あらゆる生体データを『思考プロセス』として提供していただきたい」
「思考を……売れと?」
「ええ。あなたの『間違い方』のアルゴリズムが欲しいのです。 どう悩み、どう苦しみ、どう間違えて、あの結論に達したのか。 その『非効率なプロセス』こそが、我々のAIをモデル崩壊から救う、唯一のワクチンになる」
俺は言葉を失った。 作家として評価されたのではなかった。 俺は「新鮮な汚れ」を持った、実験動物としてスカウトされたのだ。
「悪い話ではないはずです。 あなたは一生遊んで暮らせる富を得る。 そしてあなたの作風は、我々のAIの一部として永遠に生き続ける。 ……このまま『一発屋』として消費され、忘れ去られるより、よほど建設的でしょう?」
合田の言葉は、完璧な論理で武装されていた。 反論の余地がない。 俺のプライド? 魂? そんな曖昧なもののために、目の前の巨額を蹴るのか? 妻に土下座して戻ってきてもらうための、最強のカードを捨てるのか?
「……少し、考えさせてくれ」
俺が絞り出した言葉は、それだけだった。
「構いません。ですが、決断は早めに。 あなたの脳という『資源』も、酸化《レガシー化》していきますから」
合田は冷たく微笑んだ。
俺はビルを出た。 外の空気は排気ガス臭かったが、あの部屋の無菌室のような空気よりはマシだった。 俺は電子タバコを吸おうとして、やめた。 手が震えていて、うまく咥えられそうになかったからだ。
「……ワクチン、か」
俺は夜空を見上げた。 星は見えない。 ただ、赤い航空障害灯だけが、俺の心臓のリズムに合わせて点滅していた。
俺はまだ知らない。 この契約書にサインすることが、俺から「書く」という行為の喜びを永久に奪い去る、悪魔の取引であることを。




