第18話:バグの価値
通帳アプリの残高照会画面。 そこに並んだ数字の桁数が、俺の脳内麻薬の源泉だった。
『入金:○○出版(株) 印税』
「……フッ、笑わせる」
俺は高級な革張りのケースに入れた電子タバコを取り出した。中身はいつものコンビニで買ったカートリッジだが、ガワだけは一流品だ。今の俺と同じだ。
『人間失格の夜』は、発行部数10万部を突破した。 文芸書としては異例中の異例。 書店では「AI時代の必読書」として平積みされ、帯には俺がテレビで適当に喋った「不完全こそが、人間の証。」というコピーが金文字で箔押しされている。
俺はThinkPadを開いた。 以前のように、泥臭い検索で埋め尽くされた画面ではない。 SNSの通知と、ファンメールと、次の仕事のオファーで埋め尽くされている。
「先生、次回の連載ですが、ぜひ『誤植』をテーマにしたエッセイを……」 「講演会の依頼です。タイトルは『バグという生き方』で……」
世界中が、俺の「失敗」を有り難がっている。 俺がキーボードを叩き間違えるたびに、チャリンと音がして金が落ちてくる感覚だ。
ふと、魔が差して、俺は新規ドキュメントを開いた。 次作の構想を練る。 一行目を打ち込む。
『朝、目が覚めると、俺は虫になっていた。』
カフカの引用。 だが、俺の指はそこで止まった。 ……このままでいいのか? 普通に変換して、普通に正しい日本語で書いてしまって、読者は喜ぶのか?
「……クソッ」
俺はバックスペースキーを押した。 そして、わざと指を滑らせた。
『朝、目が覚めると、俺は無視になっていた。』
画面を見て、自嘲する。 「虫」と「無視」。 これなら、「社会から無視される存在への変身」という深読みができるかもしれない。 俺は今、自分の意志で、計算して「間違え」ようとしている。 それは、俺が最も憎んでいた「AI的な最適化」──読者が喜ぶ確率の高い方を選ぶ行為──と、何が違う?
嫌な汗が背中を流れる。 その時、インターホンが鳴った。
宅配便だ。 届いたのは、重厚な黒いアタッシュケースだった。 送り状には、聞いたことのない社名が記されている。
『フューチャー・シンセシス社 代表取締役 合田』
「……誰だ?」
出版社じゃない。 俺は眉をひそめながら、ケースを開けた。 中には、最高級の和紙に印刷された手紙が一通と、分厚い契約書の束。 そして、一枚の名刺が入っていた。
手紙を読む。
『拝啓 高村健様 貴殿の著書『人間失格の夜』、拝読いたしました。 文学的価値については門外漢ですが、貴殿のテキストデータに含まれる「外れ値」の美しさに、感銘を受けました。』
外れ値? 俺は首を傾げる。 「才能」でも「文章力」でもなく、統計学用語で褒められたのは初めてだ。
『現在、弊社の開発する大規模言語モデルは、ある深刻な問題に直面しています。 正確すぎて、つまらないのです。 正解ばかりを学習したAIは、やがて均質化し、新たな創造性を失う「モデル崩壊」を起こします。 それを救うことができるのは、貴殿のような「魅力的なエラーを高頻度で出力する人間」だけです。』
俺は電子タバコを口から離した。 魅力的なエラー。 それは褒め言葉なのか?
『つきましては、貴殿の過去の全著作物、および今後の執筆プロセスにおける「思考ログ(キーストローク履歴含む)」を、弊社に提供していただきたい。 提示額は、以下の通りです。』
視線を下に落とす。 そこに書かれていた金額を見て、俺は息を止めた。 印税の桁が違う。 俺が一生かかっても使いきれないほどの「0」が並んでいた。
「……なんだ、これは」
詐欺か? いや、同封されているパンフレットを見る限り、これは世界的なIT企業のようだ。 彼らは本気で、俺の「誤字」と「非効率な思考」に、億単位の値を付けている。
俺は立ち上がり、窓の外を見た。 東京の街が、巨大な基板のように広がっている。 その中で、俺という小さな「バグ」が、システム全体を揺るがすほどの価値を持ち始めている。
「俺は……勝ったのか?」
問いかける。 金はある。名声もある。 そして今、テクノロジーの最先端が、俺に頭を下げて教えを乞おうとしている。 これは、アナログ人間の完全勝利じゃないのか?
だが、なぜだろう。 胸の奥で、警報が鳴り止まない。 彼らは俺を「作家」として求めているのではない。 絶滅危惧種の「珍獣」として、あるいはシステムを延命させるための「ワクチン」として求めているような気がしてならない。
その時、スマホが震えた。 牧野からだ。 タイミングが良すぎる。嫌な予感がした。
「……もしもし」
『先生! 届きましたか? 黒いアタッシュケース』
俺は背筋が凍った。 まだ誰にも話していない。ケースを開けてから、まだ3分も経っていない。
「……なぜ、お前がそれを知っている」
『ああ、やっぱり届いたんですね! よかった!』
牧野の声は、悪びれる様子もなく、無邪気に弾んでいた。
『僕が紹介したんです。フューチャー・シンセシス社の方に』
「紹介だと?」
『ええ。先日、彼らが僕の作った『TAKAMURA_Ghost』を買い取りたいと接触してきたんですが、解析の結果、「これでは不十分だ」と言われまして』
牧野はまるで、美味しいラーメン屋を紹介するような口調で続ける。
『やっぱりクローンじゃダメなんです。オリジナルの、先生の脳内にある「カオス」そのものがないと、AIの進化は止まってしまう。だから僕、言ったんです。「じゃあ、本人を説得しましょう」って』
「お前……俺を売ったのか?」
『売っただなんて! 「橋渡し」ですよ。これで先生のデータは永遠に残るし、AI業界も救われる。Win-Winじゃないですか!』
俺は言葉を失った。 勝利したと思っていた。 だが違った。 俺は、弟子だと思っていた男の手によって、綺麗にラッピングされ、商品棚に並べられていただけだったのだ。
『契約、受けてくださいね。……僕も、アドバイザーとしての契約金が入ることになってますから』
電話が切れる。 ツー、ツー、ツー。 無機質な電子音が、俺の耳元で鳴り響く。
手元の契約書。 サインをする欄が、口を開けて俺を待っている。 これを書けば、俺の人生は上がりだ。 金も名誉も手に入る。 だがそれは、俺が「人間」であることを辞め、「資源」になることへの同意書だ。
俺は万年筆──テレビ出演のギャラで買ったモンブラン──を取り出した。 キャップを外す。 金色のペン先が、妖しく輝いている。
「バグにも、価値はあるんだよ。……そうだろう、佐伯」
俺は誰に聞かせるでもなく呟き、震える手でペンを握り直した。 そのインクの黒さが、俺の未来を塗りつぶす「闇」であることに気づいていながら、俺はもう、この甘い誘惑から逃げられそうになかった。




