第16話:ノイズの復権
世界が反転する音を聞いたことがあるか? 俺はある。今、まさにその音の中にいるからだ。
一夜明けて、事態は制御不能な領域に突入していた。 『哀していた』という誤植……いや、今や「神表現」と崇められているその一言が、ネット上の空気を一変させたのだ。
テレビをつける。 昼のワイドショー。コメンテーターの席には、昨日までAI特集を得意げに語っていたITジャーナリストが座っている。
『これからは、AIには出せない「揺らぎ」の時代ですよ。この高村健という作家は、あえて完璧な日本語を崩すことで、喪失感という計算不可能な感情を表現した。いやあ、見事です』
「……嘘をつけ」
俺はソファで膝を抱えながら、画面に毒づいた。 お前、昨日は「AI校正を使わない作家は淘汰される」って言ってただろうが。
スマホを見る。 TikTokでは、若者たちが『人間失格の夜』の誤植箇所を朗読する動画がバズっていた。 ただし、昨日のような嘲笑ではない。 ピアノのBGMに乗せ、涙を流しながら「エモい」と語り合っているのだ。
『「肩を炊いた」。これは、熱情が物理的な熱量に変わるほどの激しい愛の隠喩!』 『「絶頂の淵」。絶望と絶頂は紙一重だという哲学的メッセージ!』 『誤字じゃない。これは「ノイズ・アート」だ!』
ノイズ・アート。 俺の恥ずかしいミスが、いつの間にか現代アートの最先端に祭り上げられている。 AIが生成する「正解」があふれかえる世の中で、俺の「間違い」は、皮肉にも希少価値の高い「人間性の証明」として消費され始めたのだ。
松島から電話がかかってくる。 昨夜とは違い、声が少し上擦っていた。
『高村さん、重版が決まりました。電子だけじゃない、紙でも出します。初版3万……いや、5万いけます』
「……正気か? 誤字だらけだぞ」
『直しませんよ。一文字たりとも』 松島は断言した。 『今の読者は、その誤字にお金を払っているんです。「AI校正を通していない証明書」としてね。修正したら、逆に炎上します』
「俺は、不良品を売る詐欺師か?」
『アーティスト、と呼んでください。……それと、取材依頼が殺到しています。テレビ、雑誌、Webメディア。全員が「あの表現に込めた意図」を聞きたがっている』
俺は電子タバコを口に運び、深く吸い込んだ。 煙を吐き出す。 ゆらゆらと揺れるその煙のように、真実と虚構の境界が曖昧になっていく。
俺には二つの選択肢があった。 一つは、正直に「あれはただのミスです。老眼と疲労の産物です」と謝罪すること。 そうすれば、ブームは一瞬で去り、俺は再び嘲笑の的になるだろう。作家生命は終わる。
もう一つは……。
『高村さん? 聞こえていますか?』
「……ああ、聞こえてる」
俺はデバイスを強く握りしめた。 熱を持っている。 俺のプライドは、とっくの昔に泥にまみれている。 だったら、その泥を「金箔」だと言い張って、最後まで演じ切るのも、作家の業じゃないのか?
「松島。取材、全部受けよう」
『いいんですか? 意図を聞かれますよ』
「問題ない」
俺は口角を吊り上げた。 鏡に映る俺の顔は、ひどく卑屈で、そして最高に邪悪だった。
「全て、俺の計算通りだとな」
電話を切る。 俺はPCに向かい、SNSのアカウントを開いた。 フォロワー数が、秒速で増えている。 俺は、震える指で「投稿」ボタンを押した。
『誤読こそが、読書の自由だ。正解《AI》に縛られるな。俺のノイズを感じろ』
送信。 直後に付く、無数の「いいね」。
俺はついに一線を超えた。 ミスを才能だと偽り、バグを芸術だと嘯く。 それはAIよりもタチの悪い、人間の嘘だ。
だが、不思議と気分は悪くなかった。 むしろ、腹の底から黒い笑いがこみ上げてくる。 世界中が、俺の「誤植」にひれ伏している。 ざまあみろ。AIも、アルゴリズムも、俺の「うっかりミス」には勝てなかったんだ。
俺は電子タバコのカートリッジを交換した。 新しい味がした。 それは、甘美な「勝利」の味だった。
まだ気づいていない。 この嘘が、やがて俺自身を、本当の意味で「学習データ」として売り渡すための契約書になるとは。




