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それでも俺はAIを使わない  作者: 人間賛歌
第3章:誤植の神様
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第15話:哀(あい)していた

@Bungaku_Oni の「読了。」というツイートから、5分が経過した。 俺は呼吸を忘れ、画面に張り付いていた。 もしかして、酷すぎて言葉も出ないのか? それとも、誤字の多さに呆れてスマホを投げたのか?


通知音が鳴る。 ついに、彼の連投ツイートが始まった。


『正直に言おう。道中は地獄だった。 誤字、脱字、文法崩壊。日本語の教科書をシュレッダーにかけてぶちまけたような惨状だ。 「肩を炊いた」や「絶頂の淵」には、私も腹を抱えて笑った』


やはりか。 俺は天井を仰いだ。 文芸評論家から見ても、俺はただの笑い種だ。


『だが』


画面がスクロールされる。


『ラストの1行。 主人公が去りゆく妻の背中に向かって、万感の想いを叫ぶシーン。 ここで私は、雷に打たれたような衝撃を受けた』


心臓が跳ねる。 そこだ。そこを見てくれ。 俺が血の涙を流しながら書いた、魂の叫び。


『普通の作家なら、ここは「愛していた」と書くだろう。 陳腐だが、王道の愛の告白だ。 しかし、高村健は違った。彼はここで、とんでもない「造語」を発明した』


造語? 俺は眉をひそめた。 発明などしていない。俺はただ、ストレートに「愛していた」と書いただけだ。


『画像を見てほしい。この誤植……いや、この表現を』


添付されたスクリーンショットには、電子書籍の最終ページが写されていた。


「さよならだ、絵里子。……俺は、それでもお前をあいしていた。」


「…………あ?」


俺の声が裏返った。 目が点になる。


哀していた。 りっしんべんの、愛ではない。 「哀れ」「哀悼」「悲哀」の、哀だ。


「な、なんだこれ……!?」


俺は慌てて手元の原稿データを確認した。 Wordの検索機能で確認するまでもない。 そこには、はっきりと『哀していた』と刻まれていた。


記憶がフラッシュバックする。 あのあの泥水をすするような苦しみの中で書き殴った明け方。 俺は泣いていた。 涙で視界が滲み、モニターの文字が二重三重に見えていた。 指先は震え、意識は朦朧としていた。


『あいしていた』と入力し、変換キーを押した。 変換候補のリストが出たはずだ。 1番目:愛していた 2番目:相していた ……そして、どこかの下の方にあったはずの「哀」という字。


当時の俺の脳内は、妻を失った「悲しみ(哀しみ)」で満たされていた。 だから無意識に、その漢字を選んでしまったのか? あるいは、単なる指の滑り(ミスタッチ)か?


理由はどうあれ、結果は一つだ。 日本語として成立していない。 「哀する」なんて動詞はない。 完全な誤用。 中学生でもやらないミスだ。


「終わった……」


俺は机に突っ伏した。 よりによって、一番大事な決め台詞で。 「愛」を書き損じて「哀」にするなんて。 これじゃあ、愛の告白じゃなくて、ただの「お悔やみ」じゃないか。


「笑えよ……。笑ってくれよ、世界中!」


俺は呻いた。 今度こそ、本当の終わりだ。 鬼の首を取ったように、またネットのおもちゃにされる。 『漢字も書けない小説家』『愛を知らない男』。 罵倒の言葉が聞こえてくるようだ。


だが。 @Bungaku_Oni のツイートの続きは、俺の予想とは全く違う温度を帯びていた。


『「哀していた」。 最初は誤植だと思った。いや、間違いなく誤植だろう。 だが、読み返して震えた。 この主人公にとって、妻への感情は、きらびやかな「愛《LOVE》」などではなかったはずだ。 後悔、喪失、諦め、そして深い悲しみ。 それらが混ざり合った感情を表現するには、「愛」という字は明るすぎる』


俺は顔を上げ、食い入るように画面を見つめた。


『彼は妻を愛していたのではない。 失われた日々を、自分の無力さを、そして二度と戻らない妻という存在を、心の底から「かなしんでいた」のだ。 「愛」と「哀」。 この二つを重ね合わせ、読み手に行間を読ませるダブルミーニング。 これはAIには書けない。 辞書にある正解しか出力しないアルゴリズムには、絶対に辿り着けない「バグの極地」だ』


通知欄が、異常な速度で回転し始めた。 評論家のツイートが、秒単位で拡散リツイートされていく。


『鳥肌が立った』 『誤植だと思って読んでたけど、最後で泣いた』 『「哀していた」。なんて切ない言葉なんだ』 『これ、計算でやってるなら天才じゃないか?』


風向きが変わる音がした。 嘲笑の爆風が、称賛の追い風へと、オセロのようにひっくり返っていく。


「……は、はは」


俺は乾いた笑い声を漏らした。 違う。 計算じゃない。 ただのミスだ。 老眼と、涙と、安物のキーボードが引き起こした、情けない事故だ。


だが、世界はそれを「文学的奇跡」と呼び始めている。


俺は震える手で電子タバコを掴んだ。 今度こそ、指が滑らないように強く握りしめた。 吸い込んだ煙が、困惑する俺の脳内で渦を巻く。


「俺は……哀していた、のか?」


モニターの中の「哀」という文字が、どこか誇らしげに、そして寂しげに、俺を見つめ返していた。

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