第12話:校正なしの賭け
着信音が、泥のように重い眠りを引き裂いた。 画面を見ると『松島 誠』。 時計は午後2時を回っている。俺は10時間近く気絶していたらしい。
「……生きてるぞ」
掠れた声で電話に出る。 喉が張り付いて、うまく喋れない。
『読みましたよ、高村さん』
松島の声は、いつになく低かった。
『酷いですね。構成は破綻しかけているし、視点はブレている。文字数は無駄に多い』
「褒め言葉として受け取っておく」
『誤字脱字は、ざっと見積もっても300箇所以上。……Wordの校閲機能が真っ赤になってフリーズしましたよ』
松島は呆れたようにため息をついた。
『ですが……熱だけはある。CPUを焼くほどの高熱がね』
俺はベッドから起き上がり、デスクに向かった。 冷え切った電子タバコを手に取る。
「で、どうするんだ? ゴミ箱行きか?」
『いえ。電子書籍限定で出します。紙のコストはかけられませんが、サーバーの容量くらいなら割いてあげましょう。これが本当に最後の契約履行です』
「電子か。……皮肉なもんだな」
『ただし』 松島の声が鋭くなる。
『条件があります。今すぐこの原稿を「AI校正」にかけさせてください。誤字脱字の修正、揺らぎの統一、読みづらい表現のリライト。最新のモデルを使えば、5分で「商品」になります』
「断る」
俺は即答した。
『……正気ですか? 商品未満の欠陥品を売るつもりですか?』
「欠陥品だからいいんだよ!」
俺は声を張り上げた。咳き込む。 肺が痛い。だが、頭は妙に冴えていた。
「いいか、松島。AIがきれいに整地した文章なんて、ツルツルの新建材みたいなもんだ。どこにも引っかかりがねえ。俺が書いたのは、棘だらけの木の板だ。触れば怪我をする。棘も、節も、全部含めて『俺』なんだよ」
『読者は読みやすさを求めています。誤字だらけの小説なんて、クレームの嵐ですよ』
「構わん。クレームもレビューも、全部受け止めてやる」
俺はデスクの上のPCを開いた。 画面には、昨日書き殴った『人間失格の夜』のファイル。 読み返せば、きっと顔から火が出るほど恥ずかしいミスがあるだろう。 だが、それを直してしまえば、昨夜のあの「泥の呼吸」が嘘になる気がした。
『……わかりました』
長い沈黙の後、松島が折れた。 いや、諦めたと言うべきか。
『校正なし。そのまま入稿します。その代わり、後で何が起きても知りませんよ。炎上しようが、笑い者になろうが、あなたの責任です』
「ああ。俺の責任だ」
『では、入稿データをロックします。……最後に、タイトルと著者名の確認を』
画面上のメタデータを確認する。
タイトル:『人間失格の夜』 著者:高村 健
「間違いない」
『送信します』
カチッ、というマウスのクリック音が、電話越しに聞こえた気がした。 それは、俺の手元から「俺の魂」が離れ、デジタルの海へ放流された音だった。
『配信開始は明日の午前0時。……高村さん、これがあなたの「遺書」にならないことを祈っていますよ』
通話が切れた。 プツン、という音と共に、俺は本当の意味で独りになった。
俺は椅子に深くもたれかかり、電子タバコを口にする。 今度はゆっくりと、紫煙《水蒸気》を吐き出した。
モニターの中の原稿データは、もう俺の手には触れられない場所にいった。 300箇所以上の誤字脱字。 荒削りな文体。 そして、ラストシーンに潜む「致命的な変換ミス」。
俺はまだ気づいていない。 疲れ切った目が、そのたった一文字を見落としていたことに。 「愛していた」と打つべき場所で、指がわずかに滑ったことに。
だが、賽は投げられた。 修正パッチの当たっていない、バグだらけの人間《俺》が、完璧なAI社会に放たれたのだ。
俺は目を閉じた。 明日の今頃、世界が俺をどう笑うのか。 あるいは、無視するのか。
「……上等だ」
俺は呟き、PCの電源を落とした。 部屋が暗闇に包まれる。




