第10話:指先の戦争
「Y」のキーの上に、俺の人差し指が浮いている。 距離にして約5ミリ。 この薄いプラスチックの板を押し込めば、俺は救われる。 「続き」が吐き出される。 失った称賛も、金も、ひょっとしたら妻も戻ってくるかもしれない。
『押せよ。楽になれるぞ』 『お前の脳みそより、こいつの方がお前を理解している』
脳内の悪魔が囁く。 そうだ。俺はもう疲れた。 検索順位の圏外を掘り返すのも、情報の断片を繋ぎ合わせるのも、もう限界だ。 俺は目を閉じ、指に力を込める。
その直前。 震える唇を落ち着かせようと、左手に持った電子タバコを深く吸い込んだ。
……スカッ。
空気を吸い込んだ音だけが、虚しく響いた。 喉に当たるキック感がない。 手元を見ると、デバイスの赤いランプが高速で点滅している。
「……あ?」
バッテリー切れ。 よりによって、人生の分岐点で。
「ふざけるな……。今、いいところだったんだぞ」
俺は舌打ちし、指を「Y」キーから離した。 このまま押し切ることもできた。 だが、ニコチン切れの脳で「傑作」を迎えるのは、俺の美学に反する。
俺はモバイルバッテリーを手繰り寄せ、ケーブルを突き刺した。 充電開始の振動。 満充電まで、4分。
「待つのかよ。また」
俺は椅子に深く沈み込んだ。 目の前には、依然として誘惑的な文章と、【 Continue? 】の文字が光っている。 だが、強制的に訪れたこの「空白」が、熱病のように浮かされていた俺の脳を、少しずつ冷やしていった。
1分経過。 部屋の静寂が耳に痛い。 俺は画面の文章を読み返す。 『窓の外には、無関心な街の灯りが……』 完璧だ。美しい。 だが、そこに「俺」の汗はない。 指先の痛みも、目の疲れも、腰の鈍痛もない。 ただ、結果だけがある。
2分経過。 ふと、昔のことを思い出した。 まだ駆け出しの頃。 風呂なしのアパートで、安酒を飲みながら、一行を書くために朝まで悩み抜いた夜。 あの時、俺は苦しかったか? いや、楽しかった。 「書けない時間」こそが、俺が生きて呼吸している証だった。
3分経過。 松島の言葉が蘇る。 『効率』『コスト』『最適化』。 このAIは、効率の極みだ。 だが、効率を突き詰めた先にあるのは、人間の排除じゃないのか? 俺がこのキーを押すということは、俺自身が高村健という作家を「不要なコスト」だと認めることにならないか?
「……俺は、効率のために書いてたんじゃない」
俺は誰かに言い訳するように呟いた。 俺は、俺の不完全さを、俺の歪んだ偏屈さを、世界に叩きつけるために書いていたはずだ。
4分経過。 電子タバコのランプが緑色に変わった。 充電完了。
俺はデバイスを抜き、深く、長く吸い込んだ。 ガツンとしたメンソールの刺激が、肺を焼き、脳髄を駆け巡る。 目が覚めた。
「悪いな、松島」
俺は煙を画面に吹きかけた。 そして、キーボードに手を伸ばす。
「Y」ではない。 俺の指は、その隣にあるキーを迷いなく叩いた。
「Backspace」
タタン、タタン、タタン、タタン。 長押しする。 文字が後ろから消えていく。 『無関心な街』が消え、『夜の底』が消え、『すべてを奪われた男』が消えていく。 美しい文章が、虚無へと還っていく。
最後に残ったのは、真っ白な画面と、点滅するカーソルだけ。
「……あーあ」
もったいない。 5万部は売れたかもしれない傑作を、俺は今、自分の手で殺した。 手元には、何の武器もない。 アイデアもない。 ただ、充電されたばかりの電子タバコと、泥臭いプライドだけが残った。
「さて……どうするか」
俺は白紙の画面を睨みつける。 もう、綺麗な文章は書けないかもしれない。 だが、この「泥」のような気分を吐き出すことなら、今の俺にもできるはずだ。
俺はブラウザを立ち上げる。 新しいタブを開く。 タブの数、現在1個。
検索窓に、俺は打ち込んだ。 AIには絶対に思いつかない、非効率で、感情的で、最低な検索ワードを。
『人間 やめたい 検索』
カーソルが点滅する。 泥仕合の始まりだ。




