第2話 触れた指が、境界線
彼の店は、思ったより静かだった。
煌びやかな夜の街から一歩入っただけで、こんなにも空気が変わるなんて知らなかった。
間接照明がゆっくりと陰影をつくり、柔らかい香りが漂っている。
ホテルとは違う。
けれど家とも違う。
ここは、誰も本音を置いていけない、無言のルールのある場所。
彼は私を奥の部屋へ案内した。
扉が閉まる音が、どこか現実味を奪っていく。
「緊張してる?」
彼が、少しだけ覗き込むように聞く。
私は首を横に振った。
そんなわけないのに。
静かな音楽が流れている。
言葉の温度を邪魔しないような、穏やかで心を撫でる旋律。
「ここからは、俺が触れる。いい?」
その確認が、心臓に火を点ける。
うなずくと、彼は手袋を外した。
白くて、しなやかな指。
仕事道具なんて言葉で片づけられないほど、美しい。
彼の手が、そっと私の頬に触れた。
指先がすべった瞬間、全身が敏感になる。
「冷たい?」
「少し…」
「すぐ温かくなる」
たしかに、その声が落ちた後、体温が伝わってくる。
触れられるということが、こんなにも人を救うのか。
私は彼の目を見つめる。
黒い瞳の奥に、無数の夜が揺れている。
そのどれも私の知らない世界。
「〇〇は、今日……何から逃げてきたの?」
逃げてきた。
その言葉に、心がざわつく。
見透かされている。
隠せない。
「逃げてないです」
反射で吐き出した言葉が、嘘だった。
「そうか」
否定も、追及もしない。
ただ、受け止める。
それが一番人を壊すということを、彼は知っているのだ。
「泣きたいときは泣いていい」
唇のすぐ近くで囁くから、呼吸が奪われる。
泣かせるくせに。
泣いてほしいくせに。
彼の親指が、そっと私の眉間を撫でる。
少し強張っていた筋肉がゆるむ。
涙腺が不意に熱くなる。
こんなところで泣きたくない。
「無理して笑う顔も嫌いじゃないけど」
耳元で笑う声に、膝が少し震えた。
「弱いとこ見せてくれるほうが、俺は嬉しい」
そんなの、反則だ。
堪えていた涙が、頬を伝い落ちる。
彼は優しく受け取るように指で拭った。
「ね。綺麗だよ、泣き顔」
嘘でもいい。
今は、信じていたい。
触れられるたび、
褒められるたび、
私は依存へと沈んでいく。
けれど彼の手つきはプロだ。
優しいのに線がある。
恋に踏み込ませないための、透明な壁。
でも、その壁越しに恋してしまう世界だってある。
私が今まさにそう。
「〇〇は俺に、何を期待してる?」
静かに聞かれる。
優しい声は、時に刃より鋭い。
期待なんて、しないって決めた。
求めないって誓った。
なのに。
「わからない」
声が震える。
本当はわかってるのに。
彼は微笑む。
その笑みは、仕事の顔。
理解した上で、線を引く。
「じゃあ、今は俺に任せて」
声が甘く落ちてくる。
「ちゃんと気持ちよくしてあげるから」
もうダメだ。
落ちる。
好きになる。
覚悟は、とっくに置いてきた。
触れる指が境界線。
踏み越えているのは、彼じゃなくて――私の方。




