ハイイロノサソイ ~second contact~ [1.2.1]
さてさて第二章開幕。
今回からは「あの人」中心に話が進められていきますよ~(笑
「お会計、八百四十六円になります。 …………丁度お預かりします。 ありがとうございました」
午前中最後の客を見送り、店員の男が一息付くと、店の奥から年配の女性が顔だけ出して声を掛けた。
「お疲れ様、緋嵩くん。 休憩、入っていいわよ」
人のよさそうなふくよかな顔に笑みを浮かべる様子は、気の言いおばさんという言葉が良く似合う。
「お疲れ様です。 じゃあお言葉に甘えて、後はよろしく」
朗らかな労いの台詞に小さく会釈して、緋嵩と呼ばれた男は手近にあったタバコの棚から一箱摘まんで店の奥に向かう。
割合整った顔に眼鏡を掛けた、知的な印象を受ける男。 紛れも無くあの時追われていた男に他ならない。
あれから一日、正確には十三時間と少ししか経っていなかったが、彼は平静そのままにバイトに出勤し、労働に勤しんでいた。
その様子には微塵の違和感も見られない。
今もいつも通り、休憩になると店から一箱取って吸うと言う行為に至る最中だった。
足早にロッカー室を抜けた緋嵩は、丁度店の裏側に位置する場所に出ると、おもむろに手の中の煙草を開封する。
この店では店長が煙草の臭いをあまり好まないため、煙草は裏で吸う事が従業員達の暗黙の了解になっているが故の行動だ。
銀の包装紙を解き、真新しいその中の一本をやや時間を掛けて咥えると、オレンジ色の制服の胸ポケットから覗いている百円ライターで点火する。
肺一杯に有毒物質を吸い込み、周りには吸った以上に有害な煙を撒き散らす。
いつもと同じ光景。 ここまでは。
どうも昨日から彼には何かの縁があるらしい。 普段ならここで時間一杯まで煙草を吸っているか、ロッカー室に戻り昼寝でもしているのだが、今日はそのどちらでもなかった。
「サボってて良いの? 店員さん」
人通りが少ないどころか皆無の裏道で、緋嵩の後ろから友人に話しかけるかのような軽い調子の言葉が掛けられた。 知り合いといえば知り合いの、名も知らぬ女の声。
それに対し、彼はまるで驚いた様子も無く、平然と返したものだった。
「良いんじゃないか。 店長の許可は貰ってるからな」
振り向きもせずそれだけ言って、再び喫煙に没頭する緋嵩。
彼の背後からまだ退く気配が見られない所を見ると、彼女はもっと何か言いたい事があるらしい。
対して、緋嵩の方はそんなことお構い無しに煙草を吸い潰していた。
煙草の長さが最初に話しかけられてから半分ほどになった時、ようやく背後から非難めいた声が緋嵩に投げられる。
「ねえ、せめてこっち向くぐらいしたら? 一応私、話しかけたんだけど」
「……何か用か?」
いかにも気だるそうな溜息を一つついて、面倒くさそうな雰囲気を垂れ流しながら振り返った緋嵩の視線の先には、頭一つ分低いポニーテールの女の姿。
言うまでも無く、昨日会ったばかりの女。 緋嵩曰く、自殺志願者もどきの那凪である。
「昨日のこと、覚えてる?」
緋嵩が振り向くと同時に投げかけられた那凪の質問に、一瞬、二人の間に沈黙が流れた。
那凪が存在するということは、昨日起こったことがまぎれも無い事実であるという証明に他ならない。
もしも緋嵩のこれまでの反応が夢や幻覚でも見たのだと自己完結している故のものであるならば、通常なら沈黙の後起こりうる事態は二種類に絞られる。 動揺の一つも見せて現実逃避に走るか、根掘り葉掘り問いただすかのどちらかだ。
当然那凪も、そのどちらかを予想していた。
だが、緋嵩から返ってきたのは憎らしいくらい普段どおりの口調でただ一言。
「ああ、とりあえずいきなり後ろから襲い掛かるのはどうかと思う」
言葉のわりには攻める様子は無く、むしろあっけらかんとしたその反応に那凪は訝しむ様な表情をして呟いた。
「やっぱり、記憶は残ってるみたいね」
「で、それがどうかしたのか?」
携帯灰皿にぐりぐりと煙草を押し付けながら呟く様子は、傍目にはどう見ても平静を崩していない。 そんな緋嵩の様子に、那凪の顔が困惑や懐疑を通り越してもはや呆れるようなものに変わる。
「どうかした、じゃないわよ。 あんた、あんな目に会って平気なわけ?」
「生きていれば不思議なことの一つや二つはあるもんだろ。 そもそも、実際出会った後にそんな筈は無いなんて現実を否定できるほど夢見がちでも無いんでね」
そこまで言って、緋嵩はふと、忘れ物でも思い出した表情をして言葉の最後に付け加えた。
「そういえば、一応助けてもらったことになるんだったな。 ありがとう、助かった」
「呆れた……あんた、相当な変人ね」
言っていることは尤もだが、人間としては激しく型を外れたその思考に、那凪が額に手を当てて溜息を吐くように言った。
つまり、簡単に言ってしまえば緋嵩は化け物に会った事も、その後助かって公園に放置された事も全て理解した上でこう考えていたのだ。 不思議な事もあるものだ、と。
昨晩、なんとしても那凪を死なせまいとしていた粘り強さとはまるで反対の切り捨てた物の考え方に、那凪は一瞬本当に同一人物なのかと疑ってしまう。 とは言っても、容姿も声も記憶も全てにおいて合致しているのだから疑いようが無いのだが。
「よく言われる。 それで? 記憶が残ってるのに問題でもあるとか?」
脱線しかけた話を戻した緋嵩は、そう言って探るような目を那凪に向ける。
警戒心をむき出しにしない辺り、彼が上辺だけでなく、少なくとも思考の部分でも平静なのだということを物語っていた。
対して、那凪の方には脅迫する気も、危害を加える気も無いようで、パタパタと手を振ってその気が無いことをアピールする。
「あ、そこは全然良いの。 ただの確認だから。 それよりさ、聞きたいことがあるんだけど」
「確認、ね。 で、一体何が聞きたいんだ?」
相手は、方法は分からないが自分を襲ってきた化け物から、少なくとも自分も込みで逃げ切るだけの実力は備えている人物だ。 下手に煙に巻くのは得策ではないだろうし、曲がりなりにも助けられた義理はある。 総合して鑑みるに、ある程度のことは答えても良い、というよりも答えざるを得ないだろう。
表面上はなんでもないように言っているが、恐らくはこういう風に色々と納得した上での返答だったに違いない。
彼の返答に満足したのか、那凪は「そうねえ……」と言って、腕を組んで壁に寄りかかる。
少々長くなりそうな予感に、緋嵩は早くも脳内で昨晩の出来事のトレースを始めていた。
「じゃあ、まず、どうやって出会ったの?」
「昨日のバイト帰り、いつも通っている道を歩いていたら背後から寒気がしてな。 で、振り返ってみたらそこにあいつが居た」
淀み無い緋嵩の反応に、那凪は今までの彼の言葉が偽りでないことを改めて実感する。
恐怖心や日常への依存が明らかに欠如しているとしか思えない彼の反応にどこか自分と似たような空気を感じながら、那凪は質問を続けた。
「で、襲って来たから慌てて逃げたと」
「そう言う事だ」
淡々と答える緋嵩に、那凪が少し感心の色を滲ませて言う。
「にしても、よく逃げられたわね。 今まであれに七人も殺されてたのよ」
「あの程度の速さなら、何とかなったんでね」
緋嵩には誇ったような様子は無い。 ただ、当たり前の事を語っているようにしか見えなかった。
「ふーん。 ああ、そう言えば、そのときの怪我……は、もう良いみたいね」
煙草を持つ彼の左腕を那凪がちらりと見る。
「大したものじゃ無かったからな」
腕をまくりこそしなかったが、軽く動かす様子は微塵の躊躇も、不自然さも見られないものだった。
問題の無いことに安心でおしたのか、それを見ていた彼女の目が僅かに細められる。
「そっか。 聞きたいのはこれで全部。 ありがと」
思ったよりも短い問答の終了宣言に、緋嵩の声が重なった。