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デアイトハカイ ~first contact~ [1.1.3]

さて、男性陣が動き始めた頃。

 那凪の方はというと、走った時間から考えれば驚くほど離れた場所まで来ていた。 しかも、両手と両足に金属製の装備まで施しているではないか。

 今もなお、陸ではなく建物の屋根伝いを凡そ人間とはかけ離れた速さで疾走する彼女は、相当な運動量をこなしているにもかかわらず、どういうわけかその表情からは微塵の疲れも見受けられない。

「こっちね」

 呟いて、顔を向けると同時にターン。

 自動車と同等か、或いはそれ以上の速度を出しながらも、たった一足踏み込んだだけで瞬時に進行方向を九十度変えてしまう彼女。

 一体その一歩にどれほどの力と勢いが込められていたというのか、踏み抜いたコンクリートがけたたましい音と共にあっけなく砕け散り道路へ降り注ぐ。

 だが、不思議とそれに反応するものはいなかった。

 いや、反応しないのではない。

 反応するものが居ないのだ。

 どういう訳かしばらく前から、生き物の存在自体が風景に全く存在しなくなっているのである。 道、民家、明かりのついたコンビニにさえ、ただの一人も人影が見られない事など、果たして有り得るのだろうか。

 しかし、那凪はまるでそんな事など意にも介さない様子で、目に見えない対象に向かって疾風の如く駆け抜けてゆく。

 まるでこの景色が当たり前のように。

「……見つけたっ!」

 呟きと共に、それまでのスピードが嘘のように消える。

 五階建てのマンションの屋上の端から、乗り出すような前傾姿勢のまま足だけを止め、凝らすように目を細く引き絞って正面を窺う彼女。 そこには、眼下を走る道路の遥か向こうから自分の方へと向かってくる、小さな点が映っていた。

 ふわりと、那凪の髪が揺れる。

 それが屋上から身を投げたのだと理解した頃には、既に何事もなかったかのように地面へと着地する彼女の姿があった。

 僅かに開いた唇から、浅い深呼吸が漏れる。

 一見すれば静かに佇んでいるようにしか見えない彼女に、それは衰える様子を見せずどんどん近づいて来ていた。

 

 八十……六十……五十……三十。

 

 近づくにつれて、動いているものが何なのか、徐々に鮮明になっていく。

 青年。

 見たところ那凪と同じ位の年齢だろうか。 割合整った顔に眼鏡を掛けた、知的な印象を受ける男だった。

 無論、じっとしていれば、の話ではあるが。

 今の彼の顔には濃い疲労が浮かび、息も絶え絶え。 周りの障害物を気にする素振りも見せず、時に当たりそうになりながらも走り続ける様子は、知的というよりもむしろ、何かから必死に逃げ回る逃亡者のようだ。

 また、怪我でもしているのか服の左腕部分が薄く汚れ、身体の動きもそこを庇っている様に見えた。

 そんな男は、走りながら一瞬だけ後ろを振り返ると、何かに怯えるように顔を歪ませて速度を一層上げだしたのだ。 走りながらも小刻みに震え今にも倒れそうになっている足が、彼が限界を超えて体を酷使しているであろうことを如実に表している。

 那凪との距離が残り十メートルほどになると、男はようやく、前方に人がいる事に気がついたらしい。

 彼女を見てはっとした表情を浮かべると、

「逃げろ!!」

 有らん限りの声で彼女に向かって叫びだした。

 しかし、彼の意に反して、当の那凪は微塵も聞き入れる様子を見せず、ただじっとそこに立ち尽くしたまま。

 まるで何かを待っているかのように。

「聞こえなかったのか! さっさと逃げろ! 逃げろって!!」

 それでも、那凪は動かない。

 

 十……五……一。

 

 なおも二人の距離は縮む。

 男は諦めたのか、もはや叫ぶことを止めていた。

 そして、

「っ」

 刹那の邂逅。

 すれ違う瞬間、男の目に映った見ず知らずの女の表情は。 寂しげな、しかしどこか諦めたような、小さな微笑。

「っの!」

 コンクリートが何かと擦れて悲鳴を上げる。

 那凪は一センチたりとも動いていない。 ならば、男の足が遂に限界を迎えて転倒でもしたのだろうか。 いや、それにしては響いた音に打撃音が伴っていない。

 では、何が。

「はぁ。 ったく、自殺志願者かよあんた」

 那凪の斜め後ろから、思いもよらず、呆れるような声が掛けられた。

 彼女が思わず目だけを音源へ向けると、両手を膝に置いた前かがみの姿勢のまま、顔だけを正面に、今まで逃げていたであろうモノに向けている男の姿が、視界の端に写される。

 一度息を吐いただけだと言うのに、どうしたわけか彼の顔は、既に逃亡者のそれではなくなっていた。 それどころか、妙に落ち着いているような印象さえ受けるではないか。

「え……?」

 ありえないことだ。

 人間とは言え、突き詰めれば動物だ。

 つい先程まで絶対的な恐怖を覚え。 肉体を限界まで酷使して逃げていた者が、見ず知らずの他人のためにどうして足を止めらよう。

 どうして極限状況で本能を理性が押し留められようか。

 出来るはずが無いのだ。 たとえ誰であろうと、自分の命は見ず知らずの他人よりも重いのだから。 

 だが、男はあろうことか背筋を起こし那凪よりも更に前へ歩み出ると、顔を少しだけ彼女に向けて言った。

「いいか、アレが来たら、死ぬ気で走れ。 ……ま、見たら嫌でも体が勝手に反応するだろうけどな」

「あんたは? 逃げないの?」

 男の思わせぶりな言葉を流し、那凪が尋ねる。

 彼女がこういう場面に出くわした回数は、一度や二度ではない。 それこそ四肢の指を全て足しても足らない程だが、どの記憶を掘り替えしても、これほどの行動に移った人間は見たことがなかった。

 今の彼の行動がどれほど不自然で、どれほど本能を噛み殺しているか、それが判れば判るほど、那凪は聞かずにいられなかったのだ。

 なぜ、こんな行動をとるのか、と。

「逃げるさ。 あんたと一緒にな」

 強張った顔の主から返ってきたのは、馬鹿げていると、そう誰もが思うであろう回答。

 つまりそれは、死ぬ程の状況から逃げることと、他人を死なせたくないという思いが釣り合っている事に他ならない。

 自身の死と他人の死が同等の価値を持つなど、恐らく彼は余程の馬鹿か偽善者のどちらかに違いない。

 そう那凪は確信した。

 それでも、いや、だからこそか、

「ぷっ、変な奴」 

 頬が緩んだ。

「あんたもな」

 笑われたことに若干嫌な顔をしつつ言い返す男。

 よくある恋愛物の小説か何かだったらなら、ここで気の聞いた冗談の一つでも出てくるだろう。 そんな、緊張感とはまるで無縁の思考さえ那凪の脳裏に浮かんだ。

 初対面の相手に対してこういう感覚を覚えるのは随分と久しぶりだと、胸が躍るのを感じるも、生憎彼女にはそれを噛み締める暇も冗談を言い出す暇もありはしない。 

「来るぞ! 走る準備しとけ!」

 両手を握って、男が緊張の走った声を張り上げた。

 最初に感じたのは、音。

 唸りとも、声とも取れるそれは、一体何から発せられているかまるで判別がつかない。

 しかし、ただ一つだけ確実なことがあった。

 それは、追ってきているのは機械の類ではなく、明らかに生物だということ。 生々しく、不気味で、聴く者の精神を削り取るような不快音。

 一体どのような進化を遂げれば、このような音が出せるようになるのかは判らないが、それでも間違いなく、生在るもののそれである。

 どれほどその騒音を聞き続けていただろうか、徐々に二人の目に、何かが映りだした。

 夜の帳に隠された何か、人というよりは、ケモノじみたシルエットが次第に輪郭から露わになっていく。

「……ごめん」

 不意に、呟きにも等しい那凪の声が、男の耳に届いた。

 急に出た謝罪の言葉に男は何事かと振り向こうとするが、時既に遅く、既に那凪の掌が彼の首筋を捉えた後だった。

 完全なる不意打ちに、男は全く反応できずに見事に意識を刈り取られたようだ。 全身から力が抜け、そのまま崩れ落ちそうになる彼の体を、辛うじて那凪が抱きとめる。

「ほんと、ごめんね。 ちょっとだけ寝てて」

 申し訳なさを含んだ口調と表情で、ゆっくりと男を地面に寝かす。 

 那凪が顔を上げたとき、眼前には、細部まで鮮明に判別できるほどにまで近づいた例の追跡者の姿があった。

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