アラザルモノタチ ~Pandemonium~[3.2.1]
「チッ、どうりで。 癇に触るわけだ」
それを目の前にして、臆するどころか忌々しげにそう吐き捨てたのは、依然として棒立ちを保っている緋嵩だ。
那凪達四人が息をする事さえも忘れて見入っているのに対して、彼だけは、随分と思考に余裕があるように見受けられた。
果たしてそれは、単に彼がこういった状況に場慣れしている故か。
「このところの騒ぎの原因は、貴様だったというわけか」
それとも、
「なあ、ククリヒメ」
射殺さんばかりに相手を睨み付ける、彼の殺意故か。
どちらにせよ、 彼がククリヒメと呼んだ目の前の存在に微塵も遅れをとっていないことは確かだ。
――くすくす、くすくすくす
異形が、微笑む。
外見は禍鏡よりもよほど人間に近い。 女王の残骸に座る彼女の四肢も、顔も、人間のそれだ。 薄く纏った濃紺の着物から除く褐色の肌は艶かしく、容姿は秀麗。 腰ほどもある白髪を重力のままに垂らし、手の甲で口元を隠して笑っている姿は化物には程遠く、それどころか、まるで一枚の絵画のような魅力を持って見る者全てを釘付ける。
だが、違う。
これは人間とは違う。
心臓を鷲掴みにされるような威圧感だとか、神秘的な雰囲気だというような些細な問題ではない。
これは、違うのだ。 何かが決定的に、人間という存在の括りから外れている。
故に、異形。
――久しいのう、赤眼。 こうして見えるのは、いつ以来ぞ?
心底愉快そうに笑みを零す彼女の華やかで荘厳な気配も、血と臓物と化け物がひしめく場の中心では戦慄と狂気以外何も生み出しはしない。
「……」
緋嵩は答えない。 赤眼という呼びかけにも、尋常ならざるこの変化についても。
彼は、最初に彼女に語りかけてからというもの、どういうわけか一切を問わずに立ち尽くしていた。
ただその目にだけ、絶えず鋭い光を宿しながら。
――くすくす、なんじゃ、しばらく見ぬうちに随分と寡黙になったではないか。
彼の視線に気付きながらも、いや、それすらも可笑しいのか、ククリヒメは尚も楽しそうに語り続けた。
――それとも、ここが気に食わぬか?
ゆっくりと、撫で回すように、景色に沿って腕を伝わせるククリヒメ。
何気ない様子で足元に跪く禍鏡たちを睥睨する彼女が、突然くっと、口の端を持ち上げた。
光が、舞う。
ゆらゆら、さらさらと。 まるで雪が下から立ち昇るかのように、小さな純白の光が空へ空へと登っていく。
発生源は、禍鏡そのもの。
まるで紐が解けるように、次から次へと禍鏡が光に分解されて消えてゆく。
淡い蛍火は元の人外の異形とは似ても似つかぬほどに儚く、美しい。
化物が消える。 臓物が消える。 地面に染みた血の一滴さえもが光となって消えていく。
――くすくすくす。 どうじゃ赤眼、これで満足であろう?
立ち上る光の中を微笑みながら鎮座するのは、神。
現の地獄が、一瞬にしてこの世ならざる純白の楽園へと姿を変えた。
万人が見惚れるであろうその光景は、一切の例外もなく全てを包んで陶酔させる。
「……ふっ」
筈だった。
「くっくくく、くはは、はっ、はははははははははははははははははははははははははは」
突然の、それも心底可笑しそうな緋嵩の笑い声に、さしものククリヒメも僅かに眉を顰めさせた。
――? 何を――
「なんて事だ!! 貴様が? 貴様がククリヒメ? ククリヒメだと言うのか!?」
げらげらと笑いながらククリヒメを指差す緋嵩。
つい先程までの緊張など無かったかのように、片手で顔を覆いながら、空へ向かって大口を開け、ただひたすらに彼は笑い続ける。
指の隙間から覗く赤い眼に、剥き出しになった犬歯と夜空へ響き渡る大声が混ざり合った彼の姿は、まるで狂った道化の如く。
それは、この神聖な場を最大限に侮辱する行為そのものだった。
――何が可笑しい、赤眼
当然、そのような返答を返されて気分が良くなる者が居るはずも無い。 さしものククリヒメも笑みを消し、幾分冷めた声で緋嵩を問いただす。
幾分冷めたと言えば聞こえは良いが、人間相手ならば体に鉄の芯を打ち込まれ息すら出来なくなる程の威圧感を含む声だ。
だと言うのに、
「……」
笑い声こそ止めたものの、緋嵩の手はまだ顔を覆ったままであり、何よりその口は声を出していた時よりも尚深く、三日月のようにぱっくりと割れていた。
「貴様は、奴でハ無い」
――……なんじゃと?
彼の口から出た台詞に、ついにククリヒメから余裕の色が消えた。 刹那の戸惑いは、次の瞬間には絶対零度の眼光となって緋嵩を射抜く。
だが、冷徹な目で見下ろされてると知りながらも彼の言葉は止まらない。 むしろより滑らかに、侮辱の言葉を紡ぎだす。
「くくっ、本物の奴が、あんな薄汚い喰い方なぞすルものか。 成り損ないが偉そうに」
ありったけの侮蔑と嘲笑を込めたような彼の言葉は、ついに神の逆鱗に触れた。
――貴様……!!
「誰に口を聞イている、小娘」
大気が、震えた。
音が響くなどという生易しいものではない。 まるで空間そのものが脈動したかのような振動は、一瞬にしてククリヒメの表情を凍らせる。
彼女は、気づいていなかったのだ。 自分がとうに、目の前の男の逆鱗に触れるところか剥ぎ取ってしまっているということに。
おそらくはこの場にいる誰も理解してはいまい。
時を追うごとに崩れていったシニカルな笑みも、深みを増していった紅い瞳も、感情の高ぶりも、全て力量差が見せる一方的な蹂躙に酔っているようにしか彼女達には見えていなかったのだ。
彼女達は、知る。 彼が何を警戒していたのか、何と戦っていたのか――――彼が、何なのか。
「少し力を蓄えタ程度で欠片風情が本物気取リとは笑わせる。 貴様程度、我一人デ十分だ」
割れる。
今の今まで、持ち得る理性を総動員させて押しとどめていた本能が、ついに出口を見つけて騒ぎ出す。
出せ、出せ、出せ、と。
殺せ、喰らえ、引き摺り下ろせ、と。
目の前の存在は何だ? 神とは? ククリヒメ? いや、それより――
(ヨルハ、ダレノモノダッタ?)
「ぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!!!!!!!」
燃える。
手が燃える、足が燃える、胸が燃える、頭が燃える。
「ガ、ア、ア、ア、ア、ア!!!」
まるで火のように、まるで闇のように、精神を莫大な熱量が駆け巡り全身を止めど無い深淵が覆い尽くす。
溢れるのは、腐色の死気。
――!!
振り上げられる腕。
緋嵩の突然の変化に、ククリヒメは感じた本能のままに必殺の威力をもって対応した。
彼女の腕が下ろされた時にはもう、緋嵩の姿など跡形もない。
例え欠片と言われようとも、力を蓄えた彼女は禍鏡など足元にも及びはしないのだ。 事実彼の居た場所には今、無残なクレーターだけが残り、そして、
「ソノ薄汚ィ血ハ、ドコヘ流ソウカ」
自分の頭蓋へと振り下ろされた彼のモノの腕を、ようやく払い退けられる。
――くぅっ!?
驚愕と恐怖に、思わずククリヒメの口から悲鳴が上がった。
自身が腕を振るったと同時に脳天目掛けて叩きつけられて来た爪を、辛うじて空いていたもう一方の腕で防いだものの。 あと数秒でも先に振るった腕の切り返しが遅ければ、恐らくは受け止めた方の腕は引きちぎられていただろう。
未だ痺れの残る腕を信じられないと言いたげな目で一瞥しながらも、手ごたえの無かった迎撃の感触をすぐに思い出し勢いよく怪物の逃げたであろう方向に視線を合わせる。
居た。
漆黒の甲殻に全身を染め上げて、血のような目だけをぎらつかせて、かつて彼女の持ち得る記憶のどこにも存在しなかった怪物が、獲物を前に歓喜を吼える。
――紅王鬼
震える唇で呟いたのは、かつて赤眼と呼ばれた異形の真の名。
欠片である自分は知らない、しかしこの記憶のオリジナルは間違いなく知っているはずの、怪物。 第八階層の主。
「ク、クク、良イゾ。 欠片トイエドモ楽シマセテクレソウダ」
まるで闇に浮かんだ三日月そのものの口で狂った笑みを浮かべながら、怪物がさも愉快そうに嘲笑った。
額から突き出した漆黒の角以外は顔面にさして変化は見られないというのに、もはやそれは人間のものとは思えないほどに、醜悪で、凶暴で、おぞましい。
新しい玩具を品定めする正真正銘の怪物に、ククリヒメが目を剥いて激昂する。
――な、めるなあっっ!! 地獄の狗如きがあああ!!!!
地が爆ぜる。
突如として幾十の隆起した大地が、ククリヒメを中心にしてまるで花のように次々に跳ね上がっていく。
一瞬にして針山のようになった地にはしかし、既に鬼の姿は無い。 踏みしめる地が奪われた場合、行くべき場所はただ一つ。
――驕りが過ぎたな、鬼!!
空中で自分に向かって突撃してくる怪物を捉え、ククリヒメが哂う。 よく見れば彼女の周囲の所々には、光を不自然に屈折させている景色の境目が見て取れるではないか。
その正体は、彼女の手から伸びる糸。
景色が切られていたのは、直径一ミリにも満たない肉眼ではまず捉えることが出来ないであろう極細の糸が、まるで蜘蛛の巣のように彼女へ至る道のすべてを遮断していたが故に起こりえた現象だった。
つまり先の地面の隆起は、単にこの糸を張り巡らした地点におびき寄せるための布石に過ぎなかったということなのだろう。
ククリヒメの目に、明らかな喜色が浮かぶ。
ククリヒメとは元来、縁結びや仲裁など何かを括り取り持つことに長けている神である。 それは例え神同士と言えども例外ではなく、かつては最上級の神々の仲を取り持ったと言われる逸話さえあったほどだ。
それだけを聞けば、決して荒事向きの神とは言えないだろう。
だが、しかし。
こと戦闘において、彼女の性質は思わぬ攻撃性を発揮する。
括りという概念が、文字通り何かを絡めとるという物質的な意味合いへと変わるのだ。 それはひとたび絡め捕られれば、何者であろうと切断されるまで逃れること叶わない必殺の罠。
――無様に千切れるがよい!
弾丸のようにまんまと網に向かってくる鬼を見て、勝利を確信したククリヒメが薙ぐように腕を振るって糸を標的へと走らせた。
「ガ、アァッ!!」
押し寄せる糸を前に微塵の躊躇も無く突き進んでいた鬼が吼えた瞬間。
彼の全身を絡めとる筈だった糸の全てが、閃光に呑まれ、消えた。
そして鬼も。
――なっ!?
突然全身を襲った思わぬ衝撃に、鬼の所在を追うどころかその場に踏み留まることさえも叶わずに声だけを残してククリヒメが後方へと吹き飛ばされた。
隆起した岩の固まりに勢いよく背中から叩きつけられ、それでも謎の衝撃によって生み出された勢いは留まらずに次々と轟音と共に岩を散らせて彼女の体を更に後ろの岩へと叩き付けていく。
まるで砲弾のように五つほどの石柱を砕き折ると、ようやくククリヒメの体が瓦礫と共に地に落ちた。
数秒後、後を追うようにして砕けた岩の破片が次々と地面に落ちる中で、またも閃光が散る。
――キ、サマあ!!
「ドウシタ欠片! ソノ程度デハ『ククリヒメ』ノ名ガ泣クゾ!!」
刹那、ククリヒメの怒号と鬼の挑発が辺りに響いた。
崩れ落ちる瓦礫の中で、閃光が散っては弾き飛ばされる二つの影。
一方は瓦礫の中で尚も岩を砕き地を削り、新たな粉塵と瓦礫を生み出し続けている。
対して。
もう一方は最初に触れるものを砕きこそすれ、そのまま後方へと第二、第三の瓦礫を生み出すような事はない。 それどころか、まるで跳弾のように反射して次の攻撃にそのまま勢いを利用さえしているではないか。
「ククッッサア、サアサアサア!! 防イデ見セロ!!!!」
体勢を立て直し、再び向かってくる影に、縦横無尽に襲い掛かる鬼が何度目かの捕縛を試みる。
――ぐぅっ!?
また、同じ。
実は閃光の正体は、ククリヒメの糸と紅王鬼の爪が触れたことで起こっている現象だった。
自身を絡み取ろうとする糸そのものに対しての直接攻撃。 この上ない威力を持った二つの凶器であるが故に、その衝突は大気をたわませ空間に波紋を作り出す。
空間自体を歪ませる程の衝撃は当然の如く場に吸収しきれるような代物ではない。 彼らの接触により生み出した地の歪み、大気の圧縮、至る所で空間の許容量を超えたあらゆる力場は、束の間の歪みを見せた後、しかしそれ以上の力を持って元の状態へと戻される。
世界は綻びを認めない。 なぜなら、空間が裂けることは即ち、その次元の概念が崩れるに等しいからだ。
だから世界は、過剰な衝突の結果を破壊とはしない。
空間を歪ませ、次元を破壊するほどの力場の発生は、それ以上の真逆の力場をもって元のあるべき姿へと戻されるのだ。
発生源を、その媒介として。
それは世界からすれば、ほんの僅かで些細な修正。 だが当人達からすればそれは、打ち込んだ力が数倍になって跳ね返ってきている事に他ならない。
結果、二人の体は真後ろへと弾き飛ばされる。 打ち込んだときの数倍の加速を与えられて。
何度目かの衝撃に自慢の糸は軽々と引き千切られ、抗う術もなく四度の爆破と衝突を繰り返して無様に着地するククリヒメ。
これまで地に付いては即座に迎撃を繰り返してきた彼女だったが、今回は同じようにはいかなかったらしい。 立ち上がろうとした途端、遂に蓄積されたダメージに彼女の体が耐え切れず、崩れるように膝を落としてしまう。
「ナンダ、モウ終ワリカ」
真上から響いてきた声に顔を上げれば、
――あ、あ
そこには、鬼が居る。
闇と静寂に包まれた廃墟にそびえる瓦礫の山の頂で、何よりも穢れた光が彼女を捉えて放さない。
――なぜじゃ、なぜ、妾の糸が、なぜ効かぬ
曲がりなりにも、神の一部。
絶対的な誇りがあった。 例え本体ではなくても、幾多の禍鏡を喰らうことでオリジナルの域に至れると信じていた――――だが。
ならばなぜ、今自分は無様に地に這い蹲り、目の前のアレをこんなにも畏怖してしまっているのだろうか。
戸惑いと、絶望と。
様々な感情をない交ぜにしたような表情で呻くように問いかける。
「貴様ハ喰ライ過ギタノサ、余計ナ不純物ドモヲ」
左手に糸の残滓をたなびかせて、あっけなくそう言った鬼。
その言葉に、ククリヒメが、愕然と目を見開いた。
――まさか!?
「ヨウヤク気付イタカ、出来損ナイ。 欠片ノ分際デアレダケノ魔ヲ浄化シキレルト、本気デ思ッテイタノカ?」
紅王鬼の言葉を否定するかのように、ククリヒメが両の袖を振るって糸を出す。 が、どれだけ力を込めて振るっても、出るのは布の擦れる音が響くのみ。
何も起こりはしない。
「無駄ダ、浄化ノシキレテイナイ今ノザマデハナ」
くつくつと喉奥で嘲笑う紅王鬼を、軋むほどに歯を噛み締めて睨み付けるククリヒメ。
彼女の目に映し出されている殺意と敵意、そして。 恐怖を眺めながら、鬼が芝居めいた動きで左腕を上げて爪を見せ付けるように掌を開いた。
「サア、貴様ヲ守ッテクレル糸ハ、モウ無イゾ?」
細めた瞳に、鋭い歯の立ち並ぶ口からは舌なめずりが漏れる。 糸が無くなった今、もうその凶刃を防ぐ術は、無い。
目の前の獲物を、ありったけの暴力で侵したくて嬲りたくて殺したくて。 興奮と悦楽に思考が埋め尽くされた鬼が、狂っていた。
「クク、ククク、クカカカカカカッッ!!」
げたげた、げらげらと夜空を埋め尽くす哄笑は、或いはこれこそが彼の本来在るべき姿とでも言いたげに辺り一面に響き渡る。
狂え――
それを聞く
狂え――
全ての者の
狂え――
思考を
狂え――
埋め尽くしながら
狂え――
――あああああああああああああああああ!!!!
溢れる恐怖に耐え切れず、ククリヒメが吼えた。
目を閉じて耳を覆い、うずくまる様に眼前の光景を否定する彼女の姿こそ、血に沈む哀れな生贄に相応しい。
だが、精神を焼き切られるような感情の波は、果たして。 彼女さえも知らない結末を生む。
「ッ!?」
初めて、鬼が目を剥いた。
疾風の如く彼が飛び退った後の瓦礫を細い線が埋め尽くし這いずり回り、あっという間に覆い隠してしまう。
彼女の全身から突然炸裂するように溢れ出た大量の糸が、今、全てを呑み込まんと次々に辺りを埋め尽くしていた。
いや、違う。 よく見れば、それは糸ではなく、
――ああ、あ、ああああああああああ!!!!!!!!
髪の毛。
地に座り込む彼女を中心にして、まるで絵の具をこぼしているかのようにあっけなく空間を塗りつぶしていく白色の奔流が瞬く間に瓦礫の山を一色へと染め上げた。
「髪結イ……ッ!? 随分ト上等ナ手品ヲッ!!!!」
広がり続ける髪の遥か後方で、方膝と左手を地面に落として着地した紅王鬼が忌々しげに吐き捨てる。
触れるもの全てを呑み込みながら留まることを知らない波の広がりを前にして、鬼が体制をそのままに右手を掲げた。 今や指全体が爪のようになったその硬質な凶器を眼光鋭く持ち上げ、構える。
仕損じることなど無いと言いたげな程に無防備で、ただただ振り下ろす瞬間だけを考えられた構え。 目を相手にだけ注ぎ、肌で気配を感じ、耳で風を読み、ただただ必殺の瞬間を脳裏に浮かべながら、彼は待つ。
二十……十五……十……
迫る白の平原など気にも留めず、全神経をククリヒメに――
「!?」
見えてしまった。
視界の端。 削ぎ落とした風景の一部を。
暗闇と、瓦礫と……そして、馬鹿みたいにへたり込んで死を待つ、哀れな生贄たちを。
「ア、の馬鹿共ガ――!!」
覚めていた意識が急速に鈍るのを感じながら、緋嵩が吼えた。
構えた腕を振り下ろし、地面に根付かせていた手足をあらん限りの力で弾かせる。
間に合うかなど考えない、ククリヒメの事さえも脳内から外して反射的に飛び出していた。
「ッ、ッ!!」
瓦礫を砕き地を削りながら、漆黒の弾丸と化した緋嵩の体が地面を奔る。
彼の行動を見るどころか、眼前に死が迫っていることさえ露程も理解できずに呆然と固まったまま視線を漂わす人間に、容赦なくククリヒメの髪は伸びてゆく。
三……二……一……
「が、アアあアああ――――!!!!!!」
咆哮、虚しく。
彼の体の僅か数十センチ先で那凪の顔にククリヒメの髪の毛が接し、
「――!!」
影が覆う。
「……え?」
その瞬間、彼女の口から出た音は、ひどく間の抜けたものだった。
だが、そうなっても仕方がない。 ククリヒメが出てきてからというもの、那凪達は皆一様に、無様な醜態を晒していたのだから。
理解ができない。 何も感じない。 何も見えない。
光景が現実ではなく、まるでどこか遠くの物語のように右から左へと滑り落ちていく。
現れた異形の圧倒的な存在感に意識の全てを砕き潰されて、物言わぬ石像のようにただただ呆然と風景の一部と化していた。
故に、頬に触れた生の感触という現実のピースを繋ぎ合わせるその時まで、彼女は眼前の光景を理解できなかった。
「が、あグ、ッ!!」
「ひっ!?」
喉奥が引き攣れて、甲高い音が漏れる。
目の前に広がる、場違いに美しくおぞましい糸の群れに。
そして、
「なぜ、まだ逃げテおらんのダ、この馬鹿共は……ッッ!」
自分の鼻先に触れたそれを引き裂いた代わりに、雁字搦めにされた化物に。
「がアッ!?」
ぎちり、と。 化物を絡め取っている糸が一層食い込んでいく度に、その口から悲鳴と血が吐き出されていく。
頬を打つ血の感触と、弱々しい愚痴の響き。
あまりにいつも通りで、でもあまりに現実離れし過ぎていて。 訪れた混乱はしかし、確かな思考として彼女達の脳を稼動させる。
「そ、総一っ!!」
「遅いわ……馬鹿者」
那凪の声を皮切りに、高原、御国、轟と、次々に意思の瞬きは伝達していった。
「緋、嵩?…………緋嵩!!? っくそ! 待ってろ、今!!」
「止めろッ!!!!」
豪腕を振り上げる轟に、鬼の口から絞るような静止が掛かる。
普段とは比較にならないその気迫が、瞬時に全員の背筋を振るわせて言葉の続きへと意識を向けさせた。
「触れるな。 これは、先刻の粗末な糸とは、比べ物にならん。 曲がりなりにも、神そのもの、直接触れても、取り込まれる、のが、関の山、だ」
苦笑交じりに彼が放った台詞は、外見とは程遠いほどに、緋嵩そのものだった。
だからだろうか。
彼の言葉は思った以上に、彼らの脳裏に抵抗無く、すんなりと染み込んでいった。
「じゃあ、どうするのよ?」
鬼は思った以上に緋嵩で、だからこそ冷静になって、那凪が問う。
「逃げろ」
彼女達の平静を是と受け取った鬼はそう言うと、凶悪な相貌のままだというのに、どこか穏やかさを匂わせる苦笑を浮かべていた。
「この場は、我が抑える。 何、一人ならまだ、なんとかなるだろう。 貴様らは玉響を使って、早々に出ろ。 ヤツ相手では、どうにもならん」
やはり、そうだ。
だから。
「「「「……」」」」
うなだれる四人。
彼女達に気づかれないよう、鬼が奥歯を噛み締めた。
少なくとも今だけは、全身を握り潰されていく苦痛など微塵も見せないように。 強く、強く。
那凪が震える拳を握り、轟が肩を震わせていた。
無限に広がり続ける白と、遠くで唸りを上げるものさえも忘れてしまったかのように。
軋む体を引き絞り、悲鳴と血反吐を呑み込んで笑みの形を貼り付けながら、
「行け、貴様らでは足手まと――」
「ふ、ざ、けんなああああああ!!!!!」
「なっ――!?」
鬼が、固まった。
那凪が吼える。 強く、それまでのふがいなさを一気に吐き出すかのように、胸中に渦巻く激情をなりふり構わずぶちまける。
こんな外見をしていても、彼は何も変わってはいなかった。 感じたのなら納得させるのは簡単だ。 鬼が鬼ではなく、あくまでも彼だと考えればいい。
だとするならば……緋嵩総一の言葉を素直に受け入れるなど、選択肢としてありえない。
「高原っ!! さなちゃんっ!!」
叫ぶような那凪の号令に合わせて、後ろで待ち構えていた二人が勢いよく前へと飛び出した。
「了解!!」
「わかってますっ!!」
「ちょ、こら貴様らっ――」
「うっさいのよ! 怪我人は黙って見てろ!!」
那凪の一喝を合図に、準備万端とばかりに御国の両手が閃かせると、緋嵩を絡め取っている毛髪を遮るように、彼の周りの空間に歪みが生じる。
しかし、所詮は人。 如何に優れた遮断能力を持ってしてもククリヒメには到底及びはしない。 値にすれば、それは僅かに緋嵩の負担を軽くする程度の補助にしかなっていないだろう。
轟く銃声。 絶え間なく、音が重なるような勢いで響き木霊する銃声銃声銃声銃声銃声銃声銃声――――
戸惑う緋嵩をよそに、御国が作り出した歪みに合わせるように銃弾の雨が降り注ぐ。
「「まだまだあああああ!!!!!」」
雄叫びじみた声と共に、今度は轟が両腕を振り上げ那凪が足を踏み出した。
まるで躊躇も見せず、灼熱と怒涛の乱舞が彼の両脇に炸裂する。
だというのに、彼を絡め取っている糸は微塵も揺らぎはしない。
「おおおおおおおおおお!!!!」
「ああああああああああ!!!!」
糸は動かない。
緋嵩に巻きついたそれらは微塵の揺らぎも見せず――訪れる全ての衝撃を、ダイレクトに受け続けている。
御国の遮断と、高原からのありったけの銃撃。
そう。 緋嵩以外の対象に絡む余力をなくす程度の、ほんの僅かな負担のために。
一本一本が意思を持つかのような正確な捕獲力と柔軟性を持つはずの糸は今、動かないのではなく、動けないのだ。
「く、ははっ」
小さく、しかし確かに。
痛みさえも忘れ呆けていた緋嵩がふっと顔を落とし、笑みを漏らした。
救われたように。 悟られないように……どこか、泣きそうな顔で。
「…………!!」
糸が軋む。
固められていた緋嵩の手足が、擦れるとも食い込むとも取れない駆動音を弾かせながら尚も体に糸を食い込ませていく。
終わらない。
「……っ、っっ!!」
歪みも。
「――――!!」
銃声も。
「おらおらおらおらああああ!!」
「こ、のおおおおおおおお!!」
打撃も。 ――――そして、抵抗も。
「オオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!!」
牙を剥き出して獣を連想させる裂帛の咆哮の中、至る所で限界を超えた衝撃が駆け巡った。
走る。
喉からは血が、外殻からは亀裂が、過剰な出力を求められた全身からは悲鳴が――――そして糸からは、繊維の千切れる鈍い音が。
「! やった!」
那凪の顔が綻ぶ。
最初は、少しずつ。 ほつれるように切れていった糸はしかし、すぐに束の裂ける連続音に変わった。
――きゃああああああああああああああああああ!?!?
自身の一部を力任せに剥ぎ取られていく痛みにククリヒメから絶叫が上がる。 始めこそ僅かだったそれは、今や止まりようの無い奔流となって容赦なく彼女を襲い続けていく。
痛み、苦しみ、否定、声、自分、敵。
彼女の脳内を、おびただしい情報の波が駆け巡っていった。
苦痛は死への恐怖へと変わり、そして。
生への執着は、再び彼女に感情と思考を取り戻させる。
――はぁ、はぁ、はぁ……おのれっ!!
まるで糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちたククリヒメが、呻くように歯の間から怨嗟を漏らした。
額に珠のような汗を浮かばせて未だ激痛の抜け切らない様子の彼女は僅かに顔を上げると、遥か前方を睨み付ける。
浮かんでいるのは、色濃い憔悴と、それ以上の殺意。
誰に向けているかは、言うまでも無い。
「フゥ……フゥ……フぅ……ッ!!」
全身をヒビ割らせ息を荒げながらも尚、両の足で立ち獲物を捉え牙を剥き出し続ける鬼の姿が、その瞳に映し出されていた。
彼女が意識を取り戻すのに合わせて、周りを埋め尽くしていたはずの白い絨毯は既に霧のように消滅していた。 しかし、だからといって緋嵩が優勢と言うわけでもない。
彼もまた、ククリヒメの髪結いに相当痛めつけられていたのだから。
体を覆う外殻はもはやいつ崩れてもおかしく無いほどのヒビに覆われ、力を失ったようにだらりと垂れ下げられた左腕に至っては既に使い物にならないだろう。
両者の間に、束の間の静寂が流れる。
構えていると言うにはどちらもあまりにお粗末な格好だというのに。
誰一人として、微動だにしなかった。 動くどころか息することさえも恐ろしく。
――――ろす
静かに、ククリヒメの唇が動いた。
ゆっくりと、だが、穏やかさとはまるで無縁の、黒く、重々しい響きを以って。
――殺してやる、貴様は、必ず、必ず、必ず、必ず!!
それは、まるで呪詛。
地の底から湧いてくるかのような怨嗟の声が、耳の奥で粘ついて脳裏に染みこんで離れない。
「「「「「!!」」」」」
緋嵩を含める五人が、一斉に身を強張らせた。
ククリヒメの言葉に合わせるかのように、空間の彼方此方からガラスの割れるような甲高い破砕音が木霊しだしたからだ。
至る所から響き渡る音とただならぬ雰囲気に、緋嵩の後ろから次々に動揺の声が上がる。
「……ちっ、その手があったか」
ただ一人。
絶えずククリヒメだけに焦点を合わせていた緋嵩だけが、苦笑交じりに舌打ちした。
――殺してやる、殺してやる、殺してやる
ぶつけられる言葉は止まず、殺意は微塵も揺らがない。
しかし、ククリヒメの姿だけが、ぼんやりと霞むように薄れていった。
たった数秒の出来事。
濃密な気配だけを残して、あれだけ目をぎらつかせていたククリヒメの姿は、もうどこにも、ありはしなかった。
暗闇と星空と人工の光が、まるで何事も無かったかのように夜の公園を彩りながら。
ゆらゆら、ゆらゆらと。
穏やかに光る。
「た、たすかっ……た?」
口火を切ったのは、御国。
僅かな光と虫達の声の中で、緊張と恐怖とそれ以外の感情のあらゆる糸が切れかかったような震え声が、場に落とされた。
返事は無い。
他の三人も似たような状態で、戸惑いと希望に縋るような表情のまま、ゆっくりと辺りを確認していたのだから。
「は、はは」
乾いた笑い声を残し、腰が抜けたとばかりに高原がべしゃりと地面に尻餅をつく。
「終わった……」
緊張と混乱と血生臭い惨劇の連続をようやく終えて、一気に四人の肩の力が抜けた。
まだ問題が解決したわけでも、実際には何が起こっていたのかもはっきりとは分かっていない。 だがそれでも。
今、生きている。
それだけで、もう十分だった。
「なんかもう、なんなのよほんと」
尋ねるというより、現在の状況そのものへの愚痴に近い台詞をこぼしながら、那凪が緩んだ苦笑を浮かべる。
各々生還の余韻に浸って腑抜けた顔をしている三人も、同じように苦笑で返した。
互いに互いの生還を喜びつつ、穏やかな時間が流れる。
「ま、とりあえず全員生きてて良かった、ってやつだ」
「同感だね」
地面にしゃがみこんだ轟と高原の会話を聞きながら、那凪がはたと何かに気づいた。
「あれ?」
ぐるぐると周りを見回すと、程なくしてそれは見つかった。
「ちょっと総一、何まだ一人でかっこつけてんのよ」
先刻から同じ位置、同じ格好で佇む人在らざる仲間を、那凪が軽口と共に軽くはたく。
「……え?」
何かが、彼女の頬を打つ。
それが何なのか判断する間もなく、目の前の仲間が、ぐらりと、揺れた。
受身をとろうとさえせずに、かつて比類なき力を誇った筈の化物が、実に無防備に、地面へと倒れ伏したのだった。
ピクリとも動かない足元の彼を見て、ようやく彼女は頬を伝うぬめった液体が何か気づく。
「い、」
自分達にとって見慣れていたはずの、何よりも紅い赤。
外殻が剥げ、いたるところから流れ出る、赤。
よく見れば自分の服も、足元も、倒れる瞬間に彼から噴き出たそれに染められていて――
「いやあああああああ! 総一――――っっ!!」
弾かれたように、彼女が叫ぶ。
「緋嵩!!」
「緋嵩さん!!」
へたり込んでいた面々も那凪の悲鳴と地面に横たわる緋嵩の姿に気付くと、急いで駆け寄って来た。
率直に言って、緋嵩はひどい有様だった。
全身からは出血が止まらず、こと左腕に至っては裂傷と捻られた跡でくっついているのが不思議なくらいである。
「どうしよう血が止まらないっっ!!」
本当なら衣服を裂いて布を作るなり出来そうなものだが、気を抜いていた最中に突然起こった出来事ゆえにそんなことさえも分からず、那凪はただ傷口を素手で押さえることしか出来なかった。
「轟、君ならっ」
「だめだ、範囲が広すぎる! それに俺の『纏い』は前にこれで防がれてるからな、やっても効くかどうか。 くそっ、」
「と、とりあえずお店まで運びましょう」
「それじゃあ間に合わない!」
「じゃあどうしたら……」
思った以上に深刻な状態に、後から駆けつけた三人もどうにも出来ずにうなだれる。
「総一っ、総一! 起きなさいよ、ねえ!! まだなんか隠してるんでしょ、こんな傷すぐに直せるんでしょ! 総一っ!!!!」
どれだけ呼びかけても、答えは返ってこない。
尚も広がり続ける血溜まりの中で、那凪の声だけが無情に響き渡る。
「っ!」
既に息をしているかどうかさえ分からないまま、それでも傷を押さえ続ける那凪を見て、御国が同じように緋嵩の傷口を押さえだした。
「こうしてても、何も始まらない。 轟」
「ああ」
高原が服を脱ぎ、轟は両手に力を込めて共に止血の準備に掛かる。
まだ、諦めるわけにはいかなかった。 少なくとも、たった一人でも諦めていない限り。
何もしないなど、ありえない。
「まったく、だから言ったのに。 本当、馬鹿なんだから」
その時だった。
後ろから、ひどく呆れたような女の声が響いて来たのは。
予期せぬ方向からいきなり落とされた声に、四人が反射的に顔を向ける。
「手、貸してあげましょうか?」
銀髪の女が、そこに居た。
ストック全て放出してしまいました、あはは。
次から新章なのですが…………次回は来年ですかね、これは(苦笑
デハでは皆様、よいお年を(^_^)/
(感想などいただけると、作者泣いて喜びます)