ニチジョウノサカイ ~in other side~ [2.2.2]
唐突にカウンターに第三者の影が落ち、この場にいるはずの無い人物の声が店内に響いたのだった。
「なっ!? あんた」
予期するどころか店内に入ったのすら気が付かなかった那凪が動揺の声を上げるが、当の本人はそんなことはお構いなしで、ひょいと箱に入っている品物を一つ摘みあげる。
「……やっぱり、土蜘蛛の牙か」
品物を蛍光灯に向け、光に透かすように眺めていた人物は、確信したような呟きを漏らす。
「ほお、一目でこれが何か分かるとは。 おまえさんも、これに惹かれた口かね?」
急に現れた他人に対して、こちらは特に驚いた様子も無く感心したような声音で話しかけたのだった。
見つめていた土蜘蛛の牙を箱に戻すと、老人の探るような視線を受けた人物、季節外れの黒いコートを羽織った緋嵩が、にやりと口の端を持ち上げる。
「まあな、それより爺さん。 ここいらの土は、箱を作るには痩せすぎてると思わないか?」
まるで世間話でもするかのようなタイミングで口にした言葉はしかし、何のことを言っているのかまるで分からない一言だった。
そばで聞いていた那凪でさえ、「は?」と頭に疑問符を浮かべている有様だ。
ただ一人。
老人だけが面食らったように一度だけ目を見開くと、急いで今までのような微笑の形を取り繕う。
「やれやれ、こいつは驚いた。 お前さん、何者じゃね?」
探るような鈍い光を目に宿したまま、形だけはこれまでと変わらない笑顔のままで、老人が尋ねた。
「ひい、ふう、みい……一本あたり約三十万か。 随分と安いんだな、こんなんで採算が取れるものなのか?」
投げかけられた問いに答えることも無く、無防備に電卓を覗き込んだ緋嵩が那凪の方へと顔を向ける。 金額に対する純粋な疑問か、それとも単に店主に対する凝った皮肉なのか、その表情はいつものような人を食ったものではなく不思議だと言いたげな悪意の無いもの。
老人との会話について行けないばかりか、突然話の矛先を向けられたこともあって、那凪が交渉の内容ををきょとんとした様子で正直に口走ってしまう。
「え……赤字だけど。 でも、その人が市場ならこの七割で手に入るって」
那凪が老人を指差したのを見て、緋嵩が特に勢いをつけるでもなく自然な動作で老人に振り返った。
「へえ、七割、ね」
彼女の言葉に何を得たのか、老人に向き直った彼の顔には悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。
笑顔を向けられた相手は緋嵩のほうを向いているものの、視線だけは彼を見ていない。
殆ど自分が視界に入っていないことを承知の上で笑みを濃くすると、彼はカウンターに腰掛け、箱の中にある牙を摘みだした。
老人の身体から、緊張を臭わす空気が漂う。
「まあ、あんたが何しようが俺には関係ないし、わざわざ首を突っ込む理由は無いんだがな」
一本。
「だがまあ、この店とは付き合いがあるし、義理が無くも無い」
二本。
「で、だ。 目は閉じればいいだけだが、耳と口を塞ぐには、塞ぐものが必要だよな?」
三本目を掌に収めたところで、何かを仄めかす様な仕草をしていた緋嵩の口調が一変し、その身体がカウンターから離れていく。
まるで話は終わりだとでも言うような緋嵩の行動に、強張っていた老人が先ほどの那凪のようにきょとんとした顔で緋嵩を見ると、
「ふ、はっはっは! 面白い奴よ。 お前さん、将棋は好きかね?」
途端、老人の顔に何かを理解したような色が現れ、その口からこれまでとは打って変わった愉快そうな声が上がったのだ。
那凪に対していたものとは明らかに違う。 人を食ったようなものでも、好々爺然としたものでもない声色と雰囲気だった。
言葉にすれば、気に入った、とでも形容したら適切かもしれない。
恐らくはこちらが、彼の本質なのだろう。 見かけよりも随分と活力に満ちた張りのある声で訪ねる老人に、彼に背を向ける形で歩いていた緋嵩が首から上だけを振り向かせる。
「悪いが花札の方が好みだ」
ひどく面倒そうに言った彼の顔には、笑顔など欠片も無い。 浮かんでいたのは、那凪達がよく知っている皮肉屋の顔だった。
「やはりか。 上の者達は派手好きだからなあ……お嬢ちゃん、支払いを頼むよ」
「え? あ、はい」
残念そうにふっと苦笑すると、老人は改めて手に持っていたカードを那凪に差し出した。
二人の化かし合いは愚か、会話の内容さえ殆ど理解できないまま完全に空気にのまれて呆然としていた那凪が、未だ思考の回り切らぬ様子でカードを受け取る。
とりあえずまとまった商談の決算だけを済ますことにしたようだが、その仕草はお世辞にも滑らかとは言えない。
「えっと。 この値段で、良いんですか?」
カウンターの電卓と商品を交互に見返しながら、彼女の口から疑問の声が漏れた。 当然と言うべきか、緋嵩が取り上げた三本分の事や値段を聞いた際のやりとりが引っ掛かっているらしい。
「構わんよ」
しかし、老人から発せられたのは、何の躊躇も説明も無い至極簡素な、了承のみを伝える言葉。
思わず那凪が、なんとも言えない微妙な表情を浮かべて戸惑いを露にした。
だが、本人が許可を出している以上追及の予知は無く、仕方なく専用の機械でカードを読み取った今この時点で、那凪の気持ちなどお構いなしに売買は終了となるのだ。
会話に参加できなかったとか、何がしかのやりとりがあったとか、そんなものは値段に関係していないし、そもそも買い手が良いと言っているのだからどうしようもない。
老人の方もご丁寧に説明する気は無いらしく、返されたカードを受け取って箱の中から五本の牙を懐に入れると、迷うことなくカウンターに背を向けて出口へと歩き出してしまった。
始終ペースを乱されっぱなしだった那凪だったが、結局最後の最後まで調子を取り戻すことは叶わなかったようだ。
「あ、ありがとうございました……」
気の抜けた声で老人を送り出すと、何をするでもなくぼうっとした様子で立ち尽くす那凪だったが、不意に隣から声が掛けられた。
「おい」
「え?」
大して考えもせず、殆ど反射のように返事をして那凪が振り向く。
と、
「あいたっ」
ぱしん、と軽快な音を立てて、那凪の顔面に何かがぶつかった。
「間抜け」
顔面に衝突した物体の重量を眉間に感じたまま、那凪が何事かと目を開ける。
すると、何やら肌色のもので分断された視界の中に、呆れたような目で自分を見下ろす緋嵩の姿が。
彼の体制を見てすぐに、視界の真ん中に映っているのが目の前の男の手刀なのだと彼女の脳が理解する。 同時に、大して力のこもっていない衝撃は、痛みよりもこれまで曇りきっていた彼女の思考に鮮明さを取り戻させたようだ。