ニチジョウノサカイ ~in other side~ [2.2.1]
さて、日常部分がもうちょっとだけ続きます。
というか、この章で日常は最後のような?(ばとるはモウスグだ~
翌日。
太陽が一日で一番高く昇りきる、その少し前。
「ええい! だったらこれで、どうだっ!!」
呆れるほど晴天の中で、呆れるほど活気のついた声が鳴り響いた。
その発生源を辿ってみると、今時の街にはそぐわない概観の建物が一つ。
『那凪骨董点』と書かれた看板を掲げるその場所の、吹き抜けになった店の入り口の直線上にあるカウンターに、声の主は居た。
半そでに短パンといったラフな衣装の上から、店の名前が入ったエプロンだけを着けるというスタイル。 叫ぶと同時に頭上に掲げた右腕を勢いよく振り下ろしたその人物は、この店の店長を務める那凪涼香その人である。
だんっ、という盛大で硬質な効果音と共に木製のカウンターに叩きつけられたのは、年代物の電子式卓上計算機。
一般に電卓と呼ばれているそれの電子盤には今、平均的な中流家庭の年収に匹敵する金額が表示されていた。
「ほっほ。 お譲ちゃん、無茶を言ったらいけないよ」
金額に目を落としながら穏やかに口を開いたのは、くたびれた灰色の帽子によれたロングコートという出で立ちの老人だ。
だが、決してみすぼらしいと言う訳ではない。 白髪に片眼鏡、適度に曲がった背中に洒落た漆黒のステッキという組み合わせが絶妙に衣装と絡み合い、どこか知的な雰囲気を色濃く醸し出していた。
老人は電卓をひょいとつまみ上げると、手早く内容を書き換えて那凪のほうへと向けて差し出す。
「これらの品物ならば、これくらいが相場じゃろうて」
映し出された内容は、先の数字の三割減。
「なっ……」
既に大分値引きしているにも関わらず、尚も削られた数値を見て、那凪が目を見開いて硬直する。
「いやなら良いんじゃよ。 この値段なら他の店でも十分買い揃えることが出来るからのう」
那凪の様子に追い討ちを掛けるようにそう言った老人が、かっかっかと陽気に笑った。
状況が状況だけに、なんとも意地悪く見える光景が広がる中、店の奥から荷物を抱えた轟が姿を現す。
ここでようやく那凪に援護が入るかと思いきや、そういう訳でもないらしい。 彼は那凪と老人の様子を見るや否や、くすりと苦笑しただけで、何も言わずに商品を持ったまま那凪の脇をすり抜けて陳列棚へと去って行ってしまったではないか。
その反応を見るに、どうやらこの光景はそう珍しいものでもないようだった。
一方那凪はと言うと、轟が通り過ぎたことにさえ気付かず、じぃっと電卓を睨みつけているばかり。
どうやら値段交渉に集中しすぎているようで、周りが眼中に入っていないらしい。
熱くなりすぎては交渉事が上手くいくはずは無いのだが、短絡的な彼女のことだ。 毎回毎回、目の前の難敵に翻弄されるがまま、頭に血を上らされてしまうのだろう。
那凪はしばらく電子盤の数字を見つめていたが、突然それをもぎ取るようにして勢いよく手中に収めると、機械を壊すのではないかという激しさと共に数字を打ち込み始める。
「じゃ、じゃあ、これでっ! これ以上は無理! ぜったい無理!!」
もはや白旗確定の切羽詰った叫びと共に、那凪が半ばカウンターに乗り出した格好で老人に電卓を突きつけた。
示されている数字は、やはり老人の打った値段よりは大きいものの、元の値段の半額以下。
小刻みに腕を振るわせ、鼻息荒く老人を見る彼女の様子は、怯えながらもこれ以上引けないという決意じみたものがよく見える。
もはや利益などまるで無く原価ぎりぎりの値段なのは、彼女の様子をみれば一目瞭然だった。 最大の譲歩をして老人に値段を見せた那凪の方は、さぞ内心で心底歯噛みしていることだろう。
対して、彼女から原価での取引を勝ち取るのに成功したであろう老人は大層満足そうににっこりと笑うと、
「ほっほ、ここをこうして、とな」
那凪の手にある電卓を、ぽちぽちと指で弄った。
「…………」
「…………」
まさか、と目の前の現実を疑うような表情で老人を凝視する那凪に、彼はただ微笑んで彼女が電卓の数字を確認するのを促す。
急かすでも、声を掛けるでも無く、ただただ笑顔を保っているその余裕が、かえって彼女の不安を掻き立てる。
「……ぅ」
どれだけそうしていただろうか。 暫しの沈黙の後、那凪は不意にぎゅっと両目を瞑って電卓を自身の眼前に持ってくると、恐る恐る目を開けた。
「ちょっ!? 無茶言わないでよ! これじゃあ利益どころか赤字じゃない!!」
案の定、というか何と言うか。
不吉な予感を裏切ることなく、しっかりと下げられた値段を目にするや、那凪が吼える。
だが、それさえもしっかりと老人の掌の上。 彼は穏やかな笑みを崩さぬまま、しかし確実に相手を完膚なきまでに打ちのめす言葉を口にしたのだ。
「それはお譲ちゃんの買い方が悪いんじゃろうて。 市場価格ならこの七割ほどの値段で手に入るはずじゃよ。 ほっほ、ぼったくられたの」
愕然と、突きつけられた情報に打ちひしがれ呆然とする那凪を見つめながら、老人はゆっくりと視線を下ろし、ステッキを撫でながら囁いた。
「さて、どうするかね? このまま無駄に高い品物を売れ残らせるか、多少損がでても私に売って綺麗にするか。 好きな方を選ぶといい」
実際、今二人が商談している商品は、決して売れ行きがいいものとは言えない。 このままいけば、確かに売れ残りとなる可能性のある物だったのだ。
目に見える不吉な未来に、老人の卓越した話術とが絡み合い、巧みな戦術となって那凪を襲う。
果たしてそれは悪魔の囁きの如く、どうしようもない諦観の波を彼女の思考へと巻き起こした。
「あ、う……」
当然のように発せられた老人の台詞に言い訳さえも思い浮かばず、那凪はただ乱れる思考のまま妙な呻きを漏らすのみ。
どれだけそうしていただろうか。
困ったように、迷うようにくしゃくしゃと顔を歪めていた那凪が、唐突にかくんと首を落とした。
がっくりと垂れ下がった肩に、力が抜けたようにだらりと下げられる両腕。 なんともわびしい雰囲気を全身からこれでもかという程に漂わせながら、
「はぁ、毎度ありがとうございます……」
しょぼくれた声でそう呟いたのだった。
また、言い終わると同時にカウンターの下から掌大の小さな箱を取り出して、老人の目の前に差し出す。
全てが木で出来たその簡素な外観は新品と呼ぶには程遠く、作られてからゆうに数十年は経っていそうな風格と古めかしさを伴っていた。
骨董店に相応しいと言えるそれは現在ふたが閉じられておらず、中には衝撃吸収用の綿がこれでもかと詰められている。
だが、何と言っても目が引かれるのは、箱の中心部に敷かれた黒い布の上にある品物だろう。
乳白色の、艶やかな光沢を放つ流線型。
七センチほどの長さを持つそれは、側面では緩やかで歪み一つ無いカーブを描いている。 両方の先端が多少鋭すぎるような気がするものの、色や質感と相まって、それはまるで美術品のようであった。
それが、八本。
「おお、これこれ。 何度見てもいいものじゃなあ」
品物を見つめながら両のまなじりを下げて、感極まったかのように言葉を漏らした老人は、ふっと思い出したように那凪の顔まで視線を上げると、
「まあ、ずいぶんと値は張ったがの」
小憎らしい台詞と共に、懐から財布を出して見せたのだった。
あからさまな老人の皮肉に、ぴきっと彼女の額に血管が浮かんだのは、まあご愛嬌というところだろう。
内心では、目の前の老人に一通りの拷問めいた関節技でも極めているに違いない。
しかし、現実では怒りに手を震わせながら、老人が財布から取り出したカードに手を差し出すばかり。
那凪の指が、触れるか触れないかといった時、
「へえ、ずいぶん安いんだな」