ツカノマノクビキ ~a slight contract~ [2.1.2]
目の前の景色と記憶との間に、どうやら齟齬が生じたらしい。
僅かに視線を上に向けると、「ああ」と納得したような声を漏らして、緋嵩は目線を下ろす。
鈍った思考ゆえに若干反応は遅れたが、数秒の後、原因である目の前の少女に彼の意識が向けられた。
位置的に見ても、偶然居合わせたというよりはこの店に用があると考えるほうが自然である。
まあ、そこで話し掛けるか否かは、本人の意思次第なのだが。
緋嵩には彼女のような知り合いが居た覚えはなかったし、無理して知り合う気もさらさら無かった。
どうにも眠気が限界に来ていた彼にとって、見ず知らずの人間に話し掛けることは荷が重かったらしい。 無視しても店には店長がいるだろうという考えも手伝って、ごく自然に彼女の横をスルーして帰路に付いた。 否、付こうとした。
「あの、す、すみません」
失敗。
ここ数日間面倒ごとに巻き込まれた彼としては、当分の間は当たり障りもない怠惰で規則的な毎日を過ごしたかったのだが、得てして不運は重なるものらしい。
流石に話しかけられながら無視するほど薄情な人間でもなかったので、緋嵩はしっかりと呼ばれた方へと振り向いた。
勿論、振り向く前に溜め息の一吐きは忘れなかったが。
「何か? この店の店長なら、今はレジに入ってますよ」
「あ、お、お店に用があったんじゃなくて」
やや狼狽えた様子で否定する少女の身振りは、まるで小動物のような雰囲気を醸し出していた。
「その、えっと、わ、私は御国早苗と言います、初めまして」
ぺこりと頭を下げた御国に、緋嵩の顔が変なものを見るような目に変わる。 突然話しかけてきて勝手に自己紹介を始められては、まず無理もない反応だが。
白い目で見つめられる本人はと言うと、比較的すぐに頭を上げて今は不安そうにこちらの様子を遠慮なしで伺っている最中だ。
若干の沈黙が訪れる。
その間中、居心地悪そうにそわそわしている御国を見て、緋嵩の口からまた溜め息が一つ。
「緋嵩総一だ。 ハジメマシテ」
本名を名乗るべきかどうか一瞬迷った緋嵩だったが、特に名乗ることへのデメリットも思い浮かばなかったので素直に名乗ることにしたようだ。 機械的な白々しい社交辞令も一緒に。
緋嵩の自己紹介に喜色満面とは言わずとも、それなりの安堵を見せつつ御国が笑った。
「はい、緋嵩さんですね。 よ、よろしくお願いします」
気弱そうな固い笑顔と共に発せられた彼女の言葉に、見ていた緋嵩の眉が上がり眉間に若干の皺を作る。 彼の怪訝な表情を気に留める様子もなく、御国が右手を緋嵩に向かって差し出した。
まるで握手を求めるような彼女の仕草に、要領を得ない緋嵩が片手を上げてその行動を制する。
「待った。 話の意図が読めない。 とりあえず、何であんたがここに居るのかだけでも教えてくれ」
訳が分からないとその身振りからも主張した緋嵩を見て御国は一瞬きょとんとした表情になると、すぐにどうしようかと言った動揺の心情を前面に押し出した。 簡単に言えば、視線をうろうろと彷徨わせ何か話そうとしては止めると言う、なんともコメントのし辛い行動を緋嵩に向けてやって見せたのだ。 それもこちらが苛めているかのような困り顔で。
扱い難い、と言うかどうにもペースを乱されてしまう御国の行動に、緋嵩は悟られない程度に肩を落とす。
「……それで?」
心なしか疲れたような声色で先を促す緋嵩。
「ああああの! えっと……緋嵩さん、これから時間ありますか?」
促されたことでようやく決心が付いたのか、御国の口から大きめの呼びかけが飛び出した、のだが。 最初こそ大きかったその声量は後半になるに連れて落ちるに落ち、最終的に目的を口にしたときには、かなりささやかなものになってしまっていた。
無理も無い。 内容というのが、初対面の人間にいきなり付き合えというのだから。
まして、見かけからして人見知りと言うか、気の弱さが前面に押し出されている彼女ならなおさらだ。 むしろ、よく言えたと賛辞を述べてやるべきだろう。
正直に言えばすぐさま帰ってベッドに直行したい緋嵩だったが、言ってもこれまでの態度から考えるに彼女の場合簡単に逃がしてくれるとは到底思えなかった。 どうせ駄目だといっても、ぐずり、ねだりで時間をとらされた挙句付き合わされる事になるのは目に見えている。
本人にそうしている自覚は無いのだろうが、いじめっ子の気分を味合わされると言うのは存外に後味悪く、結局はその場に残ってしまうものなのだ。
「…………」
なんでこう厄介ごとばかり、と言いたげな表情で緋嵩は手に持っていた缶コーヒーを開け、中身を一気に胃に流し込んだ。
「あの、緋嵩さん?」
突然自棄になったような緋嵩の様子に、訳が分からず御国が困り顔で尋ね掛ける。
「……ふぅ。 それで、何処に付き合えば良いんだ?」
お世辞にも美味しいとは言えないコーヒーの持つ過剰な甘さで半分寝ていた脳を無理やり覚醒させると、ゴミ箱に缶を投げ捨てて緋嵩がそう返した。
途端、御国の表情が困惑したものから一転して、少々驚いたようなものへと変わる。
「来て、くれるんですか?」
「ああ」
御国本人もこんなにあっさり事が運ぶとは思っていなかったようで、改めて確認をとってみたが、どうやら彼女の聞き間違いではなかったようだ。 短く了承の意を再び返した緋嵩が、おもむろに両手を上着のポケットに入れた。
彼の同行が確実なものになると、ようやく彼女の顔に安堵のようなものが見え、初めて笑みと呼べるものがそこに浮かぶ。
「それじゃあ、行きましょうか」
そう口にして歩き出した御国。 何処に行くといった説明も無くいきなり歩き出してしまった彼女を追うようにして、緋嵩も足を踏み出した。