第九十九話:秘密の会話と希望の種
山本嘉位の帰国。しかし、その傍らには婚約者らしき女性と、妹の山本楓がいた。蓬田香織は、混乱と悲しみの中で、彼の「少しだけ話せないか?」という言葉に、どう答えればいいのか分からずにいた。
八重は、香織の傍に立っていた。八重は、事態の大きさに気づき、香織のことを見守ってくれている。
「お兄様、早く参りましょう?」楓が、香織に冷たい視線を向けながら、「かい」に促す。
「かい」は、楓の言葉に、少しだけ苛立ちを感じているようだった。しかし、彼は、香織の手を握ったまま、楓に言った。
「楓。蓬田さんと、少しだけ話したいことがあるんだ」
「あら、何を? お兄様には、もうすぐお約束の方がいらっしゃるのに?」楓は、意図的に「お約束の方」という言葉を強調した。
その言葉に、香織の心臓が締め付けられる。彼の隣にいる、美しい女性。彼女が、彼の婚約者。
「かい」は、楓の挑発的な態度に、顔を曇らせた。そして、香織の顔を見た。香織の心の中に、不安と悲しみが広がっているのが分かるのだろう。
「蓬田さん…お願いだ…」彼の声は、切実だった。
香織は、少し迷ってから、小さく頷いた。婚約者や楓がいる前で、彼と話すのは、辛い。しかし、彼が、こんな状況でも、香織と話したいと言ってくれている。その気持ちに応えたいと思った。
「ありがとうございますわ、お兄様。どうぞ、ごゆっくり?」楓は、皮肉たっぷりに微笑んだ。そして、婚約者らしき女性に目配せをする。女性は、無表情のまま、ただ二人を見守っている。
「かい」は、香織の手を握ったまま、車の傍から少し離れた場所に移動した。人目につかない、しかし、完全に隠れることはできない場所。
「ごめんね、蓬田さん。こんな状況で…でも、どうしても、君と話したかったんだ」
「かい」の声は、苦しみに満ちていた。
「あの…山本君…婚約者の方…ですか…?」香織は、恐る恐る尋ねた。
「かい」は、香織の言葉に、深くため息をついた。そして、香織の手を握りしめた。
「……彼女は……」
彼の言葉に、香織の心臓が冷たくなった。やはり、本当だったのだ。彼は、婚約者がいる。
「ごめん…隠していたわけじゃないんだ…ただ…どうやって話せばいいのか…分からなくて…」
「かい」は、婚約者のこと、そして、それが彼の家の事情に関わる、政略結婚のようなものであることを、改めて香織に話した。海外行きが、そのためのものだったこと。
「僕は…この結婚を、自分で止められる立場じゃないんだ。僕の家の存続のために…引き受けなければならないことなんだ」
「かい」の声は、苦しさに満ちていた。彼は、御曹司という立場から逃れることができない。
「だから…蓬田さんに、このことを知られたら、きっと離れていってしまうだろうと思って…怖くて、話せなかったんだ」
「かい」は、香織の顔を見つめ、涙声で言った。彼の苦しみは、香織にも伝わってくる。彼は、御曹司という檻の中で、もがき苦しんでいる。
「でも…僕は…蓬田さんのことが、大好きだ。婚約者がいるとか、そんなこと関係なく…君と一緒にいたいんだ」
「かい」は、香織の手を強く握りしめた。彼の温かい手に、香織の心は温かくなる。
「この結婚は…僕の意志じゃない。だから…もしよかったら…蓬田さん…僕と一緒に、この困難を乗り越えてくれないか? 婚約者がいるという事実を、一緒に乗り越えて…」
それは、以前公園でも聞いた言葉だ。しかし、この状況で、婚約者がすぐ傍にいる状況で、彼は再び香織にそう言ってくれた。
香織は、混乱していた。彼の言葉を信じたい。彼の苦しみも理解できる。しかし、婚約者がいるという事実。それは、あまりにも重すぎた。
「…山本君…あの…海外で…どうだったんですか…?」香織は、話題を変えるように尋ねた。
「かい」は、香織の言葉に、少しだけ驚いたような表情になった。そして、優しく微笑んだ。
「海外…色々あったよ…でも…君のことを…いつも思ってた…」
そして、「かい」は、海外で経験したこと、そして、そこで感じたことについて、香織に話し始めた。特に、日本酒や焼酎が、海外でどれほど愛されているのか。そして、それが、どれほど素晴らしい文化なのか。
「海外では、日本の食文化が、すごく注目されてるんだ。特に、日本酒や焼酎は、繊細な味わいとか、製造過程のこだわりとかが、高く評価されてる」
「かい」の声は、日本酒や焼酎について話す時、どこか生き生きとしていた。彼の、御曹司としての顔とは違う、彼の情熱を感じさせる。
「蓬田さんの家…酒造メーカーだって、聞いたんだ。すごく興味があって…」
彼の言葉に、香織は驚いた。「かい」が、自分の家のことを知っている。そして、興味を持ってくれている。
「海外で、日本の酒造りについて、もっと知りたいと思ったんだ。そして、蓬田さんの家の…酒造り…もしよかったら…見学させてもらえないかな…?」
彼の言葉に、香織の心臓がドクンと跳ねた。彼の、真剣な眼差し。それは、単なる興味だけではない。何か、深い意味があるのだろうか。
この提案は、もしかしたら、この困難な状況を乗り越えるための、希望の種になるのかもしれない。




