第八十七話:彼のいない秋
山本嘉位が秋に海外へ行ってしまったという報せを受け、蓬田香織の心は深い悲しみに沈んだ。夏の海辺への約束は叶わず、彼との短いけれど濃密な時間は、遠い思い出となってしまった。
夏休みが終わり、学校が始まった。しかし、香織の世界は、彼がいなくなったことで、色褪せてしまったかのようだった。彼の席は、空席のままだった。彼の姿を学校で見かけることは、もうないのかもしれない。
教室の空気は、以前よりも重く感じられた。クラスメイトたちは、香織と「かい」の間に何かあったことを知っている。そして、彼が学校に来なくなったことと、何か関係があると思っているのかもしれない。好奇心と、そして香織に対する同情や、あるいは冷たい視線。すべてが、香織に突き刺さる。
八重は、香織のことをいつも以上に気にかけてくれた。放課後、八重は香織と一緒にカフェに行ったり、買い物をしたりして、香織を励まそうとしてくれた。
「かおり…大丈夫? 無理しないでね」八重が優しく声をかける。
「うん…ありがとう、八重…」
八重の優しさに、香織の心は救われる。八重が傍にいてくれるだけで、どんな困難も乗り越えられるような気がした。
学校では、桜井さんや佐伯麗華からの嫌がらせは、目に見える形ではなかった。しかし、香織は、彼女たちの冷たい視線や、時折聞こえてくる意味深なひそひそ話に、常に不安を感じていた。彼女たちは、彼が海外に行ったことを知っているのだろうか。そして、二人の関係が終わったと思っているのだろうか。
特に、佐伯さんは、「かい」が学校に来なくなった後、どこか得意げな表情をしているように香織には見えた。それは、香織の被害妄想なのだろうか。それとも、彼女は、彼が海外に行ったこと、そして、二人の関係が終わったことを喜んでいるのだろうか。
秋になり、街の景色も変わってきた。夏の賑やかさは去り、どこか寂しい雰囲気がある。香織は、秋風を感じながら、彼のことを思う。今頃、彼は、遠い異国の地で、どうしているのだろうか。婚約者と一緒に。
香織は、手に握りしめたキーホルダーをそっと触った。小さなスマートフォンの形。そして、四つの「i」。彼の声が録音された、あの特別なアイテム。これは、彼との繋がりを示す、大切なものだ。
毎日、香織はスマートフォンの電源をこまめに入れ、彼からの連絡を待った。千佳からのメッセージだろうか。それとも、彼が、どうにかして連絡手段を見つけ、直接連絡してきてくれるのだろうか。しかし、彼からの連絡は、一向に来なかった。
不安は募るばかりだ。彼は、本当に海外に行ってしまったのだろうか。婚約者と一緒に。そして、しばらく日本には戻らない。
香織は、彼の声が録音されたキーホルダーを手に、彼の声を聞いてみた。彼の苦しそうな声、そして、必ずまた戻ると言ってくれた言葉。それは、香織の心に、消えない希望の灯火を灯していた。
彼のいない秋。それは、香織にとって、寂しくて、そして不安な季節だった。しかし、香織は、彼が必ずまた連絡してくれると信じている。そして、いつか、彼と再び会える日が来ることを願っている。
波乱は、まだ終わっていない。そして、二人の愛は、距離という新たな壁に立ち向かうことになるだろう。




