第八十一話:夏の嵐と別れの予感
夏の海辺への旅行まで、あと数日となった。蓬田香織の心臓は、期待と、そして少しの緊張でドキドキと鳴っていた。山本嘉位と二人きりで過ごす時間。それは、香織にとって、人生で初めての、そして特別な体験になるだろう。そして、それは、二人の愛が、新しい段階へと進む、大きな一歩になるのかもしれない。
しかし、そんな香織の期待とは裏腹に、彼の家の事情が、彼に重くのしかかっているのが、香織にも感じられるようになった。学校で、「かい」が深刻な顔で誰かと電話しているのを偶然見かけたり、彼が時折見せる苦しそうな表情に、香織の心は締め付けられる。婚約者のこと。それは、彼にとって、解決しなければならない、大きな問題なのだろう。
ある日の放課後、香織は裏門で「かい」に会った。夏の海辺への旅行について、最終確認をするためだ。
「蓬田さん、旅行の準備、できた?」と「かい」は優しく微笑んだ。
「はい、大丈夫です…」
しかし、「かい」の顔には、どこか影があるように見えた。いつもの明るい笑顔に、少しだけ曇りがかかったような。
「あの…山本君…何かあったんですか…?」香織は、心配になり、「かい」に尋ねた。
「かい」は、香織の言葉に、一瞬だけ戸惑ったような表情になった。そして、深くため息をついた。
「ごめんね、蓬田さん。少し…家のことで、バタバタしてるんだ…」
彼の言葉は歯切れが悪かったが、香織は、彼が抱えている問題が、彼にとって大きな負担になっていることを感じ取った。
「あの…もし、夏の海辺…難しくなったなら…」香織は、恐る恐る言った。彼に迷惑をかけたくなかった。そして、彼の負担になりたくなかった。
「かい」は、香織の言葉を聞いて、慌てたような表情になった。そして、香織の手を強く握りしめた。
「大丈夫だよ、蓬田さん! 絶対に行くから! どんなことがあっても、蓬田さんと、あの海辺に行く!」
彼の言葉は、力強く、そして香織を安心させるものだった。しかし、彼の瞳の奥に、何かを隠しているような光が宿っているように香織には見えた。
その日の夜、香織のスマートフォンに、「かい」から電話がかかってきた。夜遅くに、彼から電話がかかってくるのは珍しい。
「もしもし?」香織は緊張しながら電話に出た。
「もしもし、蓬田さん? 夜遅くに、ごめんね」
「かい」の声は、どこか疲れているように聞こえた。
「あのね、蓬田さん。どうしても、君に話しておきたいことがあって…」
「かい」の声は、真剣な響きを帯びていた。香織の心臓がドクドクと鳴り始める。何か、重要な話なのだろうか。
「実は…夏の海辺のことなんだけど…」
「かい」がそう言いかけたその時、電話の向こうから、男性の声が聞こえた。大きな声で、「嘉位! 一体何を話しているんだ!?」と怒鳴っている。
「あ…父さん…! ごめん…」と「かい」は慌てた様子だった。
「誰と話している! すぐに電話を切るんだ!」
彼の父親の声だろうか。厳しくて、そして「かい」を叱責している声だ。
「ごめん、蓬田さん! また後で…!」
「かい」は、そう言って、一方的に電話を切った。
香織は、スマートフォンを握りしめたまま、呆然としていた。彼の父親の声。そして、「嘉位! 一体何を話しているんだ!?」という言葉。それは、彼の父親が、香織との関係に気づいている、あるいは、何か疑っているということを示唆しているのだろうか。
不安と恐怖が、香織の心を支配する。夏の海辺への旅行。それは、彼と二人きりで、彼の世界から離れて過ごす、特別な時間になるはずだった。しかし、彼の家族が、二人の関係に気づき始めたのかもしれない。
夏の嵐は、すぐそこまで来ている。そして、それは、夏の海辺への道のりを、困難なものにする予感。二人の愛は、この波乱を乗り越えられるのだろうか。夏の海辺での、特別な時間は、本当に訪れるのだろうか。
別れの予感。それは、夏の期待とは裏腹に、香織の心に重くのしかかっていた。
(つづく)




