第八話:入学三日目 屋上
<どうして、わたし、ここに居るの、一人で、たった一人で…>
身体測定が終わり、午後の授業も滞りなく終了した。蓬田香織は、体操服から制服に着替え、どっと疲れを感じていた。身体測定の憂鬱さ、そして午前中に「かい」の妹である楓と会ったことによる精神的な疲労が、香織の肩に重くのしかかっていた。楓の「かい」に対する独占欲と、自分に向けられた挑戦的な視線が、香織の心をざわつかせる。
「かおり、今日どうする? まっすぐ帰る?」八重が香織に声をかける。
「うーん、そうしようかな…」香織は曖昧に答えた。
教室を出て、昇降口へ向かう。生徒たちの賑やかな声が校舎に響き渡る。外はまだ明るく、春の夕方の柔らかな日差しが差し込んでいる。校庭では、運動部の生徒たちが練習に励んでいる姿が見える。
靴を履き替えながら、香織はふと「かい」のことを考えた。彼から連絡が来るのだろうか。食事の誘いを受けてしまったけれど、本当に彼と二人きりで出かけるなんて、想像もつかない。それに、今朝の楓の様子を思うと、彼と親密になることへの不安が募る。
「あれ? かおり、もしかして待ってるの?」八重が香織の様子を見て尋ねる。
「え? な、なんで?」香織は慌てて八重から視線を外す。
「だって、いつもならさっさと帰るのに、なんかソワソワしてるっていうか…誰か待ってる顔してるよ?」
「そんなことないよ!」
八重の鋭さに、香織は内心で焦る。彼女には、何もかもお見通しな気がしてしまう。
その時、昇降口にひときわ目を引く人物が現れた。山本嘉位だ。彼は数人の男子生徒と話しながら、こちらに向かって歩いてくる。香織は思わず身を固くした。八重も「お、山本嘉位じゃん」と面白そうに呟く。
「かい」は香織と八重に気づくと、軽く手を上げて近づいてきた。
「八重さん、蓬田さん。お疲れ様」
「うっす、お疲れ!」八重はいつもの調子で答える。
「かい」は香織に向き直り、少し困ったような、それでいて期待するような表情を浮かべた。「あの、昨日言ってたことなんだけど…」
香織の心臓がドキリと跳ねる。まさか、ここで具体的な話をされるなんて。「…はい」と小さく答えるのが精一杯だった。
「今日、時間あるかな? ちょっと、お話したいことがあって…」
唐突な誘いに、香織はまたしても言葉に詰まる。今日の放課後。心の準備が全くできていない。それに、八重も隣にいる。
八重は香織の様子を見て、ニヤニヤしながら「あー、ごめん! 俺、今日バスケ部の顧問に呼び出し食らってるんだわ! じゃ、かおり、また明日なー!」とまたしても絶妙なタイミングで香織の背中を押すと、颯爽と立ち去っていった。
「八重…!」香織は八重の背中に向かって小さく叫んだが、もう遅い。八重は振り返ることもなく、体育館の方へ走っていってしまった。
「…ごめん、なんか八重さんに気を使わせちゃったみたいだね」と「かい」が申し訳なさそうに言う。
「い、いえ…」
「それで、どうかな? もし大丈夫だったらなんだけど…」
真っ直ぐな瞳で見つめられ、香織はもう断れなかった。それに、少しだけ、彼が話したいこととは何なのか、気になってしまった。
「…わかりました」香織は小さな声で頷いた。
「ほんと!? ありがとう!」と「かい」は嬉しそうに顔を輝かせた。その笑顔は、まるで春の夕陽のように眩しかった。
「じゃあ、どこか静かな場所で話そうか。校内のどこかでもいいし、それとも、ちょっと寄り道する?」
「…えっと、校内の…どこかで…」香織は周りの視線を気にしながら、校内で済ませたいと思った。
「わかった。じゃあ、屋上に行こうか。あそこなら人も少ないし、ゆっくり話せると思う」
屋上。香織は少し戸惑ったが、「かい」の提案に頷いた。二人で昇降口を出て、人気のない非常階段を上っていく。階段を上るにつれて、外の景色が広がっていく。春の風が、香織のスカートを揺らす。
屋上に出ると、春の終わりの風が心地よく吹き抜けていった。夕陽が校舎や街並みをオレンジ色に染めている。屋上には誰もいなかった。
「ここなら静かでしょ? 景色もいいし」と「かい」が香織に微笑みかけた。
香織は周りの景色を見る余裕もなく、ドキドキしていた。彼が話したいこととは、一体何なのだろうか。告白されるのだろうか。それとも、昨日のことについて改めて謝りたいだけなのだろうか。
「…あの、話って…?」香織は意を決して尋ねた。
「かい」は少し真剣な表情になり、香織に向き直った。彼の瞳が、夕陽の色を映してキラキラと輝いている。
「蓬田さん。僕は、入学式で君に会った時、衝撃を受けたんだ」
その言葉に、香織の心臓が大きく跳ねた。衝撃。それは、香織が彼にぶつかり、胸を掴まれた時の、香織自身が感じた言葉と同じだった。
「今まで、たくさんの女の子と知り合ってきたけど、君みたいに、僕の心を強く揺さぶる人は初めてだった」
「かい」の言葉に、香織は混乱した。何を言われているのか、理解が追いつかない。
「だから、もう少し君のことを知りたいと思ったんだ。もしよかったら、僕と…」
続きの言葉を待つ香織の耳に、屋上の扉が開く音が聞こえた。
学園スターからの、告白であるのかと、少しは、ほんの少しは期待を、間違って抱いた香織であった。
心を揺さぶる存在、この言葉の意味をお互いが、知るのは、まだまだ、先の話であった。