第七話:入学三日目・・・楓という妹
入学三日目の朝。蓬田香織は、いつもより念入りに身支度をした。制服にシワがないか確認し、髪を整え、ほんの少しだけ色つきリップクリームを塗った。昨日、「かい」と食事に行くことを約束してしまったからだ。まだ具体的な日時や場所は決まっていないが、彼と二人きりで会うという事実に、香織の心はそわそわしていた。
通学路を歩いていると、昨日と同じ場所で「かい」が待っていた。今日は一人ではない。彼の横には、見たことのない美少女が立っている。背が低く、小動物のような愛らしさを持つ少女だが、どこか掴みどころのない雰囲気も纏っている。そして、その少女は「かい」にぴったりと寄り添い、彼の腕に自分の腕を絡ませている。
(だ、誰だろう…?)
香織は戸惑いながらも、「かい」に近づいていく。
「おはよう、蓬田さん!」と「かい」はいつもの爽やかな笑顔で香織に挨拶した。そして、横にいる少女を紹介する。「あ、紹介するね。この子は僕の妹、楓」
「お兄様の、お友達さんですか?」楓は香織をじっと見つめながら、にこやかに微笑んだ。しかし、その瞳の奥には、どこか探るような光が宿っているように香織には感じられた。
「お、おはようございます…蓬田香織です」香織は楓の雰囲気に少し気圧されながらも、挨拶を返した。
「楓です。お兄様がいつもお世話になっております」楓は深々とお辞儀をした。その洗練された仕草に、香織は彼女の育ちの良さを感じ取った。
しかし、次の瞬間、楓は再び「かい」の腕に抱きつき、甘えるような声を出した。「お兄様、早く学校に行きましょう? 私、お兄様と離れたくないですぅ」
「はいはい、わかったよ、楓」と「かい」は苦笑いしながら、楓の頭を優しく撫でる。その光景を見て、香織は胸の奥にチクリとした痛みを感じた。まるで、二人の間に割り込む隙間などないと言われているかのようだ。
(お兄様、か…)
香織は、楓の「かい」への態度が、単なる兄妹のそれではないことに気づいた。そこには、明確な独占欲と、他の異性に対する牽制のようなものが感じられた。特に、楓が香織を見る時の、あの射抜くような視線。
「じゃあ、蓬田さん。一緒に学校行こう」と「かい」が香織に声をかける。
「うん…」香織は小さく頷き、二人の後を歩く形になった。楓は相変わらず「かい」の腕に絡みつき、楽しそうに話しかけている。その姿は、まるで「かい」が自分のものであると誇示しているかのようだった。
楓の存在感は、香織が思っていた以上に大きかった。「かい」の妹であるというだけでなく、彼女自身もまた、周囲の注目を集める存在だった。すれ違う生徒たちが、楓を見ては驚きや羨望の眼差しを向けているのがわかる。モデルのような容姿、そして「かい」との親密な様子。
香織は、自分がひどく場違いな場所にいるように感じ始めた。自分のような地味な人間が、「かい」や楓のような輝かしい世界の人間と関わってはいけないのではないか。昨日芽生え始めた、彼への微かな興味や期待が、楓の存在によって急速にしぼんでいくのを感じた。
学校に着くまで、楓は「かい」から離れることはなかった。そして、校門の前でクラスが違う「かい」と楓が別れる時も、楓は名残惜しそうに「かい」を見上げていた。
「お兄様、放課後も一緒に帰りましょうね?」
「あー…ごめん、楓。今日はちょっと用事があるんだ」
「えー、つまんないですぅ」楓は不満そうに頬を膨らませる。「かい」はそんな楓の頭をもう一度撫でると、香織に視線を移した。
「それじゃあ、蓬田さん、またね」
「…はい」香織は力なく答える。
「かい」が自分のクラスへと向かっていくのを見送りながら、香織は楓の存在が、二人の間に大きな壁となって立ちはだかるような予感を感じていた。そして、楓が香織を一瞥し、挑戦的な笑みを浮かべたように見えたのは、香織の気のせいではなかったかもしれない。
入学三日目の午前中は、体育館での身体測定だった。蓬田香織は、体操服に着替えながら、憂鬱な気持ちでいた。身長、体重、座高。数字で示される自分の平凡さが、容赦なく突きつけられる気がした。特に、スタイル抜群の八重や、今朝会ったばかりの、モデルのような体型の楓と比べてしまうと、自分がいかに地味で普通であるかを痛感させられる。
体育館に入ると、すでに多くの女子生徒たちが集まっていた。ざわめきの中、香織は八重を見つけて合流する。八重はバスケ部の子たちと楽しそうに話している。香織もその輪に加わろうとするが、なかなか話題に入れず、居心地の悪さを感じていた。
身体測定は身長測定から始まった。一人ずつ名前を呼ばれ、機械の前に立つ。香織の番が近づいてくるにつれて、心臓の鼓動が速くなる。自分の身長が、周りの子たちと比べてどうなのか、気になってしまうのだ。八重は170cmと、女子にしてはかなり高身長だ。香織は164cmだが、決して低いわけではない。それでも、なぜか自信が持てない。
自分の名前が呼ばれ、香織は機械の前に立った。係の先生がテキパキと測定を進める。「164.5cm」という数字が表示された。微増だが、特に驚くような数字ではない。ホッとしながら機械を降りると、次は体重測定へと移動する。
体重測定は、身長よりもさらに気が重い。日頃から体型を気にする香織にとって、体重はできるだけ知られたくない数字だった。順番を待っている間、周りの子たちが「私、太ったかもー」「全然痩せないんだけど」などと話しているのが聞こえてくる。香織は、自分の体重が平均よりも重いのではないかと不安になる。
係の先生に促され、体重計に乗る。デジタル表示の数字がカチカチと変わっていく。香織は目をギュッと閉じた。お願いだから、あまり増えていませんように…。
「48.3kg」
表示された数字を見て、香織は少しだけ安堵した。大きく増えてはいなかった。だが、その数字が周りの子たちと比べてどうなのかは分からない。
身体測定は続いていく。座高、視力、聴力。どの項目も、香織にとってはただの数字でしかなく、自分の価値を示すものではない。それでも、周りと比較されることに、どこか劣等感を感じてしまう。
身体測定がすべて終わり、体操服から制服に着替えるため更衣室へ移動する。女子生徒たちの話し声が響く中、香織は静かに自分の服に着替えていく。
「ねぇ、聞いた? 山本くんの妹、超可愛いらしいよ!」
「えー! 見たかったー!」
「しかも、スタイルもやばいらしい! モデルやってるんだって!」
更衣室のあちこちから、「かい」と楓についての会話が聞こえてくる。楓がモデルをやっているという話に、香織は納得した。あのスタイルと顔立ちなら、モデルになっていても不思議ではない。
「ていうか、あの兄妹、二人とも完璧すぎない? 親もすごいのかな?」
「山本財閥の御曹司と令嬢だって噂だよ」
「マジか! やっぱ住む世界が違うわー」
耳に入ってくる会話が、香織の心をさらにざわつかせる。自分とは違いすぎる、輝かしい世界の住人たち。そんな彼らが、自分と関わろうとしている。特に、「かい」が。
(なんで、私なんかに…)
改めてその疑問が香織の心をよぎる。身体測定の結果は、香織がごく普通の女子高生であるということを改めて突きつけただけだった。特別な才能も、目を引く容姿も、スタイルも、自分には何もない。そんな自分に、「かい」が興味を持つ理由が分からない。
更衣室を出て、教室に戻る廊下を歩きながら、香織は不安を感じていた。「かい」との約束のこと、そして彼の妹である楓の存在。これから、自分の高校生活は一体どうなってしまうのだろうか。平凡だったはずの日々が、音を立てて崩れていくような予感に、香織の胸はざわめいていた。