第六十二話:失われた光
公園のベンチで、山本嘉位に「無理です」と告げ、彼の前から走り去った蓬田香織。涙で滲む視界の中、ひたすらに家路を急いだ。彼の苦しそうな顔、涙、そして最後に向けられた言葉にならない視線。すべてが、香織の心に深く突き刺さっていた。
家に帰り着き、自分の部屋に閉じこもった香織は、声を出して泣いた。もう、彼の声も、温もりも、キスも、すべてが過去になってしまった。夏の海辺への約束は、叶わない夢となって消えてしまった。
どれだけ泣いただろうか。涙は枯れ果て、体は鉛のように重かった。心の中には、大きな穴が開いたような虚無感が広がっている。彼を失った悲しみ。そして、彼を信じられなかった自分自身への後悔。
翌朝、学校に行くのが辛かった。彼に会いたくない。でも、学校に行かなければならない。いつもの制服に袖を通す。鏡に映る自分の顔は、ひどくやつれているように見えた。
学校へ向かう道のりも、いつもより長く感じられた。周りの景色は何も変わらないのに、香織の世界は、まるで色褪せてしまったかのようだった。彼の隣を歩くことも、彼とメッセージを送り合うことも、もうできない。
教室に入ると、八重が香織の顔を見て、心配そうに駆け寄ってきた。
「かおり! 大丈夫!? 昨日、公園の後…」
八重は、香織の顔を見て、すべてを察したようだった。香織は何も言わずに、ただ首を横に振った。
「…そっか…」八重は、それ以上何も言わずに、香織の手を優しく握った。その温かさが、香織の心を少しだけ温める。
一時間目の授業が始まった。香織は教科書を開いたが、文字が頭に入ってこない。休み時間に教室を除いて見た。彼の席に、つい視線を送ってしまう。しかし、彼の席は、空席だった。
(来てないんだ…)
少しだけ安堵したが、同時に、寂しさも感じた。彼は、学校を休んでいるのだろうか。それとも、香織に会いたくないから、学校に来ていないのだろうか。
一日中、香織は上の空だった。授業内容も頭に入ってこない。友達との会話も、どこか遠くに聞こえる。香織の世界は、彼を失ったことで、光を失ってしまったかのようだった。
休み時間になり、香織は八重に連れられて、屋上に行った。誰もいない屋上。風が、香織の髪を揺らす。
「かおり…辛いね…」八重が優しく声をかける。
「うん…」香織は、それだけしか言えなかった。
八重は、香織の隣に座り、香織の肩を抱き寄せた。
「もし、話したくなったら、いつでも言ってね。話さなくてもいい。ただ、こうして傍にいるから」
八重の優しさに、香織の目からまた涙が溢れ出した。八重は、香織が泣き止むまで、何も言わずに傍にいてくれた。
放課後になり、香織はすぐに家に帰った。家に着くと、すぐに彼のことを思い出してしまう。彼との秘密のメッセージ、秘密の電話、そして、秘密の逢瀬。すべてが、今はもう遠い思い出になってしまった。
スマートフォンを見ると、彼からの未読メッセージはなかった。もう、彼からの連絡は来ないのだろうか。
彼の婚約者のこと。彼の家のこと。そして、彼が抱えている苦しみ。すべてが、香織の心に重くのしかかる。
二人の関係は、本当に終わってしまったのだろうか。夏の海辺への約束は、もう果たされないのだろうか。
香織の心は、深い悲しみと絶望に包まれていた。彼のいない世界は、こんなにも色褪せて見えるのか。




