第五十八話:届かない言葉と閉ざされた心
蓬田香織が山本嘉位の前から走り去り、スマートフォンの電源を切ってから、丸一日が経った。彼の婚約者という言葉は、香織の心に深く突き刺さり、癒えることのない傷となっていた。
翌日、学校に行くのが怖かった。彼に会いたくない。会えば、またあの時のことが蘇ってしまう。それに、彼がどんな顔をして自分に接してくるのか、想像もできなかった。
八重と学校で会った時、香織は精一杯、明るく振る舞おうとした。しかし、八重は香織の様子がいつもと違うことに気づいていた。
「かおり? どうしたの? なんか、元気ないじゃん?」八重が心配そうに尋ねる。
「う、ううん…なんでもないよ…ちょっと、寝不足で…」香織は誤魔化す。
八重は、香織が何か隠していることを察したようだったが、それ以上は追及しなかった。しかし、授業中も、休み時間も、八重は香織のことを気にかけてくれているのが分かった。
山本嘉位の姿を、学校で見つけることはなかった。彼は、もしかしたら、香織のことを避けているのだろうか。それとも、何か別の理由で学校を休んでいるのだろうか。彼の姿が見えないことに、香織は少しだけ安堵したが、同時に、寂しさも感じていた。
放課後になり、香織はすぐに家に帰った。家に帰ると、すぐにスマートフォンの電源を入れる。未読メッセージの通知が、またたくさん表示されている。すべて、山本嘉位からだ。
メッセージを開く勇気がなかった。しかし、彼の言葉を見なければ、前に進めないような気もした。意を決して、メッセージを開く。
そこには、彼からのたくさんのメッセージが表示されていた。「ごめん」「話を聞いてほしい」「誤解しないでほしい」「君に伝えたいことがある」…そして、「会って話したい」というメッセージ。
香織は、メッセージを読んだが、返信する気になれなかった。彼の言葉は、香織の心には届かなかった。婚約者がいるという事実は、あまりにも重すぎた。
さらに、着信履歴を見ると、彼からの不在着信もたくさん残っている。彼は、香織と話したくて、何度も電話をかけてきてくれたのだろう。しかし、香織は、彼の電話に出る勇気がなかった。
彼の弁解を聞いても、きっと、また傷ついてしまうだけだ。婚約者がいるという事実は、変わらない。そして、彼が自分に隠していたという事実も。
香織は、スマートフォンをベッドサイドに置き、天井を見つめた。彼の言葉は、香織の心には届かなかった。香織の心は、彼に対して閉ざされてしまっていた。
一方、「かい」もまた、苦しんでいた。香織が自分の前から走り去った後、すぐに彼女に連絡を取ろうとした。メッセージを送った。電話をかけた。しかし、香織からの返信はなかった。電話にも出てくれない。
(どうすれば…)
「かい」は、香織に誤解されたままではいたくなかった。婚約者のこと。それは、彼にとっても、話すのが辛いことだった。しかし、香織に知られた以上、きちんと説明しなければならない。
彼は、香織が学校を休んでいないか、八重に連絡を取ろうかとも考えた。しかし、八重に連絡すれば、香織に迷惑をかけてしまうかもしれない。それに、八重に今の状況をどう説明すればいいのかも分からなかった。
「かい」は、自室で一人、深くため息をついた。香織の悲しそうな顔、涙。自分のせいで、彼女をあんなにも傷つけてしまった。
彼は、香織に伝えたいことがたくさんあった。婚約者のこと、そして、それでも彼が香織をどれだけ愛しているのか。しかし、香織の心は閉ざされてしまっている。彼の言葉は、香織には届かない。
山本嘉位の人生に、蓬田香織という光が差し込んだ。しかし、その光は、彼の抱える複雑な世界と、そして楓の干渉によって、影を落とされようとしていた。
二人の間にできた距離は、簡単に埋まるものではなかった。香織の閉ざされた心は、彼の言葉を受け入れることを拒否していた。




