第五十六話:夏の約束と波乱の幕開け
夏の海辺への約束を交わし、蓬田香織の心は、期待と不安でいっぱいだった。山本嘉位と二人きりで海に行く。それは、香織にとって初めての、そして特別な体験になるだろう。そして、それは、もしかしたら、「大人の関係」へと進む、一歩になるのかもしれない。
家に帰った後も、香織は興奮が冷めなかった。夏の海。彼と二人きり。どんな場所なのだろうか。どんな時間を過ごすのだろうか。想像するだけで、香織の心臓はドキドキと鳴る。
しかし、同時に、楓からの脅迫めいたメッセージと、彼には婚約者がいるという事実が、香織の脳裏をよぎる。あの穏やかな海辺での時間だけが、現実ではない。彼の世界には、複雑な問題が山積しているのだ。
翌日、学校で「かい」と顔を合わせた時、二人は控えめに微笑み合った。周りの生徒たちには気づかれない、二人だけの秘密。しかし、香織は、楓からのメッセージのことを彼に話すべきかどうか、迷っていた。そして、彼の婚約者のこと。それは、いつか彼から直接聞きたいと思っていたけれど、いつ聞けばいいのだろうか。
授業中、香織は時折「かい」に視線を送った。彼は、いつも通り周りの生徒たちと楽しそうに話している。特に、桜井さんとの距離が、香織を不安にさせる。
昼休みになり、香織は八重と一緒に食堂へ向かった。食堂は、相変わらず多くの生徒で賑わっている。「かい」たちの班を見つけると、桜井さんが「かい」の隣に座り、親密そうに話しているのが見えた。
香織の心臓が、チクリと痛んだ。昨夜、あんなに穏やかな時間を過ごしたのに。今、彼は、他の女の子と楽しそうに話している。
八重は、香織の様子に気づき、「かおり、大丈夫? また、山本嘉位とあの女の子のこと、気にしてる?」と心配そうに尋ねる。
「う、ううん…なんでもない…」香織は曖昧に答える。
その日の放課後、香織は「かい」にメッセージを送った。「あの…放課後、少しだけ会えませんか…?」いつもの、二人だけの秘密の待ち合わせ場所で。
彼からの返信は早かった。「もちろん! 嬉しいな。どこで会おうか?」
学校の裏門近くで彼に会った時、香織は、意を決して楓のことを話すことにした。楓が学校に来たこと、楓から言われたこと、そして楓からのメッセージのこと。
「…山本君…あの…この間、楓さんが、学校に来て…」
香織は、震える声で、楓との出来事を「かい」に話した。「かい」は、香織の話を真剣な表情で聞いていた。そして、楓からのメッセージのことを聞いた時、彼の顔に、怒りと、そして心配の色が浮かんだ。
「楓が…そんなことを…蓬田さんに、怖い思いをさせてしまって、ごめん…」
「かい」は、香織の手を取り、優しく握りしめた。
「楓には、ちゃんと話すつもりだ。そして…蓬田さんに、絶対に迷惑はかけさせない」
彼の力強い言葉に、香織の心は少しだけ安堵した。しかし、香織は、もう一つ気になっていることを、「かい」に尋ねるべきかどうか迷っていた。婚約者のこと。
「あの…山本君…」香織は、勇気を出して、「山本君には…婚約者がいるって…本当ですか…?」
その言葉を聞いた瞬間、「かい」の顔から血の気が引いた。彼は、言葉に詰まる。その反応が、香織に、楓の言葉が真実だったのだと悟らせた。
「…ごめん…話そうと思ってたんだ…でも…」
「かい」の声は、苦しさに満ちていた。彼は、香織から目を逸らす。
香織の心臓が、冷たいものに締め付けられるような痛みを感じた。婚約者。彼は、他の人と結婚する予定がある。それなのに、自分と…
不安、悲しみ、そして、少しだけ怒りの感情が、香織の心に広がった。彼は、自分を騙していたのだろうか。それとも、何か、複雑な事情があるのだろうか。
「…あの…私…」香織は、その場から逃げ出したくなった。もう、彼の顔を見ていられない。
「蓬田さん…! 待って!」
「かい」は、香織の手を掴んだ。しかし、香織は、その手を振りほどき、学校の裏門から走り去った。
彼の声が、後ろから聞こえてくる。「蓬田さん! 違うんだ!」
香織は、彼の声を聞きながら、ただひたすらに走った。涙が、香織の頬を伝って落ちる。
夏の海辺の約束。それは、香織にとって、希望の光だった。しかし、その光は、婚約者という言葉によって、一瞬にして消え去ってしまったかのようだった。
波乱の幕開け。二人の関係は、これから、さらに大きな困難に直面することになるだろう。夏の海辺の約束は、どうなるのだろうか。そして、二人の愛は、この波乱を乗り越えられるのだろうか。
(つづく)




