第五十話:御曹司の悩みとメイドの忠言
蓬田香織が家路についた後、山本嘉位は、応接間で一人、深くため息をついた。香織の顔から喜びの表情が消え、恐怖の色が浮かんだ瞬間を思い出し、彼の心は締め付けられる。自分の世界に彼女を連れてきたことで、彼女を傷つけてしまった。
そして、妹の楓の行動。香織に対するあの冷たい視線と言葉。楓が香織に敵意を抱いていることは分かっていたが、まさかあそこまで露骨に態度に出すとは予想していなかった。
「…楓…」
「かい」は、楓の異常なまでの自分への執着心と、他の女性を排除しようとする行動に、頭を悩ませていた。楓は、自分が「かい」を独占できる唯一の存在だと思っている。だからこそ、香織のような「お兄様」の世界に属さない「地味な女の子」が近づいてくることを、断固として許せないのだろう。
応接間のドアが開き、メイドの猿飛千佳が入ってきた。千佳は、「かい」の様子を見て、何も言わずに彼の傍に立った。
「千佳さん…見てた?」
「はい、一部始終を」千佳は静かに答える。
「かい」は苦笑いを浮かべた。このお屋敷では、何もかもお見通しだ。
「楓の…あの態度…蓬田さん、すごく傷ついてただろうな…」
「…はい」千佳は静かに頷いた。
「かい」は頭を抱えた。「どうすればいいんだ…蓬田さんのこと、守りたいのに…僕の世界にいると、彼女はきっと辛い思いをしてしまう…」
「かい」は、香織を自分の世界から遠ざけるべきなのか、それとも、この困難な世界に彼女を引き込み、共に戦っていくべきなのか、悩んでいた。彼女を傷つけたくない。でも、彼女を失いたくない。
千佳は、静かに「かい」の ??を聞いていた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「お坊ちゃま。楓様が、蓬田様に敵意を抱かれているのは事実です。しかし、蓬田様は、お坊ちゃまがお選びになった方。お坊ちゃまが信じ、守るとお決めになった方でございます」
千佳の声は、感情を含んでいないように聞こえるが、その言葉には、確かな力があった。
「お坊ちゃまが、蓬田様を本当に大切に思っていらっしゃるのであれば、どのような困難があろうとも、共に乗り越えていくべきかと存じます。楓様の干渉も、外からの妨害も、お坊ちゃまと蓬田様のお二人の絆の前では、決して揺るがないはずでございます」
千佳は、「かい」の瞳を真っ直ぐ見つめた。
「御曹司としての立場、山本家のしがらみ…それらは、確かにお二人の関係にとって、壁となるかもしれません。しかし、壁は、乗り越えるために存在するものでございます」
千佳の言葉は、まるで凍りついた「かい」の心に、温かい光を灯すようだった。そうだ。壁は、乗り越えるためにある。困難から逃げるのではなく、立ち向かうべきなのだ。
「…千佳さん…ありがとう…」
「かい」は、顔を上げた。その瞳には、迷いはなく、強い決意が宿っていた。
「僕が、蓬田さんを守る。どんな困難があろうとも、僕が、彼女を幸せにする」
「かい」は、御曹司としての責任感と、香織への深い愛情を胸に、立ち上がった。彼は、楓という嵐の中で、香織という光を見つけたのだ。そして、その光を守るためなら、どんな困難にも立ち向かう覚悟を決めた。
千佳は、静かに「かい」の傍に控えていた。彼女は、この若い御曹司が、自らの意志で、困難な道を選ぶことを理解していた。そして、その道のりが、決して平坦なものではないことも。
山本家の波乱は、まだ始まったばかりだ。そして、その中心には、地味な女子高生である蓬田香織と、彼女を愛する御曹司、山本嘉位がいる。二人の物語は、これからさらに大きなうねりを迎えることになるだろう。




