第四十八話:夜の帰り道と胸騒ぎ
山本嘉位の家で、妹の楓との予期せぬ対峙の後、蓬田香織は彼の強い言葉と抱擁によって、彼への愛を再確認し、共に困難に立ち向かう決意を固めた。しかし、恐怖心が完全に消えたわけではなかった。楓の冷たい視線と言葉は、まだ香織の心に棘となって残っている。
「送っていくよ」
「かい」は、香織の手を握ったまま、応接間を出て玄関へと向かった。香織は、彼の傍にいるだけで、心が落ち着くのを感じていた。
玄関には、先ほど香織を案内してくれたメイドの猿飛千佳が立っていた。千佳は、香織を見ると、会釈をした。その表情からは、何も読み取ることができない。彼女は、このお屋敷で起こるすべてのことを見聞きしているのだろうか。そして、楓の香織に対する態度についても、何か思うことがあるのだろうか。
「千佳さん、車を用意してくれ」と「かい」が千佳に声をかけた。
「かしこまりました」
千佳は、静かに玄関を出て行った。
「かい」は香織の手を離さずに、庭園へと続いている通路を歩き始めた。夜の庭園は、ライトアップされており、昼間とは違う幻想的な美しさがあった。しかし、香織は、その美しい景色を楽しむ余裕はなかった。彼の隣を歩きながら、楓のことが頭から離れない。
「…あの…楓さん…大丈夫でしたか…?」香織は、少しだけ心配になり、「かい」に尋ねた。
「大丈夫だよ。楓は、僕の言うことは聞くから」と「かい」は優しく微笑んだ。しかし、その笑顔の奥に、どこか複雑な感情が宿っているように香織には見えた。
やがて、玄関前に車が止まった。行きに乗せてくれた車と同じ、黒塗りの高級車だ。運転席には、先ほどと同じ運転手が座っている。
「かい」は香織のためにドアを開け、香織を車に乗せた。そして、自分も助手席に乗り込んだ。
車は静かに走り出した。夜の街の明かりが窓の外を流れていく。香織は、隣に座っている「かい」をちらりと見た。彼は、窓の外の景色を見ている。何を考えているのだろうか。
車内は静かで、二人の間に会話はなかった。香織は、今日このお屋敷で起こったことを反芻していた。彼の家の豪華さ、楓の敵意、そして彼の強い言葉。すべてが、香織の知っている日常とはかけ離れていた。
彼の世界は、香織が思っていた以上に複雑で、そして波乱に満ちている。そんな彼の世界に、自分は本当に足を踏み入れていけるのだろうか。彼が「守る」と言ってくれたけれど、自分自身も強くならなければ、彼の隣にいることはできないのではないか。
不安が、香織の心に再び影を落とす。しかし、香織は、彼の温かい手、そして彼の心臓の鼓動を思い出す。彼は、自分を選んでくれた。自分を大切に思ってくれている。その事実が、香織を強く支えてくれる。
車が香織の家の近くに止まり、「かい」が運転手に礼を言ってから、香織と一緒に車を降りた。夜の香織の家の前は、静かで、そして香織にとっては、何よりも安心できる場所だった。
「今日は、ごめんね。怖い思いをさせてしまって…」
「かい」は、香織の手を取り、優しく握りしめた。
「い、いえ…大丈夫です…」香織は震える声で答えた。
「本当に? もし、何か辛いことや、不安なことがあったら、いつでも僕に言ってほしいんだ。一人で抱え込まないでほしい」
彼の優しさに、香織の目から涙が溢れそうになる。彼は、香織の心を理解しようとしてくれている。
「…はい…ありがとう…ございます…」
「かい」は、香織を優しく抱きしめた。彼の温かい腕の中で、香織は今日一日の出来事の緊張から解放される。
「また、すぐに会いたいな。明日、学校でね」
「…うん…またね…」
「かい」は香織を抱きしめる腕を緩め、香織の頬にキスをした。そして、香織の家から離れていくのを見送った。
一人になった香織は、夜道を歩きながら、手に残る彼の温もりを感じていた。そして、楓の冷たい視線と言葉、そして、彼の世界の波乱を予感させる出来事を思い出し、胸騒ぎが止まらなかった。この波乱に満ちた世界で、自分は本当に彼の隣に立つことができるのだろうか。




