第四話:解けない魔法
山本嘉位は、数歩で蓬田香織の目の前に立つと、少し息を切らせながら、申し訳なさそうな、それでいて人懐っこい笑みを浮かべた。その距離の近さに、香織は思わず一歩後ずさる。彼の纏う、爽やかだがどこか甘い香りが鼻腔をくすぐり、心臓がまたうるさく鳴り始めた。
「ごめん、引き止めちゃって。どうしても、もう一度ちゃんと謝りたくて」
「い、いえ…もう、いいです…」
香織は俯き、か細い声で答える。彼の顔をまともに見られない。
周囲の視線が痛いほど突き刺さる。学園の有名人である山本嘉位が、特に目立つわけでもない新入生の女子生徒にわざわざ声をかけている。その状況が、どれほど好奇の目を集めるか。ひそひそと交わされる囁き声が、風に乗って耳に届く。
「ねぇ、あの子誰?」
「山本くんが話しかけてる…」
「朝も、なんかあの子とぶつかってなかった?」
「まさか、知り合い?」
(やめて…見ないで…)
香織は、今すぐこの場から消えてしまいたかった。
「よくないよ。僕が、全然よくない」
「かい」は真剣な表情で言った。
「君の大事な入学初日を、僕のせいで台無しにしてしまった。本当に申し訳ないと思ってるんだ。だから、せめてお詫びの印に、何か…いや、まずはちゃんと連絡先を交換して、改めて謝罪の機会をもらえないかな?」
彼はそう言うと、自分のスマートフォンを取り出した。その仕草はあまりにも自然で、有無を言わせないような、それでいて威圧感のない、不思議な力があった。
「…どうして、私なんですか?」
香織は、勇気を振り絞って顔を上げ、問いかけた。
「山本さんには、もっと他に…」
言いかけて、香織は口をつぐむ。もっと他に、話すべき相手や、時間を割くべき相手がいるだろう、という意味だったが、それはあまりにも失礼な物言いだと気づいたからだ。
「かい」は、香織の言わんとしたことを察したのか、少し寂しそうな表情を見せた。
「他の誰かは関係ないよ。僕が失礼なことをしてしまったのは、蓬田さん、君に対してなんだから。ちゃんと君に謝りたい。それだけだよ」
彼の言葉には嘘がないように思えた。少なくとも、人をからかったり、見下したりするような響きは微塵も感じられない。むしろ、彼の真っ直ぐすぎるほどの誠実さが、香織を混乱させた。
(この人、本当にただ謝りたいだけなの…?)
だとしたら、なんて律儀で、そして…少し不器用な人なのだろうか。あれだけの才能と容姿に恵まれ、常に人に囲まれている彼が、見ず知らずの、それも最悪な出会い方をした相手に、ここまで固執する理由が分からない。
「…わかり、ました」
長い沈黙の後、香織は小さく頷いた。ここで意地を張っても仕方がない。それに、これ以上注目を集めるのも嫌だった。
「で、でも、本当に、謝罪とかはいいですから…」
「ありがとう!」
香織が言い終わる前に、「かい」はぱあっと顔を輝かせた。その笑顔は、まるで太陽のように眩しく、香織は思わず目をそらす。彼は手早く自分の連絡先情報を表示させると、香織にスマートフォンを差し出した。
「これ、僕の。君のも教えて?」
香織は、震える手で自分のスマートフォンを取り出し、赤外線通信かQRコードか、一瞬迷いながらも、彼の連絡先を受け取り、自分の情報も送信した。ピロン、という軽い電子音が、二人の間に流れる。
「よし、登録した。蓬田香織さん…うん、覚えた」
「かい」は満足そうに頷くと、スマートフォンをポケットにしまった。
「今日は本当にごめん。それじゃ、また連絡するね」
彼は悪戯っぽく片目を瞑ると、ひらりと手を振って、迎えに来ていた黒塗りの高級車の方へと歩き去っていった。運転手らしき人物が恭しくドアを開け、彼はそれに乗り込む。周囲の生徒たちの羨望とため息を一身に浴びながら、車は滑るように走り去っていった。
後に残されたのは、呆然と立ち尽くす香織と、彼女のスマートフォンに残された「山本嘉位」という名前だけ。
(連絡…してくるのかな…)
期待しているわけではない。むしろ、もう関わりたくない。そう思うのに、胸のざわめきは収まらない。
桜の花びらが、まるで祝福と波乱の予感を同時に告げるかのように、香織の周りを舞っていた。山本嘉位という名の嵐は、まだ始まったばかりなのかもしれない。香織の平凡だったはずの高校生活は、予期せぬ方向へと大きく舵を切ろうとしていた。