第三話:帰り道のざわめき
指定された教室へ向かう足取りは、重かった。蓬田香織は、新しいクラスの名簿が張り出された掲示板の前で、自分の名前とクラスを確認する。幸い、というべきか、中学からの親友である中曽根八重と同じクラスだった。少しだけ、心が軽くなる。
教室の扉を開けると、すでに多くの生徒たちが席に着き、新しいクラスメイトとの会話に花を咲かせていた。香織はできるだけ目立たないように、窓際の空いている席にそっと腰を下ろす。いつものように、読書でもして時間を潰そうと鞄に手をかけた時、
「かおり!」
快活な声と共に、肩をポンと叩かれた。振り返ると、そこにはボーイッシュなショートカットがよく似合う、長身の少女が立っていた。中曽根八重だ。
「おはよ、かおり!同じクラスでよかったー!」
「うん、おはよ、八重。私も嬉しい」
八重は香織の隣の席にドカッと座ると、じっと香織の顔を覗き込んできた。
「ん?なんかあった?顔、赤いけど」
「えっ!?そ、そうかな?気のせいだよ」
香織は慌てて顔を伏せる。鋭い八重のことだ、何か勘付かれたかもしれない。中学時代、女子バスケットボール部のエースとして全国制覇を成し遂げ、そのクールな佇まいと実力から男女問わず絶大な人気を誇った八重は、見た目に反して観察眼が鋭い。特に、幼馴染である香織の変化には敏感だった。
「ふーん…?」
八重は疑うような目を向けながらも、それ以上は追及せず、担任が入ってきたタイミングで前を向いた。自己紹介、簡単な連絡事項、配布物の確認。ホームルームは淡々と進んでいく。しかし、香織の頭の中は、先ほどの山本嘉位のことでいっぱいだった。
(連絡先、教えるべき…?いや、でも…)
断固として拒否すべきだ。そう頭では分かっているのに、彼のあの真剣な眼差しが脳裏に焼き付いて離れない。それに、このまま無視して、もし学園内でばったり会ったら気まずすぎる。
(でも、あの山本嘉位が、なんで私なんかに…?)
疑問は尽きない。彼は、掃いて捨てるほど多くの女子生徒から言い寄られているはずだ。わざわざ、入学初日にぶつかって胸を触ってしまった地味な女子生徒に、そこまで丁寧に対応する必要があるのだろうか。
(もしかして、からかわれてる…?)
そう考えると、腹の底から怒りがこみ上げてくる。あの完璧な容姿と才能、そして財力。すべてを持っている人間にとって、自分のような存在は、暇つぶしの玩具にすぎないのかもしれない。
(やっぱり、関わらないのが一番だわ…)
香織が決意を固めたところで、ホームルーム終了のチャイムが鳴った。
「よーし、帰ろ帰ろ!」
八重が伸びをしながら立ち上がる。
「今日、帰りどこか寄ってく?クレープでも食べない?」
「うーん、ごめん、八重。今日はまっすぐ帰るよ。ちょっと、やることがあって…」
「そっか。じゃあ、また明日ね」
八重はあっさりとしたものだった。香織は鞄を持ち、足早に教室を出る。少しでも早く、この空気を吸いたくなかった。山本嘉位の影がちらつくこの校舎から、一刻も早く立ち去りたかった。
昇降口で靴を履き替え、校門へと向かう。桜並木が、朝よりも一層華やかに花びらを散らせていた。春の午後の、柔らかい日差しが心地よい。
(早く家に帰って、落ち着こう…)
そう思った矢先だった。
「あ、いた!蓬田さん!」
背後から、聞き覚えのある声がした。心臓が、ドクンと大きく跳ねる。振り返りたくない。でも、無視するわけにもいかない。香織は、まるで錆びついたブリキ人形のように、ぎこちなく振り返った。
そこには、やはり山本嘉位が立っていた。数人の取り巻きと思われる生徒たちと話していたようだが、香織を見つけると、彼らに軽く手を振って別れ、こちらに真っ直ぐ向かってきた。
(なんで…!)
香織の顔が、再び熱くなるのを感じた。
(つづく)