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第二話:意識の引力

<あの一瞬の感触が、こんなにも私を惑わせるなんて――誰が想像できただろう。>


蓬田香織よもぎだ かおりは、先ほどまでの激情を懸命に押し殺し、背筋を伸ばして前を向いた。だが、燃えるように熱い頬の感覚と、早鐘のように打つ心臓は、容易には収まってくれない。隣には、先ほど自分に人生初の平手打ちを食らわせた張本人、山本嘉位やまもと かいがいる。彼の存在を意識しないように努めても、その圧倒的な存在感は、嫌でも隣から伝わってくる。


(なんで、私がこんな目に…)


和井田学園の幼稚園からエスカレーター式で進学してきた香織にとって、高等部は待ち望んだ新しい舞台のはずだった。内気で地味な自分を変えたい。そんなささやかな願いを抱いていた入学式の朝に、まさかこんな形で学園のスーパースターと関わることになるなんて、想像もしていなかった。しかも、最悪の形で。


(胸…触られた…)


思い出すだけで、全身の血が逆流するような感覚に陥る。あの力強い感触、彼の驚いたような、それでいて何かを探るような瞳。そして、あのしどろもどろの謝罪。確かに真摯だった。けれど、許せるはずがない。


一方の「かい」もまた、平静を装いながら内心は嵐が吹き荒れていた。左頬のジンジンとした痛みが、先ほどの出来事が現実であったことを証明している。


(叩かれた…俺が…?)


山本財閥の御曹司として生まれ、何不自由なく育ち、常に周囲から称賛と好意を寄せられてきた。海外生活も長く、多様な価値観に触れてきたつもりだったが、女性に手を上げられたのは初めての経験だ。衝撃だった。しかし、それ以上に彼の心を占めていたのは、手のひらに残る柔らかい感触と、彼女――蓬田香織の、涙に濡れた瞳だった。


(なんだって言うんだ、あの感覚は…)


今まで感じたことのない、強い衝動。守りたいような、もっと知りたいような、あるいは、自分だけのものにしたいような…。初めて異性に対して感じた、説明のつかない強い引力。それが何なのか、「かい」自身にも分からなかった。ただ、彼女から目が離せない。彼女の一挙手一投足が、気になって仕方がない。


やがて、厳かな雰囲気の中、入学式が始まった。新入生代表の挨拶。学園長の式辞。来賓の祝辞。それらは「かい」にとっても香織にとっても、どこか遠い世界の出来事のように感じられた。


「かい」は時折、隣の香織に視線を送る。俯きがちに、じっと自分の手元を見つめている。長いまつ毛が頬に影を落とし、どこか儚げな印象を与える。さっきの気の強さはどこへ行ったのか。そのギャップが、また「かい」の興味をそそった。


(蓬田…香織…)


心の中で、そっと彼女の名前を反芻する。地味で、内気そうで、でも芯は強くて、そして――妙に色っぽい紫色の下着。アンバランスな魅力の塊。まるで、誰もまだ価値を知らない、ユニークな宝物を見つけてしまったような感覚だった。


香織もまた、「かい」の視線を感じていた。感じないふりをしようとしても、彼の存在そのものが発するオーラが強すぎて、無視できない。


(見られてる…)


意識すればするほど、体が強張る。彼の横顔を盗み見ると、非の打ち所のない完璧な造形に、改めてため息が出そうになる。U-15での活躍は、野球に疎い香織ですら知っていた。容姿端麗、文武両道、多国語にたけていて、まさに非の打ちどころのない雲の上の存在である。さらには、家柄も桁違い。まさに、自分とは住む世界が違う人間。


(なのに、なんで私なんかを気にするのよ…)


怒り、羞恥、戸惑い、そしてほんの少しの――好奇心。香織の心の中は、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられていた。


式は滞りなく進み、閉会の辞が述べられる。新入生たちは、各クラスに分かれてホームルームへと向かうことになった。


「それじゃあ、僕はこっちだから」


「かい」は、努めて穏やかな声で香織に言った。クラスが違うようだ。


「…あ、うん」


香織は短く答えるのが精一杯だった。


「さっきは、本当にごめん。改めて謝りたいから、後で連絡先、教えてくれないかな?」


「え…?」


香織は思わず顔を上げた。「かい」は少し困ったように笑いながら、続けた。

(・・・なんと答えるのが、正解なのか、わからない)


「もちろん、嫌ならいいんだ。でも、このままじゃ僕の気が収まらないから」


その真っ直ぐな瞳に見つめられ、香織は言葉に詰まる。断るべきだ。こんな男と関わるべきじゃない。そう思うのに、なぜか「はい」とも「いいえ」とも言えない自分がいた。


「かい」は香織の返事を待たずに、軽く片手を上げた。


「じゃあ、また後で」


そう言い残し、彼は自分のクラスの列へと向かっていった。その背中には、やはり自然と人だかりができ、男女問わず多くの生徒たちが彼に話しかけている。まるで、彼がいる場所だけが、スポットライトを浴びているかのようだった。


香織は、その光景を呆然と見送ることしかできなかった。


(なんなのよ、あの人…)


嵐のように現れ、心にかき乱しだけを残して去っていった「かい」。香織の高校生活は、波乱の幕開けを告げたのだった。



嵐の前の静けさ――。

この小さな波紋が、やがて世界を巻き込む嵐になることを、まだ誰も知らない。

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