第一話:桜舞う日の衝撃 春雷
第1部:結びの章 〜心が通うまで〜
帰国子女を受け入れてくれる中学校を卒業し、財閥の御曹司として磨きをかけるために、親族の息のかかる有名私立進学校へ進学した主人公 嘉位 。 いっぽう 同私立中学校から、同高等学校に進学した、香織 二人、価値観、そして未来への不安をぶつけ合いながら、少しずつ心を通わせていく。
1対1の対話を重ね、時に衝突し、時に支え合いながら、やがて「結ばれる」という答えにたどり着くまでの104話。
シリアスな心理描写と、繊細な感情の揺れを描いた青春ラブストーリーの第一章。
四月八日。桜の花びらが春風に乗り、まるで祝福するかのように舞い散る日。
名門、私立和井田学園高等部の入学式会場へと続く道は、新入生たちの期待と不安、そしてわずかな高揚感がないまぜになった独特の空気で満たされていた。
山本嘉位は、真新しい制服に身を包みながらも、どこか周囲とは違う落ち着きと、それでいて人を惹きつけずにはおかないオーラを放っていた。180cmの長身、均整の取れた体躯。日本人離れした彫りの深い顔立ちに、少し色素の薄い髪が陽光を浴びてきらめく。それは、幼少期からの海外生活と、類まれなる才能、そして圧倒的な育ちの良さが自然とにじみ出る風格だった 。
「ねぇ、あれって…」
「嘘、本物?」
「山本嘉位くんだ…!」
どこからともなく、囁き声が聞こえ始める。それはすぐに熱を帯び、抑えきれない興奮へと変わっていった。
「キャーーーッ!かい様ーーー!」
「こっち向いてーーー!」
「U-15の時のノーヒットノーラン、見ました!最高でした!」
黄色い声援。それは「かい」にとって、物心ついた頃から浴び続けてきた、いわば日常の一部だった。海外での幼い時の頃から容姿端麗、文武両道。地域では「神童」「異端児」と呼ばれ、野球でエリアリーグ制覇、帰国後、中学校ではクラブチームでエース兼4番として再び全国の頂点に立ち、U-15日本代表としても世界一に貢献した 。その輝かしい経歴に加え、誰に対しても分け隔てなく接する優しさ、相手の心情を先読みするかのような気配り。それらが相まって、彼の周りには常に人だかりができ、異性からの熱烈な視線が注がれるのが常だった 。
だが、今日の声援はいつもと少し違っていた。高等部という新たなステージへの期待感も相まってか、その熱量は凄まじく、上級生と思われる女子生徒たちが、まるで獲物を見つけた獣のように「かい」を取り囲み、追いかけ始めたのだ。
「ちょっと、みんな落ち着いて…!」
「かい」は困惑しながらも、柔らかな笑みを浮かべて制止しようとするが、興奮した集団には届かない。身の危険すら感じ、彼は思わずその場から駆け出した。磨き上げられた廊下を、革靴が焦った音を立てる。背後からは、黄色い悲鳴とシャッター音が追いかけてくる。
(まずい、入学式に遅れる…!)
焦りが募る。角を曲がった瞬間だった。
ドンッ。
柔らかく、しかし確かな衝撃。そして、手のひらに信じられない感触が伝わった。
(…え?)
時間にして、わずか一秒にも満たない出来事。だが、「かい」の思考は完全に停止した。目の前には、息を呑むように目を見開いた、見慣れない女子生徒がいた。整ってはいるが、派手さはなく、どこか控えめな印象。少しウェーブのかかった黒髪が、衝撃でさらりと揺れた。
問題は、そこではない。「かい」の右手が、彼女の制服のブレザーの上から、その豊かな膨らみを、強く、鷲掴みにしていたことだ。
(…うそだろ?)
指先に伝わる、生命の弾力。柔らかさ。温もり。
それは「かい」が今まで経験したことのない、未知の感覚だった。数多くの女性から好意を寄せられ、付き合った経験こそあれど、彼はどこか一線を引いていた。キスはもちろん、手をつなぐことすら、どこかためらいがあったのだ 。異性とは、父や母から聞かされる政略的な側面や、あるいは単なる生物学的なものとして捉えていた節があった 。
しかし、今、この瞬間。手のひらから伝わる生々しい感触と、目の前の少女のか細い喘ぎ声にも似た吐息が、彼の脳髄を直接揺さぶった。
(なんだ、これ…)
胸が、高鳴る。今まで感じたことのない、強い独占欲にも似た感情が、腹の底から湧き上がってきた。彼女の、驚きと羞恥に染まった表情。潤んだ瞳。わずかに開かれた唇から漏れる、熱い息。そのすべてが、「かい」の心を初めて強く、そして抗い難く揺さぶった。
そうだ、思い出した。今朝、正門をくぐった時。風に飛ばされた入学案内の書類を拾ってくれたのが、この子だった。桜の花びらが舞う中で、白いソックスと、一瞬見えた…
(…紫色の、やけに大人びたパンツ…)
なぜ今、そんなことを思い出すのか。地味な見た目とは裏腹な、そのアンバランスさ。それもまた、「かい」の心を妙にかき立てる。
彼は、まだ彼女の胸を掴んだままだった。意味もなく、ただその感触を確かめるように、指が微かに動く。
パァンッ!
乾いた音が、廊下に響き渡った。
左頬に走る、熱い痛み。「かい」は人生で初めて、人に、それも異性に叩かれた。親にすら、手を上げられたことなど一度もなかったのに 。
「……っ!」
声にならない悲鳴を上げ、彼女は後ずさる。その瞳には、涙が浮かんでいた。
周囲は、水を打ったように静まり返っていた。先ほどまでの喧騒が嘘のようだ。誰もが、この予期せぬ出来事に息を呑み、成り行きを見守っていた。
「かい」は、ようやく我に返った。
「あ…、ああ、ご、ごめん!本当に、ごめんなさい!」
彼は慌てて手を離し、深々と頭を下げた。頬の痛みよりも、目の前の少女を傷つけてしまったことへの後悔と、先ほどまでの自分の行動への混乱で、頭がいっぱいだった。
「つ、つい…いや、そんなつもりじゃなかったんだ。本当に…。女性の胸を触るなんて、初めてで…その…どう言ったらいいか…」
しどろもどろになりながらも、言葉を紡ぐ。その必死な、そして心からの謝罪の姿勢は、彼の育ちの良さを物語っていた。周りの生徒たちも、ただのラッキースケベではなく、何か特別な事情があったのだと感じ始めていた。
「本当に申し訳ない。大事な入学式の前に…。改めて、ちゃんと謝らせてください」
顔を上げた「かい」は、真っ直ぐに彼女の目を見て言った。
「僕は、山本嘉位と申します。もし、よろしければ…あなたのお名前を、教えてもらえませんか?」
彼の真摯な瞳と、どこか痛ましげな表情。そして、その場の空気を一変させる圧倒的な存在感。それは、彼がただのイケメンではない、「別格」の存在であることを、そこにいた全員に悟らせるのに十分だった。
少女は、まだ少し震えながらも、潤んだ瞳で「かい」を見つめ返した。
「…蓬田、香織…です」
か細い、しかし凛とした声だった。
「…並びましょう。入学式へ」
香織はそう言うと、俯きがちに前を向いた。
山本嘉位と蓬田香織。二人の運命が交差した瞬間。それは、春の嵐のような、衝撃的な出会いだった。まだ、誰も知らない。この出会いが、これからどれほど波乱に満ちた、甘く切ない物語の始まりになるのかを。
(つづく)