2.まどろみの終わりを告げる④
夜闇に包まれた森は不気味だ。真っ暗で見通しが悪く、恐怖感を煽られる。
それにここは訳ありの〝地下庭園〟。放たれている獣たちの数は少ないだろうが、異常を感じればそれを排除しようとする。夕凪鷹宗は余計な刺激を与えないように最小限の足音で、最大限に加速して走っていた。
――だというのに、奴はなぜ。
セツラは研究員の中でも群を抜いて掴み所がない。しかし、最低限の人道はあると評価していた。少なくとも自分の研究のために人を殺して良い、といった倫理観を持っていなかったはずだ。それがこんな事態を招くとは。
なぜこんな手段を投じてしまったのか、そう問い詰めてもあの男には無駄だろう。こればかりは探りを入れながら確信に迫るしかない。
周囲の気配に気を張り巡らせているなか、片耳につけていたイヤホンからピピピと電子音が鳴った。夕凪はイヤホンのボタンを手早くタッチする。
「戻ったか」
ある程度の予測をたてて声をかけると、予測通りの軽快な男の声が応答した。
『鷹宗さん、とんでもねえ事になってるみたいだな!』
リアイゼル・バーラ・フラマリス。オリジンの数少ない実動隊の一人だ。異能の特異性もあり、他の組織にも求められる人材だ。その男が全ての任務を終えて帰還したところだろう。
『ミズキさんから連絡がなかったら遊びに出掛けちまうところだったぜ!』
通話越しに若干の息の乱れが聞こえる。向こうも走っている最中なのだろう。
「もう一仕事、頼まれてくれるな?」
人助けに積極的な人物だ。間髪いれずに即答した。
『勿論だ!』
「ありがたい。早速だが、来杉さんの居場所を特定してくれ」
『それならC―4地区だ! 俺はC―1地区から行く!』
「よろしく頼む。くれぐれも刺激を起こさぬように」
『それがそうとも言えないみたいだ、夕凪さん』
リアイゼルの声の雲行きが悪くなる。
「……まさか観察対象の全てが来杉さんに向かっている、とでも?」
『……残念ながら』
ならば音を立てない理由がない。夕凪は更に加速した。地形は大方把握している。僅かに隆起している岩を使っては小川を飛び越える。
リアイゼルはあくまでも平静を保って言った。
『ロフティが異能を発動しているみたいだ……急げばまだ可能性があるはず』
――そうか、彼女も来たか。
不甲斐ないが、自分のみでは目の前にいない存在の足止めをすることは出来ない。目まぐるしく変わる状況を独力では把握することも困難だ。その点、二人が来たことで来杉弥彦の生存の可能性が上がっただろう。
だが、リアイゼルは異能を持ってして「助かる」とは断言していない。その意味する事は、まだ来杉弥彦が死ぬ可能性が残っているということだ。
――あとは私の足が間に合うか……!
目標地点まで一分以内。
「急ぐぞ」
この一分未満で結末が決まる。現段階での手は尽くした。だが、全ての獣が一カ所に集まっているのならば、異能を使ったことのない異能者に訪れるのは死だ。
――間に合ってくれ!
そう願った刹那、視界の向こうで光が迸った。
――⁉
夕凪は眼を見開いて震撼する。それは異能者なら感じ取ることが出来るであろう。
『なんつー異能力だ!』
リアイゼルも驚きの声を挙げる。
――恐らくこれは共鳴石の発光。だが、こんなに輝くとは聞いたことがない。
発光源の手前に辿り着く。目を細めていると光はどんどん収束していった。
先ほどまで眩しかったことで闇が一層深くなる。
目が慣れるまで時間が必要だ。だが視界がなくともわかる。ここにいる獣たちはどういうわけか動けず、殺気立てていない。
「これは……」
少しずつ闇に慣れた目で捉えたのは、全ての獣たちが地に倒れている景色だった。獣たちが四方八方に点在し横たわっているがどれも呼吸の気配があった。そして、その中心に来杉弥彦が血だらけになって気を失っていた。
「来杉!」
焦りに弥彦へ駆け寄り膝をつく。
全身が傷だらけだ。しかし出血量は思ったよりも少ない。呼吸があるか耳を立てたが意外にも乱れなく寝息を立てていた。
――今の異能の発現で気を失ったか。
なにはともあれ命に別状はないようだ。夕凪は息を細長く吐いた。
「夕凪さん、間に合ったか!」
遅れてやってきた派手な赤髪の長身の男――リアイゼルが現場にギョッとする。続いて別の方向から長く艶やかな銀髪を乱した女性が息を切らしてやってきた。
「な……! なにが起こったのよ、これ⁉」
彼女の柳眉が怪訝にひそめる。言わんとしていることは分かる。普通の異能じゃこの獣たちを鎮められる筈がない。
「私にも全容は分かりかねない。だが今は詮索するよりもこの場から離れるべきだ」
この場に人間が存在していること事態、彼らを刺激してしまう。覚醒したら直ちに襲い掛かってくるだろう。
「好機であることには変わりねえ! 夕凪さん、客人は俺が背負から先に行ってくれ!」
「ああ、頼むぞ」
体格の大きいリアイゼルが来杉弥彦を背負う。獣たちの様子も気になるが、状況が落ち着いてから調査に赴けば良い。
「セツラ、聞こえているな」
頭上を見上げると、そこにはステルス機能を備えたドローンが飛んでいた。現場の状況からその機能を解いたドローンからは、ハイトーンの男の声が落ちてきた。
「ウン、聞こえているヨー。ちゃんとベッドの手配しといたから、そこから出るまでよろしくネ~」
余りにも苛立ち、夕凪はドローンに鋭く目を細めた。
「覚悟するんだな」
「ヒ!」
その言葉をついて、「戻るぞ」と後方の二人に声をかけその場を後にした。
「おいロフティ、そいつらが起きない間にお前もいくぞ」
リアイゼルは動き出さない銀髪の女性――ロフティに声をかける。それに対してロフティは不機嫌な表情だ。
「そんな気遣いはあたしには無用よ。気になることがあるから先に行ってなさい」
「気になる事ってなんだ?」
追求するリアイゼルにロフティは思わず語調を強めた。
「怪我人背負ってるんだから早く行きな!」
「ひでぇ!」
ぶっきらぼうに言われて大げさに体をわななかせる。だがそれもいつもの事。リアイゼルはすぐに真剣な顔で言った。
「それもそうだが、俺はお前のことも心配してんだかんな! じゃあ先に行くぞ!」
体格の大きさもあるからか、人ひとりを背負っているとは思えない身のこなしで走り去っていく。それを横目に、ロフティは少年のいた場所に身を屈めた。
「確かに感じたはずだけれど……」
そう呟いて、ロフティは目を見開いた。
白い蛇がいた。暗闇で見落としそうになったが、この場で異質な存在に驚愕する。
「まさか……」
思い当たった言葉が零れる前に、背後の獣が唸り声を挙げた。
「――!」
すぐさま振り返るが、そこにいた熊は唸っただけで動き出す様子はなかった。
ロフティはほっとすると、白蛇に向き直る。
「とりあえず、あんたを放っていけない。連れていくわよ」
そう言って、ロフティはぶっきらぼうに言いつつも丁寧に白蛇を抱きかかえ、その場を後にした。
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一枚の布に世界が広がっているとしよう。鮮やかで暖かくて、どこかではくすんで寒い、色とりどりの一枚布だ。
その布はすでにところどころがほつれている。なにか手を施さない限り、世界はどんどんほつれて縮小して消えてしまう。
今日はそんなほつれの進行を遅くする儀式の日だ。
――雑念はないはずなのに、今日は心が騒いでいる。
鷹宗が呼んだ客人の無事を聞いて安心したというのに、それとは別に胸騒ぎを感じた。
「なにかの予兆でなければいいのですが……」
わたしは祈る。守るべき大陸の人々の幸せを願い、厳しくも美しい自然を尊ぶ。
そして、顔も声も確かではない大切な人を想いながら――。