2.まどろみの終わりを告げる③
夕暮れ時も終わりを迎えそうな、夜空の始まり。薄ぼんやりと星が見えてきている。肌に触れるどこか空気もさっきよりもどこか冷えている。今は春の訪れる前の冬。制服を身にまとっているからいいものの、これからどんどん寒くなってくるのだろう。
もっとも走り回ったせいで身体は熱く冷める様子はまだない。
――それにしても、ここはいったいどこなんだろう……。
モニターで場所を把握しているということから、恐らく異能者協会の敷地内かと思うのだがそれ以上はここがどこなのか見当がつかない。
――とりあえず、生き残ることだけを考えないと……!
夕凪がここに必ず来てくれる。それだけが頼りなのだ。自分が先に死んでは元も子もない。
どこからか草木を掻き分ける音が聞こえ、身を屈めた。
音の先はこの茂みの向こう……弥彦は恐る恐る覗き込む。
――っ!
巨体だ。暗くなってきた森でもよく見える。自分よりも三倍ほど高く人が数人乗れそうな大きな体に長い鼻。広い耳を携えたそれは少し離れたところで佇んでいた。
――象⁉
そんなバカな。アルバドリスで象を見れるのは動物園しかありえない。それが、こんな森の中に⁉
思わず前のめりに凝視していると象は頭を動かし、弥彦は我に返って茂みに身を潜めた。
――やばい、目が合ったかも……!
冷や汗が止まらない。象の動きを知りたいが決して動いちゃいけないと理性が制した。
象は弥彦のいる方向をじっと見つめる。その時間がしばらく続くと、別の場所でガサっと音がたった。
象はそちらに気を向け、気配のする方へとゆったりと歩きだした。
重そうな足音が遠ざかっていく。
音が聞こえなくなるまで息を殺す。そのかいあったのか、足音は着実に遠ざかり、小さくなっていった。
「――はぁあ~…………」
喉まで詰まった息を吐く。
これがあとどのくらい繰り返さなくてはならない?
今までの暮らしでこんな命のかかった時間を過ごしたことがあっただろうか。
――かくれんぼだって自信がなかったのに!
すぐに見つかってしまっていた幼少時代を思い返す。
帰りたい……。本当なら今頃は暖かい自宅でおじさんやおばさん、寮の利用者と食卓を囲んで夕飯を過ごしていることだろう。
途端に胸が苦しくなり、目尻に涙が浮かびそうになった。
緊張しっぱなしで集中力が切れそうになる。
――!
だめだ! 挫けるな! まだ終わってない!
掘り出した記憶に対して頭を振り、奥歯を噛み締めた。
――とりあえず、なににも会わないように……!
と、思っていたその時。
ガサ――。
頭上の木の枝が揺れる。
――⁉
慌てて視線を向ける。暗くなった頭上へと目を凝らした。
――リス⁉
小柄で愛くるしいそれは、ただじっと弥彦を見下ろしていた。
動物園で見かけたことのあるそれは、愛おしさを覚えるよりも弥彦の頭の中で警鐘が鳴る。
――これは、いけない気がする……!
弥彦は視線を外さないまま、後ずさる。数歩後方へ行く間、リスはその場から動かずじっとしていた。
獅子のような距離を詰めたり、威嚇もしてこない。
――だい、じょうぶ、なのかな……?
予感は気のせいだったか? と、ほんの少し緊張がほぐれる。
そうだ、草食動物で人間とは体格差もある。恐らく、彼らの巣や子供が近くにいなければ襲ってくることは考えにくい。こちらが迂闊に寄らない限りは暴れたりしないだろう。
――気がおかしくなってるな。
流石にどこかで気を休めなければ全てに不審を抱きそうだ。
こんな自分はどうにかしている。
静かに去ろう。そうするとリスは空を見上げた。
「ギヤアアアアアアアアアア!」
「ッ――⁉」
鼓膜が破けそうなほどの奇声が上がり、遅れて弥彦は両耳を覆った。それはとんでもない声量で、どこまでも轟いたことだろう。
耳を塞いでも甲高い声が続いている。
――まさか……⁉
その愛らしいリスが発している――そう誰が見ても明らかだ。
――な、どうして⁉
この小動物に危害を加えた覚えがないのに、まるで敵を見つけて警報器を鳴らしたかのような反応だ。
――しまった!
リスの叫び声が終わり耳を開放すると最悪の状況が待っていた。
どこからともなく足音が聞こえてくる。
四方八方なのか、暗闇で視覚を頼れないことが余計に恐怖を増強させていく。
――ここに留まっちゃいけない!
弥彦は恐怖に背中を押されるよう駆け出した。
空気がざわめく。
後方や左右から草木を荒々しく掻き分け、時には枝を踏みつけた音が絶えず追いかけてくる。それがこちらに殺気を向けているのだと全身に汗が噴き出した。
おかしい。さっきよりも明らかに真っ暗だ。樹木の葉の合間から零れていた月明かりが無くなったのだ。周囲から、多くの息遣いが近付いてくる。弥彦は恐怖に対して、歯を食いしばった。
今、この足を止めたらどれだけの苦しいことから逃れることができるだろうか。
走り続けて心臓は破けそうに拍動し、呼吸は吸っても絞り出すの繰り返し。腕を大きく振って足を踏み出している現状は、気を抜けば足をもつれさせ転倒するだろうと頭が警告する。夕凪はいつ来るかわからない。
それなら、苦しんだ挙げ句死ぬのなら、今楽になったほうがいいのではないか? 雑念は前に出す足の膝の力を抜かそうとする。
――それでも僕は、絶対に死にたくない!
弥彦は俯いた顔を上げる。そして力を振り絞る。
ロイやランのいる学校へ戻りたい。育てのおじさんやおばさんたちの待つ家に戻ったらまた他愛のない話をして、平凡に一日を過ごしたい。
それだけじゃない。これまでの自分を支えてくれた人への恩返しだって終えていないのだ。抗う力があるなら、ここで諦めるわけにはいかない。
どこを走っているか分からない。今まで以上に胸が、息が苦しい。自分の呼吸が耳障りなほど上がっている。それでもがむしゃらに走った。
後方から突風が右耳を横切ると、次は背中に石のような固い物を投げられる。
――っ!
前から何かの爪が襲い掛かる。顔を大きくそらすと額の表皮を抉る。
なにかの牙が走る足を掠める。
腕が、胴体が、足が、どんどん血に染め上がっていく。
――意識がっ……!
視界が霞んできた。足の力も痺れていくように感覚が薄れる。それでも重くなる足を前に出し続ける。
――しに……たくない……。
友人や育ての親……兄弟のように過ごした人たち……。
こんななにも言えずに別れたくないのに……。
頭がぼんやりと霞んでいく。辛うじて走っていた足はつまずき、前に倒れてしまう。
心臓の鼓動が激しい。体の至るところから血が流れ地面を濡らしていくのを失いかけそうな意識の中で感じていく。
周囲は、あらゆる動物たちの殺気で囲まれていた。
「まだ……」
生きたい。だが、それは出来ないようだ。
――ごめん……みんな……。
きっと悲しませる。最後に願いが叶うなら、どうか僕の事を忘れてもいいから、笑っていてほしい。
意識が薄れかけていく。暗闇を映す視界は不思議と白んできて、霧が深くなるように真っ白に染まっていく。
それは少しずつ形を浮かばせていき景色がぼんやりと見えてくる。
花。茎も葉も全て白い花々だ。小さいが様々な種類の花が数百、数万ほど一面に広がっている。
――ここが、死の世界……。
その中に倒れ伏している。痛みが分からなくなっているが、力は入らない。どこか眠くなってくる。
ふと、誰かが囁いた。
《帰って……》
弱々しい少女の声。だがその言葉の意味は、拒絶であると感じ取る。
――そうだ……まだ、ここに来ちゃ……いけない……。
いつの間にか閉じていた重い瞼を、ゆっくりと持ち上げる。
開かれた視界には、暗闇が広がっていた。どうやら、黒い獣たちに囲まれているようだ。全ては捉えきれないが、最初に会った獅子や遠目で見た象もこの場にいる。死んだかどうか確認しているようだ。
土にまみれた手を見る。
――まだ、やれることがある。
神がいるならどうか願いを聞いてほしい……とは言わない。
まだ全てを試していない。
朦朧とした意識の中で、地面に爪をたてた。
周囲の黒い獣たちが身構え、一斉に襲い掛かる。迫りくる死に、弥彦は叫んだ。
「生きるんだああああああああああああああああ!」
昂る気持ちに呼応して左手の共鳴石が激しく白く光りだす。
闇と同化していた獣たちは姿を露わにすると、それ以上の白色に飲まれていく。
景色も闇夜でさえも白に攫う。
黒い獣も草木も……この空間にある何もかもを消えてしまった。
『この時を待っていた』
脳裏に誰かの声が横切った。地を揺らすような身体の芯まで響くその声は、厳格に満ち溢れていた。
『待っていた――我が主』
体が重いなかで、弥彦は頭を起こす。
白に占拠された空間で、白色のなにかが頭を垂れた――ような気がした。
それはとても大きく、だが、不思議と怖くは無かった。
眠りがやってくる。ただでさえ重かった体が、意志とは関係なく力が抜けていく。
少し目を閉じて瞼を開けると闇が戻っていた。だが薄く開いた視線の先には、こちらを見下ろす生物が一体佇んでいる。
――白い……蛇……?
その白い蛇は、暗闇の中で淡くも白い光を放っていた。それはまるで……。
「キミが……話し…………かけて……」
そう問いかけながら手を伸ばす。しかし、手が届く手前で力なく眠りについた。