2.まどろみの終わりを告げる①
「ここで時間を忘れて日向ぼっこするのが好きなんです」
そう言ったのは弥彦が幼い時だった。
とある日、ふと友人に「最近、好きなことはある?」と聞かれて答えたものがそれだった。
日当たりのいい窓辺や公園のベンチでもいいのだが、特にお気に入りだったのが芝生で寝転がった時だった。
それを伝えた相手は自分よりも幼い少女だった。
「――」
少女の顔もおぼろげだし、なんて答えたのか、今では覚えていない。だが、その後に一緒に寝転がって春の暖かな陽気をじっくりと浴びたことはよく覚えている。
これは昔の夢だ――。そう自覚した時、弥彦は重い瞼を持ち上げた。
ここは夕暮れの森の中。土や緑の臭い、じめっとした湿度。どこからか漂うほのかな風が肌を撫でる。弥彦は強張った体をゆっくりと起こした。
「いたた……」
腰をさすりながら頭上の木々の間から覗く夕焼け色の空を見上げる。
――僕はいったいどうしたんだ?
そういえば昼に異能者協会にいたはずだ。それがどういうわけか、こんな森の中で寝ている。
学校帰りに異能者協会に行ったことが夢だったのだろうか?
――いやいや。森に来ることなんかめったにないぞ。
床で寝てしまった時のような凝り固まった体は現実そのものだと教えてくれる。だが気がかりなのは、通学の日にいつも持っている手提げ鞄がないことだ。あそこには携帯電話と財布が入っている。見回してみるも鞄はどこにもない。いったいどこへと消えてしまったのだろうか。
――それも心配だけど、ともかく最後の記憶はなんだったっけ……。
なぜだか鈍痛の響く頭に手を当てる。
「そういえば誰かと話していたような……」
おぼろげな記憶を掘り起こそうとした時、
「キミに来てもらったのは他でもないんだよネ」
空か(・)ら(・)奇妙な声が響いた。電子機器を用いたその声には聞き覚えがある。
――セツラさん⁉
男性にしてはハイトーンで怪しげな喋り方は、姿を見なくても彼であることが確信できた。同時に、異能者協会の地下へと向かったまでの記憶が甦る。
「いったいこれはどういうことなんですか⁉」
戸惑いに声をあげると、セツラは「ククク」と奇妙に笑った。
「音声は届いているみたいでなによリ。だけれど余談はできなイ。なぜならボクはキミに伝えなくちゃいけないことがあるからダ」
こちらの焦りを嘲笑うような態度で、セツラは淡々と告げた。
「今日、キミに来てもらったのは他でもないんだよネ。いいかイ? 一度しか言わないから良く聞いておくれヨ」
風が、木々が妙にざわつく。そして、不自然に茂みを掻き分ける音が鳴り、嫌な気配に弥彦は立ちながら振り向いた。
黒い獅子だ。
セツラの愉快そうな声色で冷酷に告げた。
「これからキミには、ニエになってもらいたいんダ」
目の前には、黒い獅子――獲物を眼前にし、出方を伺うように睨み付けてはじりじりと距離を縮めてくる。弥彦は刺激を与えないように、獅子の歩調と合わせて後退る。
命の危機だ。
――いろんな疑問よりもこの状況をどうにかしないと……!
獅子に注意を払いつつ、周囲を見渡す。だが、木々に囲まれているだけで、武器になりそうな物が近くにはない。
焦りだけが積もる。
――だめだ落ち着け、なにかあるはずだ。
そう冷静を取り繕うとした時だった。
パキッ。
「――⁉」
小枝を踏みつけた、乾いた音が響く。
「――ッ!」
獅子は咆哮をあげた。
――やばい!
弥彦は全力で走りだした。
振り向く勇気はない。しかし、草を踏みあらす足音から、追いかけてきていることは明らかだ。
――これじゃすぐに追い付かれる!
雑多に覆い茂る木々の合間を縫って駆けるが背後からの殺気はどんどん迫ってくる。それに対して自分は精神的に追い詰められていて、すでに呼吸が乱れてきた。
――どうすれば……!
大きく腕を振って走っているなか、左手首に視線が向いた。
異能者である証――腕輪の無色透明な共鳴石だ。
〝異能者は非異能者を救いもできるし、虐殺もできる強者だ〟
それは、どこかで聞いたことがあった台詞だ。
ドクンと、不意に胸が高鳴った。
それは獅子に捕食されるという恐怖と激しく走ったから――いや、それだけではない。
踏み込んではいけない、境界線。
異能を使うことで壊れてしまうという焦燥感。
しかし、なぜそんな気持ちが駆け巡るのか、分からない。
「――!」
そんな場合ではないというのに物思いにふけていると、広く開けた場所にでてしまう。
――しまった!
盾にできそうな木々もなく、隠れそうな大きな茂みもない。
振り向くと獅子との距離はあと僅か。
目標を仕留めんとする殺意の籠った目が合う。鋭く尖った爪と牙をこちらに向けて襲いかかろうとしている。
完全に噛み殺される死の気配――それが弥彦を駆り立てた。
――死ねない!
迷いを強引に払拭する。
走る獅子が後ろ脚をバネに跳んでくる。
弥彦を覆いつくすほどの巨体。それが胴体から肉を抉らんとばかりに大口を開け突進してくる。
弥彦は迫りくるそれを睨み、左手をかざした。
「ああああああああ!」
無色透明な共鳴石が、白く輝いた。それは瞬時にその場を真っ白に染めた。
音が消えた。そう知覚した後には光は収まり、景色が戻る。
跳びかかった獅子の顔はすぐ目の前にあった。
剥き出しの牙は左腕を捉え噛み千切る手前で止まっている。さっきの勢いはどこで死んだのか――獅子は目を急速に閉じてぐらりと姿勢を崩す。受け身を取ることもなく大きな音をたてて倒れ伏した。
――い、生き残れた……?
弥彦は肩で呼吸しながら驚愕に見下ろす。
失いそうだった左腕を思わず右手で握った。半信半疑な気持ちで獅子をじっと見つめる。目の前の獅子は倒れたまま微動だにしなかった。
自分の荒々しい呼吸がうるさいが、獅子はなにも反応を示さない。
まさか殺してしまったんじゃ……そう目を凝らしてみると呼吸で体を僅かに動いていることに心のどこかで安堵する。
だがまた目を覚ましたら襲ってくるかもしれない。
弥彦は手で口を覆って息を潜めながら静かに距離を置いた。
――初めて、異能を使った……。
この場面で獅子に太刀打ちできる異能であるのかどうか、賭けだった。
異能は個性がある。これが役にたたない異能だったらと思うと背筋が凍る。
「死ぬかと思った……」
思わず呟かずにはいられなかった。
少しずつ呼吸が楽にはなったものの、心臓が落ち着かず気持ち悪い。
だが、休ませる気が無いのか電子音が空から響いた。
「アハハ! よく生き残ったネェ!」
怒りしか湧かない声に、弥彦は自身の声を抑えながら空に向かって荒げた。
「あなたはいったい……何がしたいんですか……!」
「ククク、それはさっき言ったはずだよネ」
さっき言ったこと――気になった言葉があったはずだ。
「……〝ニエ〟ってなんのことですか」
「言葉の意味のことかイ? 煮込み料理ではないんだよネ~」
煮える、と掛けていると察したとき、弥彦は頭の血管が千切れたような錯覚を覚えた。
――それを言うなら、僕の気持ちの方が怒りで煮えたぎってますよ!
この悪意の塊のような相手に弥彦は体を震わせる。
「こんな状況でおちょくらないで下さい! こっちは本当に死ぬところだったんですよ⁉」
弥彦の怒りの声に、森が静まる。気分が悪い。怒りの荒波に心が乱される。
「僕が何をしたというんですか……死ななくてはならない事をいつしたんですか……碌な説明もなしによくもこんな事を……!」
言葉が止まらない――。
段々自分の言っていることもぐちゃぐちゃになりそうな不安にさえ襲われる。こんな混乱した状態で、どうすればいいのだ。
――だめだ……今は独りなんだ……生きるためには、よく考えないと……。
奥歯を噛みしめ、弥彦は必死に怒りを抑える。だがセツラは愉快そうに笑う。
「ヒヒヒヒ! イイネ! その調子だヨ! ボクの見込んだとおりダ!」
――!
堪えていた怒りが溢れる。それではだめだと腕に爪を食い込ませる。
――耐えろ!
その時、声が嫌な空気を切り裂さいた。
「貴様、なにをしてる」
通話の向こうから電子音に交じって、低い声が響いた。落ち着いた男の声だ。
「あ、おかえリ! 先にやってたんだヨ……って、チョットマッテ⁉」
全体的に早口で、明らかに焦っていたセツラ。それをよそに、一度ハウリングが鳴り響いた。耳を塞ぎ損ねた弥彦は頭が痛んだ。それから少しだけ間が開いて、低い声が話しかけてきた。
「来杉弥彦さん。夕凪鷹宗だ」
その言葉に、弥彦はぐちゃぐちゃになった感情がピタリと止まった。
――夕凪さん!
この声は間違いない。セレモニーの前に出会った声とも、その後に電話越しに耳にした声とも同じ声だ。
「私が君を呼んだことでこんな目に合わせてしまい申し訳ない」
その声にはセツラとは対照的に絶対の安心感があった。この人がいてくれたら大丈夫、なんてたって滅びそうになった大陸を救った黒の大侵蝕の英雄なのだ。そう直感で喜んだ。
だが夕凪の声は重々しく紡がれていく。
「残念なことだが、そこはまだ安全ではない」
「――え?」
希望が軽い音を立てて地に落ちた気がした。
「こちらのモニターで現状を把握している。その獅子のようなモノたちが君に勘付いている動きが見て取れる。端的に言えば、君はまだ死ぬ間際だ」
「そ、そんな……」
偶然に生き延びた――それが「次は無い」と天に見放されたような気分だ。
また襲われる、ということは、死が近づいていることに他ならない。
また異能を使う? いいや、異能は必ずしも意思通りに使えるとは限らない。ましてや訓練していない素人の危うさから、未成年の意図的な使用を国は推奨していない。最悪の場合、異能を使った副作用としてなんらかの障害を背負うこともあるのだ。
それなのに、まだなんとかして生きろ、と?
――そんなの、無理だ。
全身の力が抜け落ちそうだ……。
「だが諦めないでほしい」
夕凪は実直なまでの声質で言った。
「君にはその場で生き残る力が備わっている」
力って――。弥彦は力無くも問いかける。
「……異能のことですか?」
「そうだ。私が君を呼んだのは、その潜在能力が理由だ。君には特別な力を宿している可能性がある」
――特別な力……?
夕凪は真剣な声で言葉を紡ぎ続ける。
「残念ながら詳細を話す時間はない。だが、確かに言える事はひとつ。生きたいならば、生き残ることを諦めてはならない」
――!
生きたいか、死にたいか。その二つしか選択肢がないなら――いや、選ぶことができるなら、答えははっきりしていた。
――生きたい。
家族や友達にまた会いたい。生きていればこれから先、経験できるありとあらゆる出会いや可能性がある。そんな当たり前だけど掛け替えのない日々を失いたくない。
死ぬことで楽になることよりも、生きることに必死になりたい。
視線は、自然と天に向けていた。
「我々オリジンは早急に来杉さんの救出に向かう。その間、自衛のための異能の使用を許可する。健闘を祈る」
「はい!」
回線が切れる音が聞こえると夕凪の声は聞こえなくなった。
これからが、また正念場だ。
――こんなところで死ぬわけにはいけない。
生きる決意を立て直すと、弥彦は前を見据えた。
耳を澄ませ、視界を広げ、異変を逃すな。
神経を研ぎ澄ませながら、弥彦は獅子から遠ざかるように歩みだした。